ブラックコーヒー


私はあの大学近くのコーヒーショップに来ていた。前の席には、珍しく同じ学科の女の子が座っている。
といっても、彼女は友達ではなくて、それどころか私に向けて、すごく険しい顔をしている。
アイスコーヒーをストローから吸い上げながら、「それで、お話ってなんだった?」と聞くと、彼女はその表情をさらに険しくした。

「春日井さんさ、人の彼氏盗って、散々貢がせてから捨てておいて、よくそんな呑気な顔できるね」

なんのことかわからなくて、「人の彼氏?」と聞き返すと、三か月前、我妻くんと会う直前に別れた先輩と、目の前の彼女は、付き合っていたらしい。

「私たち、あんたのせいで別れたの。あんたが彼を誑かしたから」
「誑かしたつもりなんてなかったけどなあ」

そう言うと、彼女は怒りに耐えるように歯を食いしばった。
そんな姿を見ながら私は、あーあ、もったいないな、ぐらいにしか思えなかった。目の前に座る彼女は、目はぱっちりしているし、すらっとしていて色白なのに、仕草が男みたいに荒々しい。肌も荒れているし、化粧だって似合ってない。赤いリップを塗りたくっているけど、きっともっと淡い色の方が可愛いのに。

「しかも、また新しい男と付き合ってるよね、人の幸せ壊しといてさあ」
「壊したつもりないよ。好きって言ってくれたのは先輩だったし、彼女がいたなんて、私知らなかったの」

そう言うと、彼女は私を睨みつけてくる。仕方なく「ごめんね」と謝罪すると、「そんなこと言って欲しいんじゃないの!」と言い返された。

「…私にどうしてほしいの?謝るぐらいしかできないよ」
「もうほんと、あんた人の神経逆撫でしてばっか!ちょっと可愛いって言われること多いからって、調子乗りすぎなんじゃないの?」

 そう言った彼女は足を組んで、大きくため息をついた。ふつふつ、言いようのない感情が、私の中に浮かんでくる。

「新しい男とも早く別れなよ。見た目だけ可愛く見せてるあんたに騙される男が可哀想だわ」

我妻くんのことにまで言及されて、ぷつん、と頭の中の何かが切れた。
黙って俯いて、手に持っていたアイスコーヒーを勢いよくテーブルに置くと、がしゃ、と残った氷が揺れる音がする。目の前の彼女が一瞬肩を震わせた。

「そうだよ、私は可愛いの」
「…は?何言って…」
「努力してるもん。いつも自分を一番良く見せるために、めちゃくちゃに努力してる。男性からの可愛いって言葉も、好意も、全部それの対価なの」

顔を上げると、突然語気を強めた私に驚いたのか、少し慌てた様子の彼女がいる。その様子を見ていると、益々腹が立った。

「あなた肌荒れもしてるし、メイクも服も似合ってないし、仕草だってちっとも女の子らしくない。可愛くなる努力をしてない相手に、可愛いことへの対価をもらってる私が、どうして責められなきゃいけないの?」

次の瞬間、彼女の方向から、ホットコーヒーのカップが飛んできた。幸いそれはぬるくなっていたし、もう残りも少なくなっていたけど、私の体にぶつかって蓋が外れて、白いブラウスに大きな黒いシミができた。

「ふざけないでよ!本当にあんた性格悪い!」

店中に響く声で叫んで、彼女は椅子を倒しながら立ち上がって、店を飛び出していった。
俯くと、ブラウスにできたシミはどんどん広がっていく。ざわざわ、店の中も騒がしくなって、私が注目を集めているのがわかる。涙が滲んで視界がぼやけた時、誰かに手を引かれて、私は立ち上がった。
そちらを見なくても、ふわっと香った匂いで誰かわかった。「すみません、片付けお願いします」と、近くに立ち尽くしていた店員さんに彼は声をかける。
その声を聞いて、一粒だけ涙が溢れた。彼は、席にあった私のカバンを掴んで、そのまま私の手を引いて店を出た。
少し歩いて店から離れたところで、彼は羽織っていたシャツを脱いで、私の肩にかけた。

「汚れちゃったの目立つから、とりあえずこれ着ておいてね」
「…あが、つま、くん」

堰を切ったように、涙がぼろぼろ溢れ出した。我妻くんは私の頭を優しく撫でながら、「家この近く?送るよ」と言ってくれた。

「そんな、近くないかも…電車、乗らなきゃ…」

なんとか答えると、あー…と彼は困った声を出す。この状態で電車に乗せるのは抵抗があるだろうし、私も少し嫌だ。

「俺のマンションすぐそこだから、良かったら落ち着くまで休もう。あ、あの、絶対何もしないから」

見上げると、我妻くんの目はまっすぐだった。
小さく頷くと、我妻くんはまた私の手を引いて、ゆっくりゆっくり歩いてくれた。




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