この小さな小さな駄菓子屋の番をしはじめて、ずいぶん時間が経った気がする。私が大好きな浦原店長は、ボクが戻ってくるまでよろしく、なんて言っていったくせに、一向に帰ってこない。
軋むシャッターを上げるのに慣れてきた私は、陽光を浴びて伸びをした。
大した事情も話さないのに、私が断れないのを知ってか知らずか頼んできたあの人のために、大学から帰ってきたら、小学生が来そうな夕方にお店を開けているテッサイさんの手伝いをしていた。土日はテッサイさんに頼まれた日だけお店に来ている。
「おねーさん、これちょうだい」
「はーい、100円になります」
男の子が握りしめていた硬貨は温かくて、でもその硬貨と交換に渡したお菓子を受け取った男の子の笑顔はもっと暖かかった。
私が好きな喜助さんも、暖かく笑う人だった。たぶん、恋人と思っても良かったような仲だったと思う。私だけがそう思っていたら寂しいけれど。
たくさん話を聞いてくれて、嬉しいときは一緒に笑ってくれたし、悲しいときはそんな気持ちもかき消す笑顔で抱きしめてくれた。私にとって、浦原さんの柔らかくて暖かい笑顔は、おひさまのようだった。好きだと囁いてくれるその声さえも暖かかった。そっと目を閉じかけた時、後ろからの足音に、はっと目を開けた。
「いつも済みませぬな。私にも家事や私用がある故」
「いえいえ、いいんですよ」
テッサイさんに笑いかけると、相変わらず感情を読みとりにくい表情のまま奥に戻っていった。テッサイさんは喜助さんの話をしようとしないし、「私用」というのは喜助さん絡みなんだろうと思う。
喜助さんが私に店番を頼んできたとき、彼はしばらく居なくなるということは私に伝えたのに、どうしてかは言おうともしなかった。
薄々勘づいてはいる。お店の奥にある変な機械とか、お店に出入りする現代的とはいえない装いの人たちとか、そんなものを見ているのを喜助さんは知っているはずだから、私が勘づいていることを、わかっているはずだ。
それなのに何も言わないなんて、よほど私は都合良く扱われているのか、信頼されているのか、どちらとも判断しづらい。信頼されている、と思っておきたいところだけど。
「おねーさん」
「…あ、夏梨ちゃん」
来客を感じて顔を上げると、黒髪の少女が立っていた。喜助さんと交流がある関係で数回話した一護くんの妹だと、ついこないだお店に来た時に聞いた。なにも買わずに帰っていったけど。
「…おねーさんは、浦原さんがどこに行ったか知ってる?」
「知らないよ」
にこにこしながら答えると、夏梨ちゃんの眉間のシワが深くなった。
「あんた、浦原さんの恋人かなんかじゃないの?」
「たぶん、そうだね」
「じゃあ、不安じゃないの?どこでなにしてるかわかんねーんだよ?」
ぐっと拳を握りしめたのが見えた。喜助さんがどこかに行ったということは、きっと一護くんも同行しているか、関係しているんだろう。彼女は自分が兄に抱く感情と私が喜助さんに抱く感情を重ねようとしているんだろうか。
「一兄は何も教えてくれない。納得いかねーんだよ…あんたは、つらく、ないのかよ」
夏梨ちゃんの様子を見ていると、心の中からいろんなものが出てくるのがわかった。喜助さんへの愛しさとか、尊敬の念とか、恋しさとか、寂しさとか。だけどその中に、喜助さんに対する負の感情はひとつもなかった。
「…私はね、それだけ信頼されてるんだって思っとくよ」
「…信頼?」
「うん。自分が何も言わずにどっかへ行っても、帰る場所になってくれるんだって思ってもらってるんじゃない?」
「…都合いい解釈」
夏梨ちゃんがぼそりと呟いた。そうだろうな、と思う。
だけど喜助さんは帰ってきたらきっと、あのおひさまみたいに暖かい笑顔で、長い間店番ありがとっス、なんて冗談めかして言うから、私は何も言わずに待とうと思うんだ。
「もやもや考えるより、都合よく解釈した方が、毎日楽しいよ。私は喜助さんが帰ってくるのが楽しみ」
「…なんか、そんなに歳変わらないのに、すごい大人だね、おねーさん」
むすっとしながらも口角を上げて私を見た夏梨ちゃんに、私も笑いかけた。
「これ1個ちょーだい」
「はーい、30円になります」
小さなチョコをひとつ買って帰った夏梨ちゃんの背中を見送りながら、私は沈む夕日のまぶしさに目を細めた。どこからかいい匂いがしてきて、そろそろどこの家も夕飯時か、と店先に座っていた私は腰を上げた。
「テッサイさん、そろそろお店閉めてもいいですか」
「はい。今日も助かりましたぞ」
いえいえ、と微笑んで、もう一度店先に出る。店の端に置いていた棒を掴んで、シャッターに引っ掛けてゆっくり下ろすと、キリキリ、と耳障りな音がする。
一気に下ろすと耳をつんざくような恐ろしい音になってしまうから、ゆっくり、ゆっくり下ろしていく。シャッターが自分の背丈ほどまで下がってきて、棒を床に置いてシャッターに手をかけた時。その手に、誰かの手が重なった。
びっくりして飛び退こうとしたのに、聞こえてきた声に体が固まって、それはかなわなかった。
「店じまいにはまだちょーっと早いっスよ」
指一つ動かせなかった。
全身の細胞が凍りついたみたいに言う事を聞かなくなって、かろうじて立っている足の感覚も消えていく。
私がそのままでいるのと同じように、声の主も動かない。もしかしたらさっきのは一瞬の幻覚だったんじゃないかと、思って。
ゆっくり、恐る恐る。首を捻ると、そこには思った通りの人がいた。
「……ねえ、おそいよ、お店、閉めちゃうよ」
「まだ閉めないでくださいよ、ボクが店番代わりますから、ね」
彼がシャッターを少し押し上げると、それは私の背丈よりまた随分高くなった。
「長い間、店番お疲れ様っス」
「労いより、感謝がいいな、」
声が喉に貼り付いてしまって、思うように口に出せたか不安だったけれど。彼は、浦原店長は、笑顔でゆっくりとうなずいた。
「待っててくれて、ありがとう」
なんだ、私、喜助さんに会ったら、その笑顔を見たら、泣いてしまうと思っていたのに。
てっきり心が麻痺していたんだと思っていたのに、そうじゃなかった。いや、仮にそうだったとしても、もう一度会えさえすれば、私はそれで良かったんだ。
もう一度その笑顔に包み込まれた喜びで、自然と顔には微笑みが浮かんだ。それに、緊張で頭から抜けていた、一番に言ってあげたかったことを、思い出して。
これさえ言えたら、よかった。ほかに言葉なんて必要ないんだって、心からあふれてくる笑顔に乗せて、声にした。
「喜助さん、おかえり」
20160817
鰤連載最終回を控えて。
浦原喜助のことが描かれなくても、
きっと彼を待ち続けよう。
そう思って書いたお話でした。
20200926
企画「夢女あきの里帰り」
参加のため改行のみ修正