薄氷から真っ逆さま




 もぞもぞ、毛布のかたまりが動いて、その端っこからサラサラの黒髪がすこし覗いている。すっかり朝日に染まった寝室で、「真冬〜」って何度目かの呼び出しをしてみるけれど、返ってくるのは相変わらず唸り声だけだった。
「そろそろ起きよ、真冬」
「ん〜」
「先に家出ちゃうよ」
「やだ」
 くぐもった声のわがままを受け取って思わず吹き出すと、するりと毛布がずれて、真冬の目元があらわれる。でもまだ、口元は毛布で覆われたまんま。まぶしかったのかぎゅっと眉間に皺が寄って、それから私を見つけるみたいに視線がぶつかるから、「おはよ」って声をかけた。私も朝はそう得意じゃないけれど、依然ご機嫌ななめな真冬には断然負ける。寒いせいもあるのか、今日は特に寝起きが良くないし。
「さみ〜 ……暖房ついてる?」
「寝室は消しちゃった。リビングはあったかいよ」
「……ムリ……」
 むりかあ、と笑って、それからベッドに歩み寄って。くしゃくしゃの前髪を撫で付けるようにおでこに触れると、どこか気持ちよさそうに目を細めるその仕草ですら愛おしかった。白い枕にゆるく散らばる真冬の髪は、光をあびてうっすら透けている。思わず視線を奪われていると、「ねーなまえ」って私の名前を呼んだのは、まだ寝ぼけた色を残した真冬の声。
「なに?」
「ちゅー……」
「ん、なんて?」
「ちゅーしてくんねーと、起きれねーかも」
 ……えっ、かわいい、ずるい。
 ぐっ、ときてしまった一瞬の表情を真冬は見逃さなくて、じっとり、沈んでしまいそうな瞳で私を見つめてくる。……甘やかしてあげたいのは山々、けれどここで要望に応えたら、ちゅー、だけじゃ済まなくなるんじゃないだろうか――。そろそろ時間に余裕がなくなってしまいそうな朝のひととき、妙な駆け引きでじわじわ心臓が縮んでゆく気がする。
「……や、だめ」
「……」
「今ここでちゅーしても起きないでしょ、真冬」
 少しの葛藤のあと、心を鬼にして出した答え。「え〜……」って真冬の眉がへにょりと曲がるけれど、だめだめ、ここから引き摺り出すのが先だ。なんだかんだ真冬はいい子なのだ、こうやってゴネはするけれど、最後には渋々折れてくれるのがいつものこと。
「ふとんから出てきたらしてあげる」
「けち」
 けれど、すかさず返された悪口に笑ってしまったのも束の間。「じゃー起きてやんねー」って、真冬は目元まで毛布を被り直してしまった。
「え! ちょっと、まふゆ」
「……」
「起きてよ〜」
 髪を撫でたりしているあいだ、ベッドに引き摺り込まれないように、と警戒していた私は、さっきまではほぼ無意識のうちにしっかりと身構えていた。けれど真冬が隠れてしまうから、毛布を引っぺがしてやろう、と焦りのままに乗り出していて――しまった、と思った時にはもう遅い。 

 ほんの一瞬の油断が命取り。
 ぐいっと思いきり腕を引かれて、バランスを崩した足元を真冬の脚で掬われて、傾いた身体に腕を回され引き寄せられて。カーテンの隙間、さしこむ直射日光に目が眩んだ。半回転した視界はさっと暗くなって、身体はすっぽり包み込まれて、じわりと沁み込む体温、そして真冬の匂いに力が抜けそうになるのは、もう自分じゃどうにもできない反射みたいなものに違いない。敵ながらあっぱれ、いや敵じゃないんだけど、あまりに鮮やかに閉じ込められてしまった。
「や、やられた……」
 ぎゅ、と抱きしめられて、わずかに姿勢を変えることすら許してくれないままに、「勝ったわ」って真冬がつぶやく。なんだかたいそう満足気に。そりゃあ真冬に本気を出されたら勝てないし、うんうん、すごいんだけど、それはそれとして。
「真冬、」
「オヤスミ」
「だめだめだめ」
「別によくね、殺されたことにしとこーよ」
「シャレにならない言い訳だ……」
「実際いま俺に殺されたじゃん」
「死んでないよ!」
 喉の奥で笑った真冬にわしゃわしゃ髪をかき混ぜられて、なだめるようなその仕草に居た堪れなくなる。真冬、ってまた呼んでみると、特に意味も込めないふうに名前を呼び返された。……どうしよう、どうしてくれるんだろう、なんか離れたくなくなっちゃいそうでだめだ、ちょろすぎるかな。
「ねえ真冬」
「ん」
「今からちゅーしたら逃がしてくれる?」
「むり。却下」
「だよね……」
 心なしか力のこもった腕に抱きすくめられながら、ぱちぱち燻る愛おしさを無碍にはできなくなってゆく。
 ――わがままはエスカレートするから、はじめのうちに聞いておくに限るな、と。そう身をもって学んだけれど、もう今はどうにもできないのかもしれない。



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