夜明けまで




 時間とはひどく残酷なものだと、近ごろはいっそう強く思うようになった。それは否応なく流れ、生じた隔たりは決して埋まることはない。──六千年という、気のとおくなるような時間を生きたまさにそのひとのそばにいると、その残酷さが身にしみるのだ。

 照明のおとされた部屋は、窓から差しこむ月光にうすく照らされている。首筋に唇がおとされて、呼吸が浅くなる。今まさに夜がはじまろうとしている中で、どうしてだか、私は過去に想いを馳せることをやめられなくなっていた。
 時折やってくる。こんな、どうしようもない痛みが。私が鍾離先生と重ねた時間は、鍾離先生がいままで過ごしてきた六千年とくらべてしまえば、波に攫われる砂粒のひとつに過ぎないようなものだろう。仕方がないことだった。どうしようもないことだった。けれど仕方がないと、どうしようもないと、そうやって呑み下してしまうことができないときがあるのだ。
 六千年という時の流れのなかに、私の知らない鍾離先生がいる。きっとたくさん笑って、泣いて怒って苦しんで、そうしてそこには、鍾離先生に寄り添ってきたひとがいる。当然ながら、そこに私はいなかった。……私はどうして、彼のとなりにいられなかったのだろう。そんな詮無いことを考えて、悔やんで嫉妬して、そうして虚しい夜は更けてゆくのだ。


「……鍾離先生」


 ──しまった、と心臓が震えたのは、つい名前を呼んでしまったその直後。口付けがおとされる瞬間だったのに、ぴたりと鍾離先生は動きを止めた。きっと、私が思っていたよりもずっと、弱々しく情けない声が出てしまったからだった。私を見つめていた瞳が見開かれて、熱とはまるでちがう色を滲ませる。


「……どうした?」


 ぬるく掠れた声を向けられて、ことばがつっかえる。異変に気づかれてしまった焦りと、どうこたえればいいのかわからない戸惑いと。なんでもないんです、そう言いたかったのに、声にすれば涙が出てしまいそうな、そんな痺れが喉にはびこっている。


「……なまえ」


 ひとこと、名前を呼ばれた。……その、途端。暗い寝室にさしこんでいたわずかな光たちが、目の前のあたたかな橙が、いっせいにぼやけてしまった。目元が一気にあつくなって、止めようにも止められなくなった涙が、こぼれおちる。慌てて顔を背けようとしたけれど、頬に添えられたあつい手がそれを許してはくれなかった。


「せんせい、」
「なまえ」


 鍾離先生がふたたび私の名前を呼ぶその声は、なにより甘くうつくしい。抗えるはずがない。凝り固まった不安が、どろどろと融けだしてくるような心地がした。すこしだけ身体を起こした彼に「何か気に障ることでもあったか?」と問いかけられて、慌てて首を横に振る。


「ちがうの、……違うんです、わたし、」
「ゆっくりでいい」


 すっと背中に手を回されたかと思えば、いとも簡単に身体を起こされて。向かいあうような姿勢でゆるく抱きしめられて、とんとん、やさしく背中を叩かれる。まるで子どもをあやすようなその仕草にすこし情けなくなったけれど、それよりも。乾いたこころが潤うみたいに、どうしようもない苦しさが和らいでいくのがわかった。


「……鍾離先生、の」
「ああ」
「どうして、私は……鍾離先生のそばに、いられなかったんだろう、って」


 また目元がじわりと熱くなって、声がつっかえて。やさしく髪を撫でつけるようにされて、促されるみたいに鍾離先生の胸に顔をうずめた。「私、もっといっしょにいたかった」ぐちゃぐちゃで散らかった気持ちをかき集めて、無理やりに声にする。鍾離先生は何も言わないけれど、きっと、しっかりと聴いてくれている。


「私、鍾離先生のこと、もっと知りたかった。私のしらない先生が、たくさんで、……つらい」


 目を逸らせなかった。真剣な視線に捉えられたまま、こぼれる涙に構いもせずに唇を噛む。すると指先がゆるく頬を撫ぜて、それはそのまま柔く、やさしく咎めるように唇にふれていった。


「なまえ。お前しか知らない俺が、此処にいるが」
「……っ、」
「それだけでは足りないか?」


 恋は、ひとを欲張りにしてしまう。細められた視線に射抜かれることも、その瞳にいま私だけが映っていることも、ほんとうに、ほんとうに私を満たしてくれるのに。──そんなことはないです、そう答えられない自分が嫌だった。
 沈黙を肯定ととったのか、鍾離先生がゆるりと睫毛を伏せる。頬をつたう涙を拭ってくれる指はあたたかいのに、もしかして呆れられてしまうんじゃないかって、そんな不安がじわりと胸に広がってゆく。


「……俺は」


 口を開いた鍾離先生の声は、何かを思案するような色を滲ませていた。縋るように彼の胸に手を当てると、するりとその手を取られて握られる。


「あらゆることを経験し、感じてきた。長く生きてきて、お前に話し切れていないことも沢山ある」
「……はい」
「お前が不安を抱いてしまうような事柄も、長い時の中に一切なかったとは言えはしない」


 ずくん、と胸が痛んで、つい目を伏せてしまった。けれどすぐに頬に手を添えられて、みちびかれるように顔を上げる。ふっと緩んだ鍾離先生の瞳は、はちみつのように甘ったるくとろけていた。


「しかしそれは、かつての俺だ」


 なまえ、と。また名前を呼ばれる。鍾離先生に名前を呼ばれることが私はいっとう好きで、とびきり幸せで。それを知ってか知らずか、鍾離先生はいつも本当にたくさん、私の名前を呼んでくれる。今も、そう。愛おしさを溶かして煮詰めてとじこめたような、とても自分の名前とは思えないほどうつくしい、そんなきらめきを湛えた響きが私の鼓膜を震わせる。ちっぽけなこころに触れられて、それはおおきく揺れ動いた。


「今ここにいる俺が……凡人の“鍾離”が。愛しているのは、お前ひとりだけだ。後にも先にも、な」


 まっすぐ、まっすぐに視線を注がれている。その瞳から伝えられる愛も、ことばに込められた想いも、私をつつむ鍾離先生の温もりも、ぜんぶがいっせいに襲いかかってくるものだから。受け止めきれずにそれはまた、涙になってこぼれおちていった。
 ──愛している。お前ひとりだけ。くらくらするような声が頭のなかでこだまして、ゆるりと降ってきた口付けに目を閉じるのが遅れてしまった。すると鍾離先生はほんの少しだけ唇を離して、「目を開けてくれ」とささめく。ゆっくり、ゆっくりと瞼を上げれば、とびきり美しい石珀色と視線が絡みあった。ひとりでに呼吸が浅くなって、触れた唇が溶けてしまいそうな熱を孕んでゆく。
 うすく開いた隙間から、舌がすべりこんでくる。その間もずっと視線はほどけなくて、いつもきつく目を閉じてしまう私にとって、これはすこし、いやかなり、刺激が強すぎる。耳元まで響いてくる心臓の音にたまらず目を閉じると、すり、と先生の指が目尻を撫でる。どうしたって逆らえない私は、また目を開けるほかなかった。


「いい子だ」


 ぞくり、甘い痺れが背筋にはしる。それはまるで麻薬のように身体にひろがって、頭の芯からとろけてくるような心地がして。恋焦がれるその瞳に間近で見つめられて、舌を絡めとられ咥内を荒らされて、頭がおかしくなってしまいそうだった。
 息が、できない。絶え間ない口付けに翻弄され、流しこまれる唾液を飲み込むのに精いっぱいなのに、あいまに名前まで呼ばれてしまえば、そんなの。早すぎる鼓動が呼吸すらさえぎって、口の端から唾液がこぼれおちていくのがわかった。
 ……きっと。きょうの夜が明けてしまうまでには、まだたっぷりと時間があるのだろう。



◇ ◇ ◇




「……俺も、俺の知らない、出会うまえのお前を恋しく思うことがある」
「え、」


 朝食を並べているとき、先に席についていた鍾離先生に突然にそんなことを言われて、ついお皿を取り落としてしまいそうになった。鍾離先生の発言が唐突なのは、今に始まったことではないけれど。先に目が覚めて布団を抜け出して、ともすれば昨夜の熱を思い出してしまいそうになりながら、ごまかすみたいに朝食を作りすぎてしまって……起きてきた鍾離先生とろくに目を合わせられずにいた、そんな矢先のことばだったから。自分のみっともなさとか、意識を手放すように寝てしまう前のこととか、そんなことを思い出させてくるような話題選びに、ついつい身体を硬くしてしまったのだ。
 鍾離先生がそんなことを思ってくれるなんて、と。そんな思いも同時に芽生えてきて、私とおなじ気持ちがあったことに驚きとすこしの嬉しさも滲んでくる。頭のなかがぐるぐると忙しなくて、どう返事をすればいいのかと口籠もっていれば、鍾離先生がことばを継いでくれた。


「それなのに気付いてやれなくて、すまなかったな」
「そ、んな、鍾離先生があやまることじゃ……」


 ぶんぶんと首を横に振りながら、先ほど取り落としそうになったお皿を机にそっと置く。そこに乗った黄色がまぶしいだし巻き卵は私の得意料理で、そうだ、もっとずっと前、鍾離先生が褒めてくれた料理だった。だし巻き卵だけじゃない。私が料理を振る舞うたびに、鍾離先生は褒めてくれた。なにをどんなふうに褒めてくれたか、確かに覚えている。ぜんぶ、ぜんぶ私のたいせつな記憶だった。

 ふと顔を上げれば、鍾離先生が私を見つめている。やさしい瞳だった。やわらかな朝日に照らされてきらめいて、その光はまっすぐに私に注がれている。私、だけに。鍾離先生が今この瞬間に、こんなにも温もりに満ちた表情で見つめる相手はきっと、私しかいないだろう、と──そう自惚れてしまいそうなほどの、甘く思いやりに満ちた視線だった。


「過去に目を向けることは大切だ。お前が望むのなら、時間を見つけてゆっくりと話してやろう。それに俺も、お前の過去について聞きたいと思うことが沢山ある」
「……はい、ぜひ、お話しさせてください」
「ああ。だがこれからお前の隣で流れゆく時も、いずれは過去になるものだ。だからこそ、俺は過去と同じくらいお前とのこれからも大切にしたいと思っている。……どうか、俺と共に歩んでいってはくれないだろうか」


 ──時間とは、ひどく残酷だ。否応なく流れてゆく。生じた隔たりは、埋まらない。けれど時間が積みかさねたものは、確かに此処に残るのだ。否応なく流れて、生じた隔たりが埋まらないからこそ、手放したくない記憶がつよく濃く焼きついて、ひとはそれを大切に抱えて生きてゆくのだろう。
 よろこんで、と。つい笑みが溢れて、けれど今にも泣いてしまいそうになりながらひとつ頷くと、鍾離先生はいっとう嬉しそうに微笑んだ。
 もう夜は明けている。まばゆい今日がここにある。いつかずっと未来に今日を思い出すときも、光があふれんばかりのすてきな日常のなか、ほかでもない鍾離先生のとなりにいられたら。



20220306



prev next
back



- ナノ -