さいごのゆびきり




 はじめてレノくんと会った日のことを、わたしはよく覚えている。それはこれからもきっと色褪せることはなくて、それくらい、君とのはじめてはわたしにとってとびきり大切なものであり続けるのだと思う。
 ほんとうに幸運なことに、レノくんにとってもわたしとのはじめては大切なものらしくて、そうなれたことが心から嬉しかった。けれど大切にしているぶん、気に掛かることだって増えてしまうのが、人間というものなのだろう。

 重なった休日、外出許可を取って手に入れた非日常。きっと周りにはもうバレバレとはいえ恥ずかしくて、わたしたちはわざわざ別々の時間に基地を出て、近くの駅前で待ち合わせた。もう当たり前みたいに手を繋いでいちにちデートをして、「……この後、どうしますか」なんていつまでも不器用な誘いかたにふきだしそうになりながら、ふたりきりになれる場所に吸い込まれて――それから。ふだん姿を見ていても触れられないぶんを埋めるみたいに、君のことだけを考えていられる限られた時間に追いすがるみたいに、わたしたちはただひたすらにお互いを求めあった。

 楽しいときほど儚く過ぎてゆくもので、気付けばもう、戻らなくてはいけない時間になろうとしていた。胸焼けしそうなくらい甘ったるい一瞬を終えて、ぽつぽつ話をしつつ身支度を整える。こういう場所ならではの大きな鏡台の前に立って、かるく化粧を直しながら、後ろにいるレノくんを鏡越しにそっと盗み見てみた。ペットボトルの水を勢いよく流し込む姿ですらなんだかかっこよく見えて、なんとなく視線を逸らした、けれど。逃げあぐねた視線はかんたんに捕まって、見つめていたことがバレてしまうのがちょっとだけ気恥ずかしい。

「レノくん、今こっち見てたでしょ」

 先手必勝とばかりに振り返ってそう言えば、レノくんはすこし固まったあと、「そっちこそ」なんて眉をひそめる。細かいところで案外負けず嫌いで、けれどそれを隠しきれない彼が愛おしいと思う。口元をむずむずさせる様子からして図星のようで、好きで仕方ないのはお互いさまかもしれないな、なんて自惚れさせてくれるのだって好きなところだった。

「結構、負けず嫌いですよね」
「え、わたし?」

 そうですよ、なんてレノくんの返事に、おんなじことを考えてたんだとふきだせば、レノくんはかるく首をかしげる。

「間違ってないかもだけど、それはレノくんもじゃん」
「……別に、そんなことないですけど」
「あるよー、そんなこと。はじめてじゃないのがイヤだって言ってたの、負けず嫌いでしょ」
「それは……まあ」

 言い淀んだレノくんに笑いかければ、「でも、そりゃそうですよ」なんて形のいい唇が尖る。もうこういうことは何度目かになるけれど、“はじめて”のときレノくんがぼそりとこぼした言葉は、ちいさなトゲみたいにわたしの心に残り続けていた。「俺がはじめてだったらよかったのに」なんて、そんな言葉。

 わたしはレノくんよりいくつか年上で、付き合ったひとも、そういう関係になったひともいる。けれどレノくんはわたしがはじめてで、だから、同じだったら良かったのに、と。お互いはじめてだったら良かったのにと、そう言ったのだ。
 わたしもちょっとだけそう思ったけれど、もちろん過去のわたしだって中途半端な気持ちなんかじゃなかった。だから後悔することは、そのときのわたしを否定してしまうみたいで、もしかしたら、未来のわたしまで否定してしまうことになるのかもしれないって、ほんのすこし複雑で。自分で蒸し返しておいてモヤモヤしているのがばかみたいで、かるく首を振った。

「でも。もう、レノくんだけなのに」

 自分にも、そしてレノくんにも言い聞かせるみたいにそう言って。「これから、ずっと」そう付け加えれば、レノくんは大きく目を見開いて、ぱちぱちと瞬きをくりかえす。それからすこし見つめあって、はっとしたように顔を背けたレノくんの表情には照れが滲んでいるような気がして、口元がゆるみかける。薄くかかりかけていたもやがゆっくりと晴れていくような心地がして、ちいさく息をつく。

「それでもイヤ?」

 うっ、と言葉を詰まらせたレノくんを見ながら、いじわるな質問だなあ、と他人事みたいに考える。でもなんだか、反応のひとつひとつがかわいくて、やっぱり年下の男の子らしくて、ちょっとからかってみたくなんかなったりして。きっとレノくんに言ったらまた怒ってしまうだろうけど。
 見つめる先のレノくんが軽いため息をついて、おもむろに立ち上がって。無言でずんずんと向かってくる姿にうろたえる暇もなく、まるでぶつかるみたいな勢いで抱きついてくるから、「わっ」なんて情けない声をあげてよろめいてしまった。

「レノくん」

 後ろからすっぽり包まれるようなかっこうになりながら、その腕に軽く手を添えて名前を呼ぶ。すると応えるみたいに腕の力が強まって、ふと鏡に視線を向けてみれば、うつむいたレノくんの顔はさらりとした髪に覆われてしまっていて。けれど覗いた耳は、ほんのすこし、赤く染まっているような気がした。

「嫌です」

 ぼそり、つぶやくみたいに耳元で響く声。反射的に心臓は跳ねて、けれどその声の響きは拗ねた子どものようなそれで、きゅっと胸の奥が狭まるような心地がした。かわいい――そう言いかけたわたしの言葉が止まったのは、首筋に当たった柔いぬくもりのせい。

「ぜんぶ俺のじゃねーと、嫌です」

 今度は、もっと。どくんと脈打つ心臓が、触れた場所から全身を火照らせる。さっきぜんぶ溶けだしてしまったはずの熱が、またすぐに身体にこもってゆくような気がして、鏡にうつった情けない顔の自分から目を逸らす。

 変えられないこと。もう取りかえせないこと。生きている限り絶えはしない後悔を握りしめることなんて、昨日もこれからも数えきれないくらいにあって、けれど。誰ともつきあっていなければ、もっと早くレノくんに出会えていたら、なんて、今までにないくらいに悔やむ気持ちを止められなくて、ぐらぐら揺れて割れそうに痛む心が、やっぱり、いつかの幸せだったわたしを否定してしまう。もう戻れないのならせめて、君のどうしようもないわがままも抱きしめられるくらい、強くいられたらよかったのに。

「……嫌かあ」

 かすれかけた声に、せいいっぱいの笑い声を乗せた。息が止まりそうなときの中、「ん」と短く響いたのはレノくんの返事。もうじゅうぶんなのに、もっと力を込めてぎゅっと抱きすくめられて、肩口にぐりぐり擦り付けられる髪がくすぐったい。「もう」とついこぼれた声は、今度は本当の笑い混じりのそれだった。

「くすぐったいよ」
「しってる」
「じゃあやめて」
「やめねえ」
「なにそれ」

 こぼれる笑い声につられるみたいに、レノくんの肩も揺れている。顔を上げて見た鏡のなか、いまこの瞬間のわたしが、泣きそうな顔で笑っていた。
 レノくんの動きがぴたりと止まって、それから。頬にあつい手のひらが添えられて、ひとりでに視線が斜め上を向く。透きとおった紫に射抜かれる。どこまでもきれいな瞳が、とびきり愛おしそうにわたしを見つめて、わたしだけを映している。ぜんぶ、ぜんぶがどうでもよくなってしまいそうだった。いつだってそうだった。喉につかえたなにかが、ゆるく溶け出していく。

 そばにいることすら正しいのかわからないこの世界で、もう、恋なんてしないつもりだった。それでも、理屈にならないくらいに惹かれて、君との明日のために強くなりたいと思えて、この体温が重なる一瞬を永遠にしてしまいたいと、そう思うことをやめられなくなっていた。抱く感情だって思いどおりにならないことだらけで、けれど、それでも構わないぐらいに。そんなふうに思えるのは、レノくんがはじめて。レノくんだけで、きっとレノくんで最後。もうとっくにぜんぶ君のものだから、どうか、ずっとこのまま。



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