春、待ちて




 もう一度逢いたいと、こんな身の上になっても願うことをやめられなかった。

 もう数えるのも億劫になるほど昔に後にした尸魂界には、沢山のものを置いてきた。挙げればきりがないほどに、沢山。けれどそのほとんどを、あるものは忘れ、あるものは諦め、あるものは方を付けてきた。後悔は残れど、どうしようもないのだと受け入れることだって出来るようになり始めている。
 ──けれど。いまだに記憶の隅、いっとう大切なところに残り続ける声が確かにあるのだ。僕はその記憶に、未だに縋り付くことがある。


・・・


「喜助さん! こっちですよー!」


 よく晴れた昼下がり、流魂街のはずれの草原。春風に揺れる草を掻き分けて歩くと、ぴょんぴょんと忙しなく飛び跳ねる影が見える。「ハイハイ、聞こえてますよ」なんて返事をしながら、歩みの速度を上げた。
 まどろっこしいが瞬歩は使えない。前に瞬歩で近付いてみたところ、死神でない彼女はたいそう驚いてしまって、挙句そのまま気を失ったことがあるからだ。「本当に危ないときしか使わないで」なんて釘を刺されてしまったし、嫌われてしまえば元も子もないわけで。少しのもどかしさを引っ提げて歩きながらも、まあこんなのも悪くないかもなと考えた。


「久しぶりの喜助さんだ」


 一歩ずつ、着実に距離を詰めた先に立っていた彼女──なまえサンは、そう言って柔らかく微笑んだ。春の陽射しがよく似合うと思った。


「……スミマセン、なかなか来られなくて」
「あ、やだ、そんなつもりで言ったんじゃないんです」


 慌てたみたいに顔の前で手を振るから、わずかに湧いていた罪悪感は萎んでいく。良かったっス、そう微笑み返せば、安心したように彼女は肩の力を抜いた。


「今日は、お仕事でしたよね」
「そうっスね……スミマセン、少ししたら行かないと」
「ううん、いいんです。合間を縫って来てくれただけで、本当に嬉しい」


 僕たちの関係には名前はついていない。否、つけていない。けれどもしつけてやるとするならば、恋人だと、そう言っても良かったのだろうと思う。僕の自惚れでなければ。
 流魂街に住む霊力のないなまえサンと、護廷十三隊の隊長をつとめる僕。虚に襲われかけた彼女を助け、そのお礼をしてもらって──そんな些細なきっかけから惹かれあい、仲を深めてきたけれど。お互いよくわかっていた。きっと誰もが苦い顔をする、この関係に名前をつけてはいけないのだと。


「あ、そうだ。前に話したお店で、お菓子買ってきたんスけど……食べます?」
「本当ですか? ありがとうございます!」


 霊力がなく腹は減らないはずだけれど、なまえサンは食べることが好きだった。そして僕も、彼女が幸せそうに何かを食べる姿が好きで。草の背が低くなったところに二人並んで腰掛けて、ちらと目を合わせて笑い合う。それから美味しそうにお饅頭を頬張って、「ねえ喜助さん」となまえサンは話しはじめた。


「次はどこか出掛けたいですね」
「ありゃ、もう次の話っスか? なまえサンってばせっかちっスねぇ」
「ふふ、この間は喜助さんがそうだったくせに」


 そうでしたかねぇ、なんてわざとらしくとぼけながら、なまえサンにゆっくり手を伸ばす。風に攫われて頬にかかる髪を指先で掬うと、擽ったそうに彼女は肩をすくめた。

 どこに行きたい、何をしたい、次の逢瀬に想いを馳せたそんな話をぽつぽつとしながら。「じゃあまたこの場所で」と小指を絡めたその日、まさにその時が最後になろうとは、僕もなまえさんもきっと、微塵も思っていなかっただろう。

 あんなにも簡単な約束も守れなかった。あの流魂街の隅、ちいさく暖かな陽だまりにまた身を寄せるどころの話、ではなくて。魂魄消失事件を機に僕は、尸魂界にすら足を踏み入れられない身となってしまった。そこで、彼女とのすべてが終わった。何もできなかった。何も返せなかった。

 なまえサンのことを知るのは夜一サンくらいのもので、いま瀞霊廷に居る死神にはきっと彼女の存在は知り得ない。つまり僕が、自業自得とはいえ結果として濡れ衣を着せられたとか、どんな処罰を受ける羽目になったか、なんてのは伝える由もない。
 けれど……不幸中の幸い、と言うべきだろうか。もしも仲が知れ渡っていれば、彼女は不本意であるが大罪人の証拠として捕らえられる可能性だってあったわけだが、現状そうなりはしないだろう、と。確証はなくとも、そう思えるだけの条件が揃ったことだけが救いだった。「来られなくなったら、殉職したと思ってください」──そう言った時、彼女はひどく怒っていたけれど、そう思ってくれていればいい。彼女の中の僕が、きれいなまま消えられたのならそれでいい、そう思う他ない。

 きっと僕は死んだのだ。あの日、なまえサンの中で。


・・・


 
 寂れた駄菓子屋の窓から見える初春の空は、憎たらしいほど青く大きく広がっている。ここ数日どうしてだか研究にも行き詰まって、それから日課のように青い思い出を振り返ってしまって。その心労たちは、何十回目かのため息になって漏れ出していった。
 時間が解決してくれると、此処に来たばかりの頃は思っていた。──それがどうだ。何十年という時を経て、目まぐるしく移り変わる現世を眺め続けようとも、引き摺った鎖は千切れない。思い出は色褪せない。焦がれる想いは消えてくれない。

 気分転換にと店先に出ると、まだ少し冷たい風が吹き抜ける。がらんとした店の前にひとりの女性の後ろ姿があった。平日の昼下がりは滅多に客は来ないし、店番をしていた鉄裁サンはきっと裏の掃除でもしてくれているのだろう。
 店に用がある一般人だろうか、それとも……。念のためほんの少し身構えた、けれど。その立ち姿からは霊圧の類は微塵も感じられず、そしてきょろきょろと所在なさげに辺りを見回しているところを見ると、道に迷った一般人──というところだろうか。少し迷ってから「何かお困りっスか?」と声をかけてみる。彼女が振り返った。


「あっ、こちらのお店の方ですか?」


 ──頭を思い切り殴られたような、そんな衝撃だった。


「ちょっと、道に迷ってしまって。この辺り人通りも少ないし……」


 見覚えがあった。聞き覚えがあった。……いや。覚えだなんて、生易しいものでは断じて無い。僕はよく知っている。毎日のように思い出しているのだから。


「……なまえサン」


 何度も何度も永く追い求めていた、まさにその人が立っていた。つい名前をこぼして手を伸ばそうとすると、「え、何か言いました?」と彼女は首を傾げる。瞬間、頭の芯が冷えた。

 いや、そんな筈がない。こんなことが起こる筈、ないでしょう。一瞬でも我を忘れかけたことを恥じながら、いえ、と小さく返す。せめて真摯に応じようと帽子をはずして、軽く頭を下げた。


「スミマセン。簡単な道案内でよければ、アタシがしましょうか」


 そう笑みを貼り付けて言う。顔を上げると、彼女は僕にもわかるくらいはっきりと息を呑んだ。
 彼女のまるい目が見開かれて、抑えられた口元では白い手が小さく震える。……冷えた頭の芯が、また熱を持ち始めてしまう。


「あの、ものすごく変なことを、言っても良いでしょうか」
「……はい、なん、でしょう?」


 じわり。何十年も触れられなかった心の奥底、何かが溶け出すような気がした。
 やたらに聡い僕の脳が、そんな筈ないとまだ囁きかける。僕が消えて数十年、そのあいだに彼女の魂魄が現世に送られ、また変わらぬ容姿で生まれ落ち、美しく成長して、再び僕の前に現れるなんてこと。あり得ない、考えられない。そう思うのに、この高鳴りを否定する術を持ち合わせてはいなかった。
 

「私、どこかで、あなたに逢ったことが……」
「……はい、」
「きすけ、さん、ですか……?」


 無意識に止めていた息を、ひどく緩慢に吐き出した。取り繕うことも忘れたまま立ち尽くして、そんな僕を、それから彼女を柔い風が撫ぜていく。そうして久しく機能しなかった涙腺が緩みはじめる心地がして、それくらい、本当に。なまえサンの声が、もう二度と聴くことのないものだと諦めたその音が、僕の名前を紡いだことが、切なくて苦しくて、愛おしかった。
 どこか不安そうに僕を見つめる彼女に、ひとつ頷いてみせる。ほっとしたように表情を緩めたけれど、何故だかその瞳は泣きそうに揺れたように見えて、締め付けられた胸はほんの少しの喜びを滲ませていた。

 彼女が過去をどこまで覚えているのか、何を知っているのか、今はどうだってよかった。少しでも、ほんの少しでも僕に会いたい想いを抱えていて、この邂逅を噛み締めてくれているのなら、どうだって。
 

「……久しぶり……って、言っても、いいんでしょうか」


 もう一度、頷いた。そうだ、僕は。いつだってなまえサンを長いこと待たせて、会うたびに彼女は「久しぶり」と笑って。謝る僕を、慌てながらもきっぱりと否定するのだ。いつも、ずっと、そうだった。


「……スミマセン。すぐに、見つけてあげられなくて」


 春はもう、すぐ其処まで来ている。そのちいさな足音を聴きながら、まっすぐに彼女を見つめた。


「喜助、さん。……そんなつもりで、言ったんじゃないですよ」


 その朗らかな声に、鮮やかで柔らかな笑顔に、ふわりふわりと揺れてかがやく髪に。きっと、色褪せない春の陽射しはとびきり似合ってしまうのだろう。僕はそれを、きっと誰よりもよく知っている。



20200203
long time no see!さま 提出作品




prev next
back



- ナノ -