甘くてすっぱい




空っぽの机を見つめて、なまえはため息をついた。
席が隣で喜んでいても、その席の主が登校して来なければなんの意味もないわけで。
殺せんせーが来てからは暗殺が楽しいようできちんと学校に来ていたが、それでも彼は周りの生徒と比べると休みが多かった。

「はあ…」

最も、彼がいても自分から話しかけることなんか、到底できないわけだが。

「…さん、みょうじさん」

「は、はいっ!」

「どうしました?ぼーっとして」

我に返ってなまえが慌てて前を向くと、殺せんせーが自分を見つめていて、クラスメイトの視線までもがなまえに集中している。
顔に熱が集まるのがわかって、大丈夫です、と俯きながら告げると、簡単な問題を答えさせられた。
こんなときカルマくんがいたらなんて言ったんだろう、とまた彼のことばかり考え始めてしまい、もう一度ため息をこぼす。
紛れもなく、これは恋煩いだ。











恋のきっかけなんて、本当にふとしたことだ。

椚ヶ丘の生徒としては劣っても、一般的には頭のいい中学生だったなまえだが、どうにも数学だけはできなかった。
複雑な数式を見るだけで頭がこんがらがって、テストでも硬直してしまうために、いい結果は得られない。
その結果、彼女に用意された場所が、E組というわけだ。

「あんた、E組なんでしょ?本当、迷惑なんだけど」

新学期が始まって間も無く、本校舎に忘れ物があったと教師に呼び出されて、それを受け取った後のことだった。
教室の前を通ると、二年のときにクラスの中心にいた女子に、いきなり捕まってしまったのだ。

「え…迷惑…?」

「そ、迷惑。二年のとき一緒のクラスだった私たちまで、E組レベルだと思われるじゃん」

なまえは二年生のクラスでもあまり目立たない方だったため、中心になっている女子とほとんど話したことはなかったが、そんなこともお構いなしに冷たい目を向ける彼女たち。
驚きのあまり立ち尽くすなまえを、反抗しているととったのか、彼女たちは睨みつける。

「なんなの、その顔…E組のくせに生意気」

「あのさあ、黙ってないで謝ってよ、私たちの評価まで下げたこと」

「…えっと…ごめん、なさい…」

なまえ一人に対して、彼女たちは三人。
じりじりとにじり寄られて、なまえは今にも泣き出しそうだった。

「ちょっとかわいいからって、調子乗ってるんじゃないの?」

「そんな、こと…」

どん、と肩を押されて、尻もちをつく。
その様子を見て彼女たちは笑っていたが、その笑い声はすぐに途切れた。

「ねえ、何してんの?」

突然聞こえた知らない声に、彼女たちが振り返ると、なまえからもその人の姿が見えた。
赤い髪に、鋭い目つき。
怖い人、というのが第一印象だった。

「いじめとか、シュミ悪いなあ」

「いじめだなんて、そんな、」

「ふーん、違うんだ?その子、泣いてんのに?」

「赤羽くんには、関係ないでしょ」

赤羽くん、というのが、その彼の名前らしい。
なまえは彼を見たこともなかったのに、彼女たちは顔見知りのようだった。

「開き直るってことは、認めちゃってんじゃん」

「…だって、こいつ、E組に落ちたから!私より下だもん、何したっていいじゃない!」

彼女に指を差されて、なまえがびくりと肩を震わせると、彼は薄く笑った。

「へえ、じゃあ、俺のこともいじめてみる?君らより下の、E組だよ?」

そう言ってゆっくりと近づいてくる姿には、ただ歩いているだけなのに、不思議なほど強い威圧感を感じる。
それを感じ取ったのか、彼女たちはばたばたと逃げていってしまった。

「…だっさ」

ポケットに手を入れたまま、彼女たちの出て行った扉を見つめて、小声でそうつぶやく。
それを聞いてから、なまえは自分が逃げ遅れたことに気づいた。
まずい、と立ち上がろうとしたとき、彼がなまえを見て、くすりと笑った。

「…ねえ、見えてるよ」

「…へ?」

尻もちをついた格好のまま固まっていたなまえは、自分のスカートがめくれてしまっていることに気づき、慌てて押さえるが、時すでに遅し。

「み、見ないでください!」

「勝手に見せてきたんじゃん」

顔を真っ赤にするなまえを見てくすくすと笑う彼からは、先程の威圧感は全く感じられなかった。
ひとしきり笑ってから、なまえに向き直った彼は、そっと彼女の前にしゃがんで、手を差し出した。

「赤羽カルマ。今日まで停学だったけど、君と同じE組だから、よろしくね」

その手をなまえが握ると、カルマは勢いよく彼女を引っ張り上げた。
それは思ったより暖かくて、思わずどきりとしてしまう。

「あ、ありがとう…」

「君は教えてくれないんだ?」

「え?」

なまえが少しだけ上を向くと、カルマと目があった。
怖いと思っていた目つきは今は鋭さを失っていて、優しくなまえを見つめている。

「名前だよ。俺だけ言ってんじゃん」

「あ、ごめんなさい、」

少しシワと埃が残るスカートを手ではたいてから、カルマに向き直って、なまえは軽くお辞儀をした。

「みょうじ、なまえです…よろしくお願いします」

「あはは!みょうじさん、堅すぎ!」

なまえ自身は至極普通の自己紹介をしたつもりだったために、いきなり笑い出すカルマに到底ついていけない。
目を丸くしていると、カルマはまだ笑いが抑えられないといった様子で、目元をこすった。

「ごめんごめん、そんな丁寧な挨拶する人、初めて見たからさ」

「だ、だって、初対面…」

「でも、明日から同じクラスだよ?」

「は、はい…」

「新学期始まったばっかだし、友達がいると心強いでしょ?」

そう言っていたずらっ子のように笑うカルマに、なまえの心臓は跳ねる。
どうしてかはまだ彼女にはわからなかったが、嫌な気分はしなかった。

「そう、かもしれないです」

「はい、だから、俺らは友達ね。カルマくん、でいーから」

「…はい」

そう言って絡められた小指の感触を、なまえは未だに忘れられない。

「じゃあ、明日から俺も学校行くから!楽しみにしてるからねー」

じゃあねーみょうじさん、と言い残した彼に手を振って、なまえは帰り支度を始める。
そのときのなまえは、頬が熱いのは何が原因なのか、考えないようにしていた。













カルマくんと友達ですと言ったときのクラスの人々の表情といったら、衝撃的すぎて、忘れられない。
なまえとしては、彼が問題児だということの方が信じ難かったのだが。
だって、いじめ紛いの現場を目撃して止めに入るなんて、大した正義感の持ち主だ。

「では、今日はここまでです」

先生のその声で意識を引き戻されて、またぼーっとしていたことに気付く。
周りの子達に合わせて慌てて立ち上がると、がらり、とボロ校舎の扉が開いた。

「あっれー?もう昼?」

午前の授業が終わってしまったにも関わらず、悠々と教室に入ってきて、なまえの隣に座った彼は、へらっと笑った。

「おはよ、みょうじさん」

「おは…よう…?カルマくん…」

「…おはようの時間じゃないだろ」

斜め前に座った千葉くんが、ぼそりと呟く。
その通りだ、と頷くと、奥田さんもくすくすと笑った。
ああ、この席で、良かったなあ。

「まあまあ、俺が何時に来ようと自由じゃん?」

「でも、遅刻はよくないよ!」

なまえが言うと、カルマはにやっと笑う。

「もしかして、みょうじさん、俺がいなくて寂しかった?」

「そ、そんなんじゃないよ、だって、慣れてるし」

「ふーん?慣れてる、ってことは、寂しいって思ってるんだ?」

墓穴を掘ってしまったことに気づき、なまえが顔の前でぶんぶんと手を振る様子を、カルマは楽しそうに見つめていた。

「あっ…!いや、ちが、違うってば、」

「わかったわかった、ごめん」

ちっとも申し訳なさそうに見えない顔で謝った彼は、すごく楽しそうで。
こんな顔も、やっぱり、好き。
すると、視界が影に包まれて、慌てて横を見ると、巨体で日光を遮る殺せんせーの姿があった。
手帳に何やら書き込んでいる。

「…何の用?」

カルマが不敵な笑みをせんせーに向けると、相変わらずのニヤニヤ顔で、なまえとカルマを見比べた。

「仲がいいんですねえ、ヌルフフフ…」

「仲は良いけど、それがなんかあんの?」

机に足を乗せたカルマが殺せんせーを睨んでも、もちろんせんせーは顔色一つ変えない。
いや、ニヤニヤしているから、変わってる…のか。

「いやあ、これからが気になりますねえ」

殺せんせーがそう言うと、何人かまた二人のところに楽しそうに走り寄ってきた。

「俺もそう思ってたんだよなあ、どうなんだよ、カルマ」

「そうそう、正直なとこ、どうなの?」

ウワサ好きのクラスメイトが次々と二人を取り囲む。
恥ずかしいけどカルマくんの気持ちが聞けるなら、なんて思ってしまう自分はずるいなあと思いながら、なまえは俯いた。
カルマはひとつため息をついてから、少しだけ口角を上げた。

「みんなさあ、そんなに問い詰めたら、みょうじさんがかわいそうでしょ」

突如自分に向いた矛先に、どきりとなまえの心臓は跳ねた。

「えっ、」

「困るのはみょうじさんなんだからさ、やめよーよ、そーゆーの」

呆れたように言葉を紡ぐ彼に、慌てて弁解の言葉をかけようとするが、間に合わない。

「べつに、そんなこと、」

「いいっていいって。俺みたいな不良と、みょうじさんみたいなマジメな子、ウワサが立つだけで迷惑でしょ、無理しなくていーよ」

顔を上げて彼と目を合わせると、どこか悲しげで、それでいて哀れむような目を向けられている気がして、いたたまれなくなった。
ぱっと立ち上がって教室を出ようとすると、手首を掴まれる。

「っ、みょうじさん、どこ行くの」

思いっきり腕を振って彼を振り切ると、目を見開いている。
でもさっきまでの悲しげな顔が忘れられなくて、涙が一粒、なまえの目から零れた。

「か、カルマくんだって、モテモテなのに、私みたいな地味な子とのウワサ、迷惑、でしょ!」

面食らったように何も言わないカルマを置いて、なまえは教室を出た。
今度は、彼は追いかけてくることはなかった。

あーあ、やっぱり、初恋って叶わないのかな。



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