まだ聴こえない蝉時雨
ちりりん、と耳に小気味よい音が届く。
その音に誘われるように喜助さんは縁側にやってきて、ぱちくりと音の元を見つめる。
「風鈴…っスか」
「風鈴っスよ」
呟いた彼に口調を真似て返すと、くすりと笑う声がした。
ぱたぱたとうちわで顔を扇いでいると、すぐ横の床が少し軋んだ。
「夕涼み、ボクもご一緒させて下さい」
「どうぞどうぞ」
流石にいつもの羽織は暑いようで、羽裏によく似た木賊色のような甚兵衛だけを身につけた彼は、その袖を肘あたりまで捲りあげている。
今日はまだ五月だというのに30度に届こうかという真夏日で、慌てて風鈴を出してきたのだった。
「季節が流れるのは早いっスね」
「すごく暑いせいでそう思うだけだよ、まだ五月なんだから」
「ありゃ、そうでしたね。どうも、部屋に篭りっきりじゃあ季節の感覚もなくなっちゃうんスよねえ」
言い終えてため息をつく彼は、すっと目を閉じる。
薄暗い中に彼のまつ毛がふわりと浮かんだような感覚に襲われて、そっと息をついた。
「風、気持ちいい」
そっと呟いた喜助さんに倣って、私も目を閉じる。
微かな風鈴の音と、鼻をくすぐる夏の匂い。
あの、夏祭りが終わったあとの帰り道に薫る、少し寂しさを呼び起こさせるような、そんな匂いだった。
うちわを握って膝に置いていた手に突然熱を感じてぱっと目を開けると、夏の匂いが瞬間煙草の香りにすり変わった。
「っ、喜助さん、いきなり」
「いやぁ、つい」
これ見よがしにため息をつくと、喜助さんはくつくつと低い声で笑った。
「寂しそうな顔してるなあ、と思いまして」
「…なんだか、夏の匂いって、もの悲しくない?」
「んー、どうしてっスか?」
一瞬目を伏せてから、思い切りぬるい空気を吸い込んだ。
喜助さんの視線を感じる。
「お祭りの帰り…って、寂しいから…夏の夜の匂いは、それを思い出して」
「…なまえサン、可愛いこと言うんスね」
「か、可愛い!?どこが!」
風向きが変わったのか、風鈴の音に合わせて煙草の香りが鼻腔を刺激した。
「毎年、お祭りの帰りは、ボクもいるじゃないスか」
「…それでも、なんか、終わっちゃったなあって感じが」
「んー、成程」
ちらりと喜助さんを盗み見ると、優しげにこちらを見つめる視線とかち合う。
しばらく見つめあってから、喜助さんがゆっくりと口を開いた。
「それじゃ、お祭り行った後は、続きしましょうか」
「…続き?」
「ハイ。2人で、お祭りの続きやりましょ」
なおも首を捻る私の髪を少しだけ指に絡めてから、優しく笑った。
「なんでもいいんス。手持ち花火でも、なんでも。なまえが、寂しくなければ」
「喜助さん」
「寂しいと思うこと、ボクと一緒に減らしていきましょ。ひとつずつ、ね」
どうして私が、こんなにも優しい人に好かれて、こんなにも優しくしてもらっているのか全くもってわからない。
それでも黙って愛を享受することが、喜助さんへの一番の恩返しになるであろうことを、私はもう学んだ。
「ありがとう」
「いーえ」
また床を軋ませて立ち上がった喜助さんは、私にそっと手を差し出す。
その手を取るとぐいと持ち上げられ、ふわりと抱きしめられた。
「あんまり涼むと、逆に冷えちゃいますよ。戻りましょうか」
「はあい」
間延びした返事に満足したように笑う喜助さんを見て、あったかいなあとぼんやり思った。
20160522
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