寂しくなんかないよ


 いつも、何かがおかしいとは思っていた。この世に鬼がいるのなら、何百年と続いてきた鬼殺隊がなくなってしまうはずがない。この時代にきた二月からずいぶん経ち、季節も秋に変わるのに、鬼殺隊も藤の家も何もかも見つからないなんて、そんなこと。
 初めに見た鬼のお姉さんへの執着具合、その後に出くわす鬼の様子から見ても、あの人が稀血であることはきっと間違いない。だから特別襲われやすいことに大きな疑問はないけれど、それにしたってあまりに集中しすぎているような気もする。だって迎えに行ってそれから一緒に帰る間にも、家にいても、お姉さんから離れたところで現れた鬼を見たことがない、なんて。違和感を抱いてしまうけれど、今のところはろくに口を利ける鬼も現れないし、手がかりも何処にもない。
 ……ただ、俺を柱だと知っている様子の鬼が数体いて、僕はそれらを一度見たかのように感じてしまうことがある。かといって確たる証拠もないし、長らく朧げな記憶のなかで生きてきていたせいで、微かな記憶を追いかけて捕まえることがまだ上手くできなかった。そもそもここに飛ばされる前、柱稽古を始めたあたりからの記憶がぼんやりしていることも、僕は上手く思い出せないまま。掴もうとしても、するりと溶けて逃げてゆく。
 情けない。お館様に救われて柱になって、人に支えられて自分を取り戻して、それなのに僕はろくな恩返しもきっとできていない。それなのに、戻れない。俺が力不足なばかりに。焦りともどかしさが身体を駆け巡って、けれど。――能天気に笑う目の前の人を見ていると、すうっと心が軽くなるような心地がしてしまう、そんな僕がいる。
「無一郎くん、テレビつける?」
「僕はどっちでも」
「じゃあつけよっと! この時間なにやってたっけな」
 突然命の危機に晒され、僕という謎の人間の面倒まで見る羽目になってしまった非常に運の悪い人。それがこのお姉さんだ。
 あまりにも見慣れない場所に突然立っていて、よくわからない言葉を連発する見知らぬ人間、それもだいぶ煩いお姉さんに構っている暇なんかなくて、気が立ったままにきっとひどく冷たく接してしまったというのに。ありえないと切り捨てたっておかしくない僕の話を信じてくれて、助けてもらうのと引き換えだから、なんて言って僕の面倒を嫌な顔ひとつせず見てくれる。初めの態度を崩せないままそれを甘んじて受け入れている僕が言うのもなんだけど、ちょっとお人好しが過ぎる気がする。……だから。焦りももどかしさもあって、にこにこと常に笑って暮らすようなことはできやしないけれど、今は、今だけは。いつか戻れるときが来るまでは、こんな善良な人が救われるように、この人のお人好しが無駄になってしまわないように、せめてこの人の為になることをしていようと思うのだ。
 ――人のためにすることは、巡り巡って自分のために。

 お姉さんの細い手がリモコンを取り上げてボタンを押して、ぱっと明るくなった画面を一瞬だけ見遣ってから、箸を取って煮物に手をつけた。この人の料理はいつだって美味しくて、それを伝えると喜んでくれる、から。「おいしいね」と正直に感想をこぼすと、「ほんと!? 実は初めね、お砂糖を入れ忘れたんだけど……」なんてお姉さんの話が始まって、つい口元がゆるみはじめてしまう。いつも聞いてないような顔をしているけど、お姉さんの話はなんだかんだで面白いから実はきっちり聞いてる。恥ずかしいから言わないけれど。
「あれ、聞いてる?」
「そこそこに」
「相変わらずだなあもう」
 正直、罪悪感もある。皆が血の滲むような努力をして、鬼を根絶やしにせんと命を賭けて戦って、そんな中からおそらく僕だけが突然抜け出して、ゆるく生ぬるい生活を送っていることに。
 ――でも、だって、お姉さんが、嬉しそうにするから。この人を守ることだっていま俺がすべきことで、これは恩返しの一環なんだ。……そうやって罪悪感をぎりぎりのところで正当化してしまいながら、不思議なくらいに気を緩ませてくるこの人の笑顔と言葉に、たぶん僕は日々絆され続けている。

 と、そのときだった。いつも通りの食卓、いつも通りの会話。そこに割り込んできたのはテレビの音声で、弾かれたように僕は顔を上げた。
 ……いま。「産屋敷」と言った。聞き間違えていなければ、テレビから流れてきた単語は、確かに僕の知っている言葉だった。食い入るように画面を見つめていると、「こちらが最高齢記録を更新した産屋敷さんです!」と、背中を曲げた老人が微笑む姿が映し出されている。まさか、待って、まさか。
「……お姉さん」
「ん?」
「この人に会いたい」
「へ!? こ、このおじいちゃん!?」
 焦り出すお姉さんに対して、僕は妙に頭が冴えていた。静かに身体の内が震えていて、「僕、この人を知ってる」と呟いた声には抑揚がなかった。僕の言葉を受け止めたお姉さんは、しばし箸を止めて目を丸くして。ややあって「そっか」と小さく呟いて、「ちょっと待ってね」となにやら指を滑らせはじめている。
「……お姉さん」
「あー、やっとだね、やっと手がかりが見つかった……んだよね?」
「……うん、まあ」
「よかったよかった、ほんと、早く謎が解けるといいね」
 そう言ってにっこり笑いかけてくるお姉さんが、どこか寂しげだったのも。朧げに見えたこの日々の終わりはなによりも望んでいたものだったはずなのに、おんなじように微かな寂しさが芽生えてしまったのも。僕はなんにも見えないふりをして、コップのお茶を一気に飲み干した。


 ◇


 それから一週間後のこと、僕は立派な屋敷の前にいた。大正にいた頃も、今だって無縁であろうとんでもなく大きな洋館だ。その表札には「産屋敷」の文字があって、落ち着かない心臓が震え続けている。
 あの日いろいろ調べてくれたお姉さんはあちらこちらに問い合わせをしてくれて、その結果として、テレビに出ていた「産屋敷さん」に会えることになった。「時透無一郎、って名前出したら、なんか素っ気なかった産屋敷さんの……息子さんかな、の声色が変わったの。本当に知り合いだったんだね」とお姉さんは言っていて、たぶん、本当にお館様の家系で間違いないんだろう。
 ひとりで来てくださいと言われ単身で訪問した僕は、背広を着た人に連れられて屋敷に足を踏み入れた。お姉さんは仕事に行っているけれど、手土産を持たされ、それから朝のうちに「これ着ていきなさい!」と襟のついたシャツと洋袴を渡され、髪も軽く結ってもらっている。隊服の名残でゆったりした服ばかり着ているせいで、それも妙に落ち着かない心を助長していた。
 つまらぬものですが、とお姉さんに吹き込まれた通りのせりふで手土産を差し出すと、一度は断られたものの無事受け取ってもらえてほっとする。中身は何か知らないけれど、昨日のおやつがいつものお店の和菓子だったから、おそらくお姉さんが買いに行ってくれたんだろう。……もしかすると残りわずかかもしれないこんな時間すら、僕は世話を焼かれっぱなしだ。ここまで良くしてくれるお姉さんに、なんて言って別れを告げたらいいんだろう、なんてらしくないことを考えてしまっていた。
「こちらの奥にいらっしゃいます」
「……は、い。ありがとうございます」
 ぼうっと廊下を歩いていたところから引き戻されて、ちゃんと敬語使うんだよ、なんてお節介を焼くお姉さんの顔を思い出しながら、案内してくれた人に軽く頭を下げる。ずっと洋風だった屋敷の中に、突如現れたかのような襖がそこにはあった。「失礼します」とひとこと声をかけてから、上質な襖に手をかけて、おそるおそる、ゆっくりと開くと。その奥、切り取られたような和室の真ん中に佇んでいたのは、テレビで見たその通りの人。
「よくいらっしゃいました、時透様」
「……え、えっと、いや……」
 しわがれた声でそう言って、深々と頭を下げるその人……産屋敷さんは、よく話を聞けば僕の知るお館様の息子だそうで、それなのにずいぶんと腰が低いものだから困ってしまった。へりくだりたいのは僕の方なのに。
 そうして、一通り……といっても、稽古中に突然この時代に飛ばされて鬼を狩りながら暮らしている、なんてことしか言えないけれど。そんな事情を伝えると、疑う素振りもなく産屋敷さんは頷いてくれる。
「……それで。時透様は、あの時代に戻る方法や、鬼殺隊を探しておられるのですね」
「そ、そう……です」
「まず。大変申し上げにくいのですが、鬼殺隊は。九十年以上前に解散しております」
「え、解散……どうして、鬼がいるのに?」
「いえ……私の家系は責任を持って、何十年も鬼の調査を続けておりますが……解散してからというもの、一度も鬼は出ておりません」
 ――待って、いや、一体これは。解散? 鬼が出ていない? まさか。まさか、そんなはずはない。だって僕は現に、この世で鬼を斬っている。混乱して口をつぐんでしまったけれど、僕のそんな気持ちを汲み取ってのことか、「時透様のおっしゃることに偽りがあるなどとは考えておりません」と産屋敷さんは静かに首を振った。
「ただ……私どもでは本当に、鬼の存在は一切確認できておりません。故に何が起こっているのかというのは、すぐには……」
「……わかり、ました」
 また何かあれば、と連絡先の交換をして、今後は産屋敷家の方の調査や警備を徹底してくれると言う話になった。一歩進んだような、進んでしまった、ような。明確な道標はまだ見つからないけれど、道はつながりそうになっている。

 そうして。産屋敷さんの部屋を出る前、襖に手をかけた僕は、訊ねるかしばらく迷っていたことを口にする決意をする。恐ろしくて訊けなかったけれど、はっきりさせておいた方が、きっと。
「あの、もうひとつ、お伺いしたいんですが……」
「なんなりと」
「僕は……霞柱は」
「……」
「あの時代で、どうなっているんでしょうか」
 産屋敷さんは、静かに僕から目を逸らす。うつむいて、少しの沈黙が訪れて、けれど僕はただ答えを待っていた。
「匪石之心の輝きは、断じて潰えたりなど致しません」
「……え?」
「時透様はいつの世も、強く真っ直ぐな御方にございます」
 たくさんしわの寄った顔で、それなのに力強く光る瞳で、産屋敷さんは僕に微笑みかけてくれる。あたりまえ、だけど、お館様が僕にくださった温もりと優しさにそっくりで、それ以上僕は何も言えなくなってしまう。……何も、教えられないってことかな。そうやって消極的に捉えてしまう反面、力強い言葉のきらめきも確かに僕のなかに宿っていた。あの頃から思っていたけれど、お館様の――その息子さんも、つまりこの家系の人々の言葉には、不思議なまじないが息づいている気がする。

 屋敷を出るときはまた背広を着た人たちに見送られて、手土産がなくなって身軽になった僕は来た道をとぼとぼと戻っていた。結局、よくわからなかった。残念なような、どこか……ほっとしている、ような。
 ぶんぶんと首を振ってそんな詮無い考えを追い出してから、時間を確認してみる。まだ迎えまでは余裕がありそうだから、帰り道にあるすーぱーにでも寄って行こうかと思い立った。お姉さん、醤油がなくなったって言ってたし。「ひとりでお買い物できたの!?」なんて、バカにしたような、それでいてお姉さんにとっては本気の褒め方で褒めてくれるだろうし。





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