あまいホットココア

がちゃり、我妻くんが家の鍵を開ける音が響いて、今更少し物怖じする。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、「やっぱり家まで送ろうか?」と問いかけてきた。
その時の我妻くんの顔は本当に心配そうで、一瞬でも疑ってしまったことを申し訳なく思う。
小さく首を横に振ると、我妻くんは少し安心したような表情で扉を開けて、先に中に入らせてくれた。「ありがとう、おじゃまします」と声をかけて、そっと足を踏み入れた。
背中の後ろで、重いドアが閉まる音がする。静かにパンプスを脱いで、揃えようと後ろを向くと、「俺がやるからいいよ」と手で制された。

「あんま綺麗じゃないけど、ごめんね」

そう言われて通された部屋は、きちんと整頓されている。男の人の部屋に入るのは初めてで、やっぱり少し足が竦んだ。

「あの…良かったら着替える?濡れちゃって気持ち悪くない?」

適当なトレーナーしかないけど…とタンスを開けて服を探す我妻くんを、返事もせずに見つめていたら、はっとして彼は振り返った。

「あっごめん!嫌だよね!男の家で服借りるとか…」
「あ、い、嫌じゃないよ…我妻くんさえ良ければ、貸してください…」

別れなよ、騙される男が可哀想。そう言われて強気で言い返しはしたけど、本当は心の奥底にある傷を抉られたような、心の暗い部分を掘り返されたような、ずっとそんな気分だった。

渡された紺色のトレーナーを受け取って、洗面所を借りて着替えると、思っていたよりだぼだぼで、当たり前だけど我妻くんの匂いがして、こんな時なのに跳ねる心臓を恨めしく思った。鏡を見ると、化粧は崩れて酷い顔。落ちたマスカラを指で拭ったりして、最低限整えてから出ると、ココアの甘い香りがした。

「あったかいココアいれたから、一緒に飲もう、瑠璃ちゃん」

そう言いながらローテーブルにマグカップを置く我妻くんの姿を見て、また涙が溢れてきた。我妻くんは、私の背中にそっと手を当てて、「とりあえず座ろっか」と優しく声をかけてくれた。

「…なんで?」
「え?」
「なんで我妻くんは私に優しくしてくれるの?」

借りた服を汚しちゃいけないと思いつつも、涙が止まらなくて、トレーナーの袖で目元を押さえた。背中に当てられたままだった我妻くんの手がぎこちなく動いて、私の背中をさする。

「瑠璃ちゃんが、俺の彼女だから…好きだからに、決まってるでしょ」
「…き、聞いてたよね、私とあの子の話」

我妻くんは、小さな声で「うん」と答えた。私が我妻くんを騙すような真似をしてたことも、それを他の人に繰り返していたことも、きっともうわかってる。

「私、ただ可愛くなりたかっただけなのに、たくさん間違えちゃった」
「間違ってなんかないよ」
「ううん…我妻くんを利用してたんだよ…ごめんなさい」

なんとか声を絞り出して謝ると、「大丈夫、謝らないで」と、ずっと背中をさすりながら我妻くんは言う。だけど、私の罪悪感は消えない。

「私、自分のために可愛くなりたかっただけなのに…こんなに傷ついて、色んな人に迷惑かけて、なに、やってるんだろ」 

すっかり緩んでしまった涙腺から、また涙が溢れてくる。
今度はその涙を、我妻くんの指が拭ってくれた。「じゃあさ、」と、少し低い我妻くんの声がして、彼は小さく息を吸い込んだ。

「俺のために可愛くなってよ、これから」

意味が分からなくて、え、と声を漏らして我妻くんと目を合わせると、今までに見たことがないほど真剣な顔をしていた。

「俺さ、すごく耳がいいんだ」
「…耳?」

突然なんのことだろうと首を傾げると、我妻くんは表情を緩めて、微笑んだ。

「心音とかがよく聞こえてさ、嘘言ってるかどうかとか、大体わかるんだけど…」
「そ、そんなことあるの…」
「いつも俺と話す時、瑠璃ちゃんからはすっごい考える音がしてたから、今までもなんとなくわかってたよ」

そう言われて、恥ずかしさから顔に熱が集まった。「ごめんなさい」ともう一度言うと、我妻くんの大きな手が私の頭を撫でる。

「だから、謝らなくていいの。瑠璃ちゃんが俺に可愛いと思われたくて頑張ってくれてるの、すごい嬉しかったんだよ」

本当に優しい笑顔で我妻くんがそう言って、胸の真ん中がじんわり温かくなったような気がして、思わず自分のスカートを握りしめた。「それに、」と我妻くんの言葉は続く。

「俺が可愛いって褒めた時の、瑠璃ちゃんの本当に嬉しそうな笑顔…俺、めちゃくちゃ好きだよ」

ぱっ、と視界が明るくなったような、そんな気がした。優しい我妻くんの声が、心の凍った部分に染み込むように広がって、ゆっくり、ゆっくり溶けていく。
何も答えられずに、依然スカートを握り締めたままの私の両手を、我妻くんがそっと撫でた。
ふっと力が抜けて、その手を我妻くんが取ると、私たちは向かい合って、見つめあった。
こんなにしっかり我妻くんの顔を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。その瞳があまりにも綺麗で、小さく息を呑んだ。
 
「これから俺がずっと側で、瑠璃ちゃんのこと可愛いって言ってあげる。わがままも全部聞いてあげる。だから瑠璃ちゃんは、俺のためだけに可愛くなって」
「我妻くん、」 

握られた両手が、熱い。そこから全身に熱が広がって、心臓がばくばくと動き出して。この人にならどうされてもいいや、と、思考の止まりそうな頭で考えた。

「…すき」
「ん?」
「わたし、我妻くんのこと、好きになっちゃった」

消え入りそうな声で伝えると、我妻くんはふふっと声を出して笑った。

「俺は前からずっと、瑠璃ちゃんが好きだったよ」

髪はきっとぼさぼさで、服だって地味な男物のトレーナーを着ていて、また涙が出てきてきっと化粧はもうぼろぼろだろう。
少しも可愛くないはずなのに、そんな私に我妻くんは「瑠璃ちゃん、ほんとかぁわいい」と目を細めて言った。




end


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