よくわからないよ


 あれから一週間が経つけれど、相変わらずの日々が続いている。ただお姉さんと歩く駅からの帰り道、人の気配をぽつぽつと感じるから、きっと産屋敷さんの宣言通りに調査や警備の方を置いてくれているんだろう。
 そして毎日ではないがやはり鬼は出て、それを目の当たりにした産屋敷家の方から「こちらでも調査してみます」と連絡をもらったけれど、それも報告待ち状態で、まだめぼしい情報は得られていない。
 お姉さんには、お館様の家に行ったあの日のことは「よくわかんなかった」とだけ言っておいた。きっとなにか言いたげだったけれど、「ちゃんとお話聞かなきゃダメでしょ」と肩を小突かれるだけで済んだ。ごめんね、お姉さん。本当はもっと言いたいことも訊きたいこともあるはずだ。でも半分はごまかすためでも、あとの半分くらいは本当で、僕もどうすべきなのか、どうしたいのか、よくわからない。
 ――早く戻らなくちゃいけないのに、僕がいなくなったら、この人は。

「無一郎くん」
「なに?」
「もしも、さ……」
 すっかり慣れた帰り道、ふたり並んで歩いていたのは街灯のない路地だった。いつかお姉さんが襲われかけて、僕が助けに入ったまさにその場所。あのときは本当に、さしてお姉さんに興味があったわけじゃなかった。突然知らない時代に飛ばされて、そんな中でどうしてだか優しくしてくれるこの人に、最低限の恩返しはしなくちゃと思って。俺がいるのに喰われでもしたら、恩を仇で返すようで寝覚めが悪いと思って。陽が落ちても帰ってこないから、必死に走り回ってその姿を探していたのを思い出す。
「……帰る方法、見つかったらさ……」
 月明かりが瞳に差し込んで、きらりと甘く輝いた。一瞬、遅れてしまった。そのうつくしさに視線を奪われかけていたせいで。

 音もなく背後に迫っていた鋭利な爪を、お姉さんを担ぐようにして飛び退いて間一髪かわした。小さく悲鳴をあげる彼女を下ろして背中にまわして、退がる足音を確かめながらすばやく刀を抜く。……こいつ、格が違う。今まで簡単に斬ってきた奴よりもきっと、強い。
「久しいな、柱」
「……君みたいな奴と顔見知りになった覚えはないけど」
 地の底から響いてくるみたいな声に、集中力を切らさないまま応える。こいつも、か。柱の存在を知っていて、なんとなく、本当に薄ぼんやり、相見えたことがあるような気がして。そしてその上、「久しい」と言った。つまり向こうも俺を知っている。それから、まともに口がきける余裕と知能。いつでも踏み込める構えを崩さないままに、何か情報を引き出せる可能性も考えて、その醜い姿を慎重に見据えて立つ。
「覚えは無い? ははは、随分と残酷に殺してくれたではないか、儂のことを」
「なんのことだか。まあそうか、弱そうだもんね、君」
「……舐めるなよ鬼狩り。貴様は儂の術中に居るのだぞ」
 ……来た。当たりだ。柄を握る手には自然と力がこもって、かちゃりと刀が音を立てて、心拍数が上がってゆく。
「もしかして。この時代に飛ばしてくれたのって、君?」
「ご名答だ。儂が遣うのは、時代を跨がせる血鬼術よ」
「……ふうん、じゃあ、君の頸を斬れば戻れるわけだ」
 構えて呼吸を整えながら、きらりと脳裏をよぎる記憶と、ほんの少しの躊躇が身体に走る。……戻るんだ。戻って、しまう。いや、僕が居るべき場所はここじゃない。あの時代、あの場所にある鬼殺隊だ。だって俺は柱で、お館様の為に――
「それは違うな」
「……違う?」
 戸惑って動きが止まるのを見越していたみたいに、その鬼は大口を開けて笑った。「何が面白いの」と眉をひそめると、ぎょろりと大きな目玉が僕を見据える。
「儂は死に際、貴様に最期の力で術を埋め込んだのだ。ただ、ただ、復讐のために。事実を知った貴様の絶望を観るために……」
「……死に際とか殺したとか、さっきから何を言ってるの? 君は現に生きてるのに」
「いいや、ずっと昔に死んでいるさ。儂も、お前も」
「……は?」
 背後にいるお姉さんの方に、びゅうと風を切る爪が飛んでいく。難なくそれを弾いてから、お姉さんだけ逃がそうかと思い至ったけれど、僕から離れた先に鬼が出ないとも限らない。たしかに厄介ではあるが、別段手を焼く相手ではないと判断して、このまま情報を聞き出すべくまた鬼に向き直った。
「関係のない人間に手を出すなんて、随分自信がないんだね」
「……哀れな女よ。鬼狩りに付き纏われているばかりに、鬼に見つかり危険に晒される」
 要領を得ない言葉と――絶えずまわしている頭の中で、ほんの少しずつ組み立ってゆく仮説。……お姉さんが狙われることに、僕が関係している? けれどまだ確信は持てなくて、募る苛立ちで太刀筋を乱さないように刀を握り直す。
「頭が良くないんだね君。もっと相手が理解できるように話したら?」
「それならば。その女を喰ってからゆっくりと話そうか、柱」
 刹那、目の前が怒りではじけた。――させてたまるか、そんなこと。衝動に突き動かされるように飛び出して、露出した奴の目玉をひと思いに突く。悲鳴をあげる鬼から一歩下がって、その姿を睨みつけた。
「……勿体ぶってると。復讐とやらの前に斬られて死ぬと思うけど」
 気色の悪い唸り声が響いて、ぼこぼこと目が波打ってゆっくりと再生されてゆく。お前なんかいつでも斬り捨てられる、そう突きつけるように構えれば、実力差は理解しているらしい鬼はようやく口を割る気になったようだった。元よりこいつは俺を殺せるとは思っていなくて、精神攻撃をして楽しんでいるように見える。底意地の悪い奴だ。けれど僕だってこいつの術中にいる以上、なにもわからないままには斬り捨てられない。
「血液に潜り込む儂の術は、宿主が死に瀕するほど弱ってやっと発動することができる」
「…………俺は、死んでなんか」
「動揺しているな? 記憶が確かでないのだろう」
 記憶。記憶を慌てて探る。柱稽古の最中だったんだ。誰かに呼ばれて……誰に? どこに向かっていた? じゃあ鴉は? そうだ、お館様が……いや、でも、僕は。掴めそうで掴めない、けれど大きく膨らみきった感情がそこにある気がする。そうしてそんな動揺を見透かしたみたいに、目の前で奴は笑う。
「儂と共に百年という時空を跨がせ、その先で死してなおお前を苦しめてやる手法を、お前の中で力を蓄えながら、ずうっと考えていた」
「……」
「なんっの興味もないような顔で儂を斬り捨てて、そんなこと、許してたまるものかと」
 ――執念か。きっと鍛治の里で僕が自分を取り戻す前、ただ無心で鬼を斬っていた頃に出会った奴なのだろう。けれど人を大勢喰って生きながらえてきたはずだ、どうあったって分かり合えない、刃を交えて敬意を抱くようなことだってない。
「するとどうだ、お前が息絶え儂の術で作り替えられ、百年後の同じ位置に飛ばされた先で、何の変哲もない女と偶然にも出会した。柱ともあろう者が生ぬるい情を芽生えさせ、滑稽で仕方なかったわ」
「……手短に頼めない? 話が長くてあちこちで嫌われてるだろうね、君」
「貴様……」
 軽口を叩いて易々と挑発に乗る鬼を見据えながらも、内心は焦燥がおさまらない。「それならば教えてやろう」なんて言葉に動揺し身構えてしまう自分が、僕は悔しくてたまらなかった。
「儂はお前の三里四方にしか鬼を出せはしない。どういうことか解るか」
「……っ、」
「お前の近くに居た所為で、そこにいる女は危険に晒された」
 ぞくり、なんて生ぬるい言葉で済まないくらいの悪寒。背筋を駆け抜けて震えて痺れて、呼吸が止まる。

 俺の中に棲みついたこいつが、僕の記憶から鬼を創り出現させていた、と。……そう、言っているのか。そんなこと不可能だと切り捨ててやりたいけれど、確かにそれらに襲われている。全部、辻褄が合う。合ってしまうんだ。
 しかもそれらは僕の周りにしか現れない。と、いうことは。守るつもりでお姉さんの側にいた、ほかでもない僕の周りに、鬼が現れていた。――哀れ。付き纏われているばかりに。お前の近くにいた所為で。取るに足りないはずの奴の声が、頭の中を駆け巡る。
「さすが柱だ、理解が早いなあ」
「……っ、黙れ」
 理解なんか、できていない。唇が震えて喉が窄んで、動かない。悦びをあらわにするこいつに、なにか言い返してやりたいのに。
 きっと後ろで立ち尽くしているさくらさんがどんな顔をしているのかわからなくて、怖くて、なにも、聞かれたくなくて。散らばる言葉は見つからなくて、ただ刀を握りしめて、ごうごうと血の巡る身体を落ち着けるだけで精一杯だった。





- ナノ -