これも捨てていいですか?


 あの後やっぱり「なんかいい匂いする」と煮物につられて起きてきた無一郎くんと食卓を囲んでから、お互いお風呂に入って、そして寝る支度をはじめた、わけだけれど。
「無一郎くん、やっぱりまだ起きてるの?」
「僕のことは気にせず寝てよ」
「でも……」
「そもそも今日はさっきまで寝てたし」
「そうなんだけど……QOLが下がるよこれは」
「きゅーおーえる」
 生活の質ね、と和訳すればああ、と納得したように頷いてくれたけれど、「別にそんなことない」なんて本人に言われてしまえばそれ以上なにも言えなくなる。
 このまま寝るのも忍びないなとあれこれ考えていたそのとき、クローゼットの近くに無造作に置かれた段ボールが目に入って。そこで、私は閃いたのだ。
「私も起きてる!」
「……ええ、なんで」
「明日も休みだし、やりたいことがあるので! はい決まり」
 ええ……と相変わらず微妙な顔をしている無一郎くんをよそに、その段ボールに歩み寄った。そう、元彼の荷物のお片付けである。
 別に、まだ好きだったとかそういうわけじゃない。お互い冷めかけてきた頃に奴が二股して、私から逃げるように別れてしまって、「荷物は全部捨てていい」なあんて言われちゃって、あんまりにも急な展開に放置してしまっていただけの話。
 無一郎くんが住むことが決まって荷物が置かれるようになったわけなので、無駄なものは捨てるに限る。……それから、誰かがいてくれる時の方がなんだか、楽しかった思い出にも立ち向かえるような気がして。
「……なにするの?」
「断捨離!」
「なあに、それ」
 ソファに座っていた無一郎くんも、段ボールを開けた私にぺたぺた歩み寄ってくる。「これをね、捨てちゃうの!」と言うと、彼は少しだけ目を丸くした。
「前の恋人の荷物でね」
「……ふうん」
「思い出にも決別しちゃおうってね」
「なるほど、ね」
 なにを思ったのか、元の場所に戻らず私の横にしゃがみこんだ無一郎くん。なんだろう、恋バナしてもいいんだろうか。しちゃおうかな。……ていうか、聞いてなかったなそういえば。
「ねえ、無一郎くんはカノジョいるの?」
「いないよ」
 よかった、置いてきちゃった恋人とかはいないんだ。一安心。ほっとしつつも恋バナを続けたくて「いたことはあるの?」なんて訊いてしまうと、「ないよ」とあっさり答えてくれる無一郎くん。
 まあそうか、大正時代って今より不純異性交遊とか厳しそうだし。……わかんないけど。そう思いながらひらりとTシャツを引っ張り出して、ぱさぱさと適当に振っているのを、無一郎くんはぼーっと見ている。
「……どうして別れたの?」
 私の方を見ないままに、無一郎くんがぼそりと呟く。へえこういうこと興味あるんだ、なんて思いつつ。本当のことを言うか少し迷ったけれど、まあ隠しても仕方ないなと、ちょっとだけ声のトーンを落としてつぶやいた。
「……二股されたんだよ」
「ごめん、二股、って?」
「あ、うーん、不貞って言えば判るかなぁ。私以外にも恋人がいて、そっちに行っちゃったの」
「うわっ、最悪だよそれ」
「だよねえ。で、私からはなんにも言えずにそのまま一方的にサヨナラだよ」
 今日無一郎くんに貸した洋服もだけど、このTシャツもなかなかにダサい。たしかこれは、大学生のころ友達とタイに行って買ったやつだとか言ってたっけ。チョイスが謎すぎる。……ああ、でも。面白いTシャツでしょー、なんて言って笑ってたのを、なんか、思い出して……しまう、なあ。
「これで、良かったのかなぁ……」
「……え?」
「え?」
 え、私、いまなんて言った? ふたりして顔を見合わせてしまうと、無一郎くんはぱちぱちと瞬きをくり返している。やだもう、私ったらなに言ってんのかな、夜中だからかも、ちょっとセンチメンタルになっちゃって。「ごめんねえ」と上擦った声で慌てて謝ると、無一郎くんはすこし黙り込んで、それから。
「良かったよ」
「……ん、え?」
「お姉さんがその時、そうしたいって思ったんでしょ。それで良かったんだよ」
 そう言って手を伸ばした無一郎くんは、段ボールから一枚、しわしわのワイシャツを取り出してきた。軽くはたいてから、「これは捨てるの?」と訊いてきて。
「……すてる。袋持ってくる」
「ん。それがいいよ」
 大きなゴミ袋を持ってくる道すがらカレンダーを覗き込むと、ちょうど明後日が布類の収集日になっていた。こりゃ気合いを入れないといけないなと、ひとつ深呼吸。
「はい! どんどん放り込んでくださいね!」
 がさがさと袋を広げてみせると、無一郎くんの目元がちょっとゆるんだような気がした。それからしわしわのワイシャツを丸めて袋に放り込んでくれるから、「ナイス!」と景気付けに声を上げると、「なにそれ」なんて言って無一郎くんは笑う。
 ごめんね、お洋服たち。君たちに罪はないけれど、もたもた置いておくより捨てた方がずっとスッキリするんだ。私のステップアップにどうか協力しておくれ。
 
 それから服以外にも、ゲームカセットとか本とかDVDとか、たくさんの雑貨も出てきた。元彼が勝手に持ち込んでいたから服ほど思い出のあるものは少なくて、「これ明日売りにいこ」とつぶやくと、「質屋に?」と無一郎くんが首を傾げる。
「質……いやそんな大層なもんじゃないよ。本とかゲームをね、サッと買い取ってくれるとこがあるの」
「へえ、すごいね」
「それで明日おやつでも買おう! コンビニスイーツ!」
 ――そうして。次に出てきたのは、手紙だった。だめだって、さっさと捨ててしまった方がいいってわかっているのに、ほんの少しの未練がじゃまをする。無一郎くんから背中で隠すみたいにしながら、おそるおそる開いた手紙には、少し特徴のある懐かしい字がずらりと並んでいた。あ、これ、やばいかも。最初の一行に目を滑らせて、すこし喉の奥が痺れてしまったその時、すっと手元から手紙は消えていった。……無一郎くんが引ったくっていったからだ。
「読みたい?」
「……読みたくない、のに、なんか読んじゃう」
「じゃあ僕にちょうだい」
「……?」
 首を傾げてしまうと、無一郎くんは「くれるなら僕が代わりに捨てる」なんて言う。それから「どうしてもって言うなら返すけど」と付け足してくれるから、ぶんぶん首を横に振った。そうだ、ねちねち過去に縋りたくて段ボールを開けたんじゃない。無一郎くんの優しさを受け取って「捨てるからあげる!」と潔く言い切ると、彼は何を思ったか手紙を折り曲げ始めている。きれいな折り目をつけながら「お姉さん、袋持って部屋の隅っこ行って」とベランダの窓際を指差すから、意味がわからないながらに従ってみると、無一郎くんのほうは玄関へと向かっていった。
 玄関ドアを背に立った無一郎くんの手にあったのは、紙飛行機。「え、紙飛行機折ってたの?」と問いかけてしまうと、「まあね」とちょっと得意げに笑うから、私もつられて頬が緩んだ。
「袋構えててね、いくよ」
 すっ、と軽い動きで飛び立ったそれが、ゆっくり部屋のなかを滑ってくる。まっすぐ、まっすぐこちらに向かってきた紙飛行機を、私はぽかんと口を開けて目で追っていた。袋の入り口を目掛けていたはずの先端は、飛びすぎたせいでベランダに繋がる窓の上の方にこつんとぶつかって。失速して袋の中に落っこちて、次の瞬間、私は思わず全力で拍手を贈っていた。
「えっ……め、めっちゃ飛ぶじゃん! すごい!」
「得意なんだよね、紙飛行機作るの」
「え、もっとやってよ!」
「いいよ」
 まだあった手紙とか、余っていたチラシとか、いらなくなったコピー用紙とか。紙類をあれこれ出してきて、無一郎くんが綺麗に折って投げて、飛ぶ姿を眺める私が笑い転げて。私も折ってみたくなって教えてもらったけれど、なかなか無一郎くんみたいには飛ばせない。「難しいでしょ」と得意げに笑う無一郎くんを見ていると、ほんの少し生まれていたもの悲しさなんてどこかに行ってしまっていた。
 紙飛行機が部屋にたくさん転がるころには、笑いすぎたあと特有の気だるさだけが身体に残っていた。無一郎くんがいてくれて、よかった。「それで良かったんだよ」なんて、ちょっと無責任で、それでいて迷いのない言葉が、私の真ん中で暖かく息づいていた。





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