香る春先、うずく胸
私と磯貝くんは仲がいいほうだと思う。
好きなアーティストの話もするし、漫画の貸し借りもするし、一緒に帰ったりもするし、寄り道もしたことがある。
だけど、それ以上にはなれないんだって、わかっていた。
「みょうじ、これ、ありがとな」
ぼーっとしていた私の視界に、見慣れた漫画が映る。
あっ、しまった。CD、忘れてきた。
「ごめん、私、忘れちゃった」
磯貝くんはいつもいつも律儀に返してくれるのに、私はといえばいつも遅れてしまう。
ダメだなあと思うが、磯貝くんが困ったように笑って許してくれるから、直らない。
それに…借りたCDや貸した漫画が、磯貝くんと私を繋いでいるんだと思うと、その繋がりを切りたくない、なんて考えてしまう。
我ながら、ばかばかしい。
「明日持ってくるね、CDと、漫画のつづき」
「ありがとな、でも、いつでも大丈夫だぜ」
「いーや、だめ。ちゃんと持ってきます」
「まあCDは良いとして、俺も早く続き読みたいしな」
「次は5巻かあ。5巻は見どころ多いから、読み終わったら話そうね」
「ん、わかった」
にこっと笑った磯貝くんは、私に背を向けて自分の席に戻っていく。
もしも私が彼女だったりしたら、待って、まだ行かないで、なんて呼び止められるのかな。
授業始まっちゃうし、駄目か。
付き合ってるの?なんて聞かれることがたまにあるけど、そんなことは全くない。
付き合っているように見えるというのはなんだか嬉しいが、同時に惨めでもあった。
だってもう、私は振られているんだから。
望みなんてないじゃない。
4月になっても桜なんて咲かなければいいのにと、のうのうと立つ木を睨みつけた2年の3月。
新学期から毎日、山を登ってこの旧校舎に通わなくてはいけないことが、自分の努力不足とはいえ、本当に苦しかった。
ぼんやりとボロボロの校舎を見つめていると、後ろから聞こえた声に、肩が震えた。
「あれ、みょうじ…?」
「い、磯貝、くん…!?」
そこに立っていたのは、成績は悪くなかったはずの磯貝くんで、思わず私は目を瞬かせてしまった。
「な、なんで、ここに」
「いや、バイトがばれちゃってさ…」
はは、と笑いながら頭を掻く磯貝くんに、そっか、と言い返して私は俯いた。
一目惚れ、だった。
2年のときに廊下で思いっきりぶつかって、チャイムが鳴っているのなんか気にせずに荷物を一緒に拾ってくれて、何度も大丈夫?と心配してくれた。
ありきたりな心遣いが、私にはすごく痛くて、そこから恋が始まった。
すれ違うたびに挨拶をしてみたり、なにかしら接点を作ろうと必死になっていたのにE組に転級になって、もう彼には会えないかもと絶望していた、のに。
一年間同じクラスだなんて。
にわかには信じられなくて、どきどきして、口から心臓が出るんじゃないかと思った。
いや、実際私は、ここで口から心臓を出して、死んでいたのかもしれない。
「…磯貝くん、」
「ん?」
「好きです」
それはごく自然に零れ落ちた。
簡単に言えば、調子に乗っていたのかもしれない。
同じクラスだとわかって、しかも名前を覚えていてもらえたとわかって。
訪れた沈黙の中、ひゅう、とまだ冷たい風が吹き抜けて、私の言葉を掻っ攫っていった気がした。
「…ごめんな、みょうじ、俺まだみょうじのこと、よく知らないから」
顔を上げると、困った顔の磯貝くんと目があった。
そこで初めて、私は自分がしたことの愚かさに気づく。
「ご、ごめん、そうだよね、私、何言って、」
おでこや背中、あらゆるところがすっと冷えて、じわりと汗が滲んだ。
ばかだ、私。仲良くなろうと思っていたのに、なんで距離があくようなことをしたんだろう。
「ごめん、みょうじのこと、嫌いなわけじゃないんだ」
「うん、ごめん、」
「だから、まず友達から始めないか?」
少し離れたところにいた磯貝くんが歩み寄ってきて、手を差し出される。
視線を彷徨わせていると、手汗が滲んでいたであろう私の手を、彼は掴んだ。
「一年間、よろしく」
磯貝くんの優しさに、社交辞令に、私は震える声で一言答えるのが精一杯だった。
「…よろしく」
その言葉通り、私たちは友達になった。
仲のいい、友達に。
だけど、友達から始まって、その先なんかない。
友達で終わるのは目に見えていて、あんなことを口走った自分を心の底から恨んだ。
だって、あの時何も言わなければ、順調に仲良くなって、いい雰囲気になってから告白して、うまくいっていたかもしれない。
「みょうじちゃん」
ぼーっと宙を見つめていると、視界に赤い髪が映り込んだ。
そのすぐ後、かしゃりと変な音が鳴る。
はっと目を見開くと、その髪の持ち主、赤羽くんは笑った。
「みょうじちゃんのマヌケ顔ゲットー。何に使おうかなー」
「なっ…ばか、赤羽くん、消して!」
「やーだね」
立ち上がって携帯を奪い取ろうとするも、赤羽くんの身長と手の長さには敵わなくて。
それでも諦めずぴょんぴょんやっていると、赤羽くんはいたずらを思いついた子供のような顔をした。
「そーだ。磯貝に見せよっか、これ」
「えっ」
私の裏返った声を聞いて、赤羽くんはまた笑う。
顔に熱が集まるのがわかって、たぶん顔は真っ赤だ。
なにこれ、赤羽くんに、磯貝くんのこと好きだって教えてるみたいじゃんか。
「磯貝っ」
私が固まっている間に、赤羽くんは携帯を磯貝くんにパスした。
それはナイスパスで、綺麗に磯貝くんの手に収まってしまう。
「カルマ、なんだよこれ」
「いいから、見てみ」
声も出せず真っ赤になって固まっている私が見えたのか見えていないのか、磯貝くんは一瞬躊躇うような素振りを見せた後、携帯の画面に視線を落とした。
ああ、あんなマヌケ面。
写真写りもいい方じゃないのに、最悪だ。
顔を覆い隠そうとした瞬間、磯貝くんの笑い混じりの声が、はっきりと私の耳にも届いた。
「なんだこれ、かわい」
見ると、口元に手を当てて、携帯画面を覗き込んでいる磯貝くんがいた。
予想外の反応に驚いているのは私だけじゃなくて、隣の彼も同じで、しばらく目をぱちぱちさせていたが、すぐにいつもの笑顔に戻って私に耳打ちした。
「よかったじゃん」
なにそれ待って、赤羽くん、知ってたの?
そんなことを考えながら、携帯を返してもらいに行く赤羽くんの背中を見つめていると、その肩越しに磯貝くんと目が合って、思いっきり逸らしてしまった。
かわいい、なんて言われたら、目も合わせられないのは当然じゃないですか。
「みょうじ、一緒に帰ろうぜ」
いつもと変わらない調子で、磯貝くんは私に声をかける。
恥ずかしくて断りたいと思ったが、頭が回らなくて普通に頷いてしまった。
「よかった。俺ちょっと用事あるから、待っててもらってもいいか?」
今度はこくこくと二度頷いて、磯貝くんの笑顔を見届ける。
ごめんな、と彼は謝ったが、磯貝くんと一緒にいられるだけでもいいなんて思う私は単純だ。
自分の机に腰掛け、ひとつ息をついた。
いつまで経っても、磯貝悠馬という人間は魅力的で仕方が無い。
それは友達としても、言わずもがな、男性…としても。
人気者の彼と毎日話せて、仲良くできて、本当に私は幸せなんだと思う。でも。
この気持ちを捨てきれない私が、可愛いなんて何気ない一言で期待してしまうような情けない私が、友達でいていいのか。
心臓がどきどきと主張をはじめる。
とっさに気持ちを口に出してしまったあのときの自分のことを思い出すだけで、叫びたくなるほどに恥ずかしい。
その恥ずかしさや、この情けない期待や気持ちを消すには、もう一回告白して、潔く振られてしまう方がいいんじゃないか、なんて、考え始めてしまったから。
「ごめんみょうじ!お待たせ!」
突然開いた扉にびくりと肩を震わせ、そのまま衝撃で私は立ち上がってしまった。恥ずかしい。
「だ、大丈夫、」
「どうした?そんなびっくりして」
あなたに告白することを考えてました!なんてとてもじゃないけど言えるはずなく、私は曖昧に笑った。
「じゃ、帰ろっか」
「うん、そうだね」
教室を出ていく磯貝くんの背中を追いかける。
なんだか磯貝くんを視界に入れるのが恥ずかしくて、自分のつま先を見つめて歩いていると、頭に衝撃が走る。
「っわ…!?」
あまりにぼーっとしていたせいでバランスを崩し、その場に呆然としたまま座り込んでしまった私に、優しい磯貝くんは視線を合わせた。
「だ、大丈夫か…?」
磯貝くんも背中が痛かっただろうに、私のおでこをさすってから、手を引いて立ち上がらせようとする。
そこまで来て、自分の心音で目が覚める。
こんなときまでどきどきする自分が情けなくて、磯貝くんの手を解いて立ち上がった。
「や、やっぱり、私ひとりで帰りたい気分かも、ちょっと、ぼーっとするから」
「は?ちょ、みょうじ、」
「ごめん、ばいばい」
ローファーを慌てて足にはめると、右足だけうまく履けずにかかとを踏んでしまったが、気にしている暇はない。
磯貝くんが呆然としている隙に上履きを下駄箱に押し込む。
我に返った磯貝くんの声を背中に走り出そうとした私は、右足のローファーが脱げて、格好悪くすっ転んだ。
「みょうじ!」
下が草だったおかげで、膝への痛みはそんなにない。
そんなことを冷静に考えていられたのは、磯貝くんの手が私の腕に触れるまでのわずかな時間だった。
「大丈夫か?座れる?」
体温が上がる。
私は頷きもせずに、できるだけ磯貝くんの腕に頼らないようにしながら、その場に座った。
「こんな危なっかしいんだから、別々に帰るなんて余計無理だろ。今日は送ってくから、」
「い、磯貝くんには、関係ないじゃん」
異様に跳ねる心臓のせいで、言葉がうまく継げない。
喉まで熱くて、脳みそまで熱くて、体が話すなと言っているようで。
「…私の彼氏でもないのに?送ってく、とか、おかしくない?おかしいよ」
「みょうじ、」
「なんでなの?私、ここで、ふられたよね。磯貝くん、私のこと好きじゃないのに、でも私はずっと好きなのに、なんで、」
磯貝くんの顔は見れない。
心の中の気持ちが、勝手に漏れた。
本当にずっと、優しくされるのがしんどくて。磯貝くんは私のことが好きでそうしているわけではないのに、そんな仮初のことで喜ぶ自分が、いつも、情けなかった。
「私が、磯貝くんの優しさに甘えてたのがだめだったね、ごめんね」
磯貝くんはいつだって優しかった。
ほとんど知らない女子に告白されたって、突っぱねずに仲良くしてくれた。
今日まで何度も、こんな私に優しさをくれた。
「…みょうじ」
磯貝くんの手が、私の腕から離れた。
馬鹿みたいに目頭が熱くなって喉が焼けるような感覚になって、それでも涙はこぼすまいと必死にこらえる。
「いくつか、勘違いしてるよ、みょうじは」
「…え?」
恐る恐る磯貝くんの方を見ると、しゃがんだままうつむいていて、表情は確認できなかった。
「…俺が、ちゃんと言わなかったのが、悪いんだろうけど」
そう言ってため息をついてから、磯貝くんは私と目を合わせた。
すごく、すごく、真剣な顔。
手を握られて、泣きたい気持ちは消えていたけど、溜まっていた涙だけが一筋流れた。
「好きだ、みょうじのこと」
「え、」
「だけど、その…告白、されてから、みょうじの俺への気持ちが、ずっと一緒だとは限らなくて…それで、なんていうか怖くて、言えなかった…本当に、ヘタレだな、俺」
ごめん、と苦笑いした彼を、表情を変えることもできずに私は見つめた。
口が半開きになっていそうな気がしたが、なぜだか閉じる気力も湧かない。
「でもさっき、みょうじが好きって言ってくれたから、今こうして伝えられた…男らしくなくて…ごめんな」
磯貝くんの手の力が強くなる。
何か言わなきゃと口を動かすと、上唇と下唇がくっついた感触がした。
ああやっぱり半開きだった。
「あと…俺は、告白されたときから、みょうじのこと、気になってはいたんだ」
ひゅ、と空気を吸い込んでしまう。
私きっと、ずっと変な顔してるだろうに、目が逸らせないから、顔もそらせない。
「でもさ、挨拶とかしてくれてて、その…可愛いな、とは思ってたけど、よく知らなかったのは本当だし、そんぐらいで付き合うの良くないかなってさ」
一瞬目をそらして、彼は手を離して頭をかいた。
だけどまたこっちを見つめるから、心音は落ち着かない。
「俺の生真面目さが、逆にみょうじを傷つけたよな。…今日まで、ごめん」
「…ごめん、」
「なんで謝るんだよ」
やっと出た私の声に、磯貝くんは笑った。
でもその声がかすれていたから、小さく咳払いをすると、また磯貝くんのターンになる。心臓が持たない。
「遅くなったけど…みょうじさえ良ければ、俺と…付き合ってください」
「…う、うん、磯貝、くん、」
さっきの咳払いの甲斐あってか、今度ははっきりとした声が出る。
だけど、磯貝くんの言葉をよく理解できなくて、意味の無い言葉しか紡げない。
「じゃあ…送ってくよ、彼氏なら、いいだろ」
「か、かれし?」
「か、彼氏、じゃない?」
ここでようやく私の脳が働いた。
磯貝くんに、私の、想いが、通じた。
「彼氏、かも、彼氏…」
「かも、ってなんだよ」
「わ、わかんない、どうしよう」
座ったままあたふたする私は、恐らく顔も真っ赤だ。熱くて仕方ない。
そんな私の頬に一瞬触れてから、磯貝くんの手が私の頭を撫でた。
「落ち着いて」
「お、落ち着かない」
目を合わせてもダメだし、視線を落としても磯貝くんのどこかが目に入る。
私のずっと片想いしてた人が、彼氏、って言った。たかがそれだけ、されど。
そこまで考えてから、ぐいと磯貝くんに手を引かれて、私は立ち上がった。
「よかった、さっきこけたとこ、ちょっと汚れたぐらいで」
「あ、うん」
真っ赤なまま必死に首を縦に振る私を見て、磯貝くんは笑う。
その笑顔があんまりにも優しくて、ぎこちないながら、一緒に笑った。
今でも、このときのことを悠馬にからかわれる。
自分が不意打ちしたくせに、私が悪いんじゃないのに。
でも真っ赤になって喋れなかったのは事実だし、反論はできない。
「なまえ!聞いてる?」
「え?あ、ごめん、ぼーっとしてた」
「相変わらずだな、本当に…今から入学式なのにそれじゃ、友達できないぞ?」
「相変わらず磯貝くんは失礼だね」
「みょうじにだけな」
わざとらしい呼び方をしたらそっくり返されて、私はため息をついた。
新しい同じ制服を着て、並んで歩く。
唇を尖らせてみているけど、本当はこんなやり取りもすっごく幸せ。
悠馬はそれがわかっているみたいで、目を細めて私に笑いかけてくれた。
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