どうか、忘れないで



 風邪なんて引いたのは久しぶりのことだった。熱に浮かされる頭の中、ぐるぐる巡っては消え、また浮かんでくるのは無一郎くんのこと。しばらく会えていなくて、顔を見て謝れていないことが心に引っかかっていて、何日か会えないなんて雑な言い訳をしてしまったことも気がかりで。
『大丈夫?』
 ぼんやり寝たり起きたり、そうやってやっと体調が戻り始めたころに開いた画面に現れた、短いたったひとことのメッセージ。なんだか、声が聞こえる気がした。私を心配そうに見つめてくれる、あの優しい視線がすぐそばにあるような気さえして、無性に泣きたくなった。
 気付くと電話をかけてしまっていて、慌ててキャンセルしようとしたのに、無一郎くんはすぐに出てくれた。抑揚はゆるやかなのに、たくさんの感情が溶け込んだいつもの声で私の名前を呼んでくれるから、胸のいちばん奥の奥が痛くて苦しくて。心にまだうまく馴染んでいかない感情は、飲み込むだけで精一杯だった。

 ――でもまさか、会える、なんて思っていなかった。
 どうしてだか扉を開けるとそこにいた無一郎くんは、いつだって私にはできないことをやってのける。間違えてばかりで臆病になってしまう私の前に、間違いへの恐れを乗り越えた無一郎くんが立っていた。
 私がいつも使うキッチンでおかゆを温めてくれるから、その背中に「どうして来てくれたの」って訊ねてみたけれど、「僕が来たかったから来ただけだよ」としか言ってもらえなかった。……すっ飛んでくるかもしれないと思って、風邪引いた、って言わないようにしてたのに。まさか電話で言ってから来たわけじゃないだろうし、現にいろいろ買ってきてくれたし、誰かに聞いたのかな……。ええ、いやでも、誰に……? 疑問はぐるぐる渦巻いていたけれど、無一郎くんはこれ以上答えてくれそうになかったので、諦めて胸の奥にしまっておくことにしたのだった。
 そうしていつも通りみたいな時間がゆったりと始まっても、私はなんだか落ち着かないままでいた。それはあの日の電話で自覚しそうになった気持ちだとか、だからといってどうすべきかわからない情けない戸惑いだとか、そういう類のもののせい。……だから、かもしれない。無一郎くんのこぼした言葉を、ふと見え隠れした寂しさを、とうとう放っておくことができなくなってしまっていた。


 ◇


 無意識にも、故意的にも、ずっと踏み込まないようにしてきた。
 それは辛い過去のことを思い出すのは誰だって嫌だろうと思ったからでもあるし、過去を無理やり知るほどの仲でもないと距離を置いてきたからでもある。
 僕はお姉さんの弟ってことにすればいいんだよね。数年前、一緒に暮らし始めたばかりのころにそう言った無一郎くんは、そのときの私には不機嫌にしか見えなかったけれど、朧げながら残る記憶のなかの姿を思い返してみると、寂しさを滲ませていたように思えてならなかった。
 ……それは、ふと「兄さん」のことを口にした無一郎くんが、ひどく寂しそうな顔をしていて、その空白を感じられるぐらい近づいてしまって、君を想ってしまった私だから、気付いてしまったことだったのだと思う。

「僕はね」
 私なんかが聞いてしまっていいのかな。私のせいで、君にまた辛い過去を振り返らせることになってしまうんじゃないのかな。そう思って逃げたくなる気持ちは、「きいてくれる?」って訊ねてくれたおかげで少しずつ溶け始めてゆく。ただもっと君を知りたい気持ちと、ほんのわずかでも君の寂しさに寄り添いたい気持ちで、私は息を呑んで無一郎くんを見つめていた。
「双子だったんだ。有一郎、って名前の兄さんがいた」
 ――とある山奥で産まれて、杣人の子として暮らしていたこと。『兄さん』は言葉がきつくて、泣き虫ゆえに泣かされることも時折あったけれど、いつも手を引いて歩いてくれたこと。十歳のとき、母を病気で亡くし、父を事故で亡くし、ふたりきりになってしまったこと。
 ぽつり、ぽつりとこぼされる記憶たちは、いま目の前にいる無一郎くんが辿ってきた道なのに、ずっと遠くで起きた出来事のように感じてしまうようだった。ただ無一郎くんの横顔を見つめながら、息をすることすら忘れてしまいそうになる。
「兄さんには……嫌われてると思ってた。いつも怒られてばっかりだったし、何を言ってもきつい言葉で言い負かされて」
「……うん」
「そうじゃないって、なくすまで、気付けなかった」
 見つめた先の無一郎くんの瞬きは、ゆったりとスローモーションにも見えるのに、ひどく素早くも感じられて、視界が揺らいでいた。
「……その年の夏は、暑くてさ。戸を開けてたんだ、夜に。……鬼が入ってきて、それで……」
 俯いて、目を閉じて、輪郭を持たないあいまいな言葉は、ふらふら危うげにさまよっている。それでも、ひとかけらだって逃してしまわないように。返す言葉も、受け止める方法も、その苦しみを和らげる手段だってありはしないけれど、君を知ることで、寂しさにほんの少しでも寄り添えたらと、傲慢かもしれないけれど、思う。
 哀しみも寂しさも怒りも、色濃い感情が綯い交ぜになった横顔で。言葉を尽くしてもどうにもならないことを話してくれた無一郎くんは、細く長く息を吐き出して、それから。
「僕のきょうだいは、後にも先にも、兄さん……有一郎ひとりだけだって、ずっと思ってる」
 噛み締めるように、確かめるようにこぼされた言葉は、凄惨な過去を潜り抜けてきた痛みだって残しているはずなのに、あたたかく透きとおっていた。そこには弟という言葉に見せた寂しさの中身だとか、代わりを探しているわけじゃないと伝えるためだとか、小さな理由も詰め込まれていたけれど、何よりも。大切な言葉を、美しい思い出を、重く深い祈りをくれた『兄さん』への、大きな想いで満たされていた。
「……たいせつ、なんだね」
 私の稚拙な言葉に、無一郎くんは静かに顔を上げる。視線がゆるりと交わって、ほどけて、ほんの少し弧を描いた唇で、「うん」って、短い返事をくれた。
「……うん。すごく」
 私だって、代わりになろうだなんて思ったことは一度だってなかった。それでも、やっと、本当の意味でわかったような気がして、思わずぎゅっと唇を噛んでいた。無一郎くんが抱えているのは、私には見えない大きすぎる傷で、何があったって埋まらない重すぎる空白だ。どれほど辛かっただろう。どれほど寂しかっただろう。そんなことを考えれば胸がきりきり痛むけれど、その大きさも重さも、想像することはできても、きっと理解できる日なんか来ないのだろうと思う。
 
 無一郎くんは小さく息をついて、「つらい話して、ごめんね」なんて言うから、思いきり首を横に振った。
「謝らなくっていいよ。……話してくれて、ありがとう」
 ありきたりなことしか言えない私に、無一郎くんは柔らかく目を細めてくれる。そうしてまた、言葉を探すように俯いてしまうから、自ずと肩に力をこもらせてしまいながら続きを待った。
「僕は……あの時代で一度死んで、後悔なんかしてなくて、それでいいって思ってた。やっと兄さんたちのところへ行けるんだ、って思ったんだ」
 言葉を切って、「でもね」って続いた声が、穏やかに溶けてゆく。
「あの鬼を斬って、元の時代に戻りかけた時、兄さんに会ったんだ。僕に生きてほしいって、そう言ってくれたから、戻ってこられた」
 ――無一郎くんの時間を繋いだのは、単なる偶然じゃなかったんだ。ほとんど無意識に、「よかった」って声がこぼれていて、無一郎くんが息を呑む音が小さく響く。
 無一郎くんにとって、生き続けるのは必ずしも希望に満ちたことではなかったのかもしれない。それなのに、今、こうやって。私に出逢ってくれた君は、生きることを選んで、また私に会いにきてくれたから。
「……ごめんね、つらいことがたくさんあったんだと思うけど、私……また会えてよかったって、ほんとにほんとに思うから」
「……さくらさん」
「大袈裟だけど……生きててくれて、ありがとう、無一郎くん」
 喉が熱くなって、堪えるみたいに息を止めてしまう。欠片をかき集めてなんとか伝えた想いは届いたんだって、無一郎くんがぎゅっと口をつぐむからちゃんとわかった。「さくらさん」って、無一郎くんがまた私の名前を呼んでくれる。どこか泣きそうにも見えてしまう表情で、それでも目を逸らしたりなんかしない君を、応えたい一心で私も見つめ返していた。
「……また会いたいって思ったから、戻ってきたんだよ」
「……え……?」
「会えてよかったって、僕もずっと、ずっと思ってる」
 覚束ない言葉たちだった。でもちゃんと、私に向けられたものだってわかるのは、目の前にいるのが君だから。
「さくらさんのために生きる、なんて、言うつもりはないけど」
「うん、」
「……でも。また生きてみようって思わせてくれたのは、さくらさんが、僕を、大切にしてくれたからだよ」
 ――言ったでしょ、今の僕があるのはお姉さんのおかげだって。
 春、ぬくもりを乗せた風に撫でられながら聴いた言葉を繰り返されて、見つめていた花びらを思い出す。大袈裟だよ、なんて今度は言えなかった。
 少しずつ、暖かくなってゆくような気がする。決して忘れない過去の話から、生きると決めた未来の話に。季節が移り変わるように、つぼみが開きはじめるように。
「僕はこの時代でまた生きて、それで。……幸せだったよ、って兄さんに言うんだ」
 きっと誰より強く、君の幸せを願いつづけている人。そんなお兄さんを想う君は寂しそうに、けれど優しさに満ちた表情でゆったり目を伏せる。視界がぼやけて、熱く滲んでゆく。
「僕に生きてほしいって願ってくれた兄さんに、ちゃんと、幸せだったよって」

 ……私が泣いたって、どうしようもないのに、って。いつもそう思うのに、君のことになるとどうにもうまくいかなかった。堪えていた涙がひとつこぼれて、あとからあとからあふれてくる。こっそり拭おうとしたけれど、すぐ隣にいるのに見逃してもらえるはずもなく、伸びてくる無一郎くんの手を拒むこともできなかった。
「っ……ごめんね……」
「どうして謝るの」
 笑いまじりにそう言って、そうっと触れた無一郎くんの指先が、あたたかく涙を拭い取ってくれる。私が言葉を継ぐ前に、無一郎くんは不意に、ほんとうに突然、「好きだよ」なんて言う。ささやくような、撫でるような優しさに満ちた声で。
「ねえ、さくらさん」
「……うん……?」
「……抱きしめてもいい?」
 ぼんやり熱に浮かされたような心地で、無一郎くんの瞳に射抜かれて、ゆっくりと頷く以外になにもできなかった。
 視界にゆるい影が落ちて、肩に、背中に、体温が触れる。引き寄せる力は弱々しくて、遠慮がちで、すこしずつ包み込んでくれる腕はどこか震えている。でもその拙いぬくもりが産む愛おしさに、きつく胸を締め付けられていた。
「ありがとう。僕のために泣いてくれて」
 抱きしめる、と言うにはあまりに柔らかな力は、それでも私を離そうとはしない。ばかみたいにあふれて止まらない涙も、君が、君のためだと言ってくれるのなら。この瞬間だって、私の心を満たす痛いほどの想いだって、なにひとつ無駄になんかならないような気がしてしまう。
「……なにも、いえなくて、ごめんね」
「いいよ。何も言わなくても」
 とりとめもない話ができたって、君の心のまんなかに触れるときにはいつも言葉が見つからなくなってしまって、それなのに。いいんだよ、って繰り返した無一郎くんの声が、わずかに強くなった腕の力といっしょに沁みこんでくる。
「だって僕は、さくらさんのこういうところを好きになったんだ」
 息を呑む自分の声が、耳の奥に響いていた。自分とは違う体温が、君の香りが、穏やかな声が、滲んで馴染んで溶けてゆく。
「僕のために本気で泣いてくれる、優しすぎるところ。」
「……むいちろ、くん……」
 優しすぎる、なんて。そんなことを言われる資格なんかないと思うのに。だって私はただ、君を想うとどうしようもなくなって、つらそうな君を放っておけないだけだった。私に背負える苦しみじゃないとしても、ほんの少しでも心を暖めることができたら、って。これは優しさとも呼べるのかもしれないけれど、たぶんそれだけじゃなくて、ただ、私が……。

 ――あれ、私、どうして……

「さくらさんは、優しいから。これからも、そうしてくれる気がする」


 どうして、君と別々に生きていけるなんて、思っていたんだろう。


 きっと、無一郎くんの言うとおりだ。私はこれからも君のことで一喜一憂して、君が幸せなら嬉しくなるし、君につらいことがあれば哀しくてたまらなくなる。こんなにも大切な君を忘れることなんかできないし、それに。どこか遠くでひっそりと君の幸せを願うなんて、そんなこと――。
「……だからさ」
 ずっと怖かった。いろんな障壁にぶつかってしまうことも、何も持たない私が君のそばにいることも。でも無一郎くんは、いつだって飛び越えてきてくれる。たくさんを乗り越えて会いにきてくれる。
 ごめんね、いつも、無一郎くんばっかり。
「泣くだけじゃなくて、笑ってて。僕のとなりで、僕のことで笑ってよ」
 まるで、私のぜんぶを抱きしめてくれるような願いだった。ただ握りしめていただけだった手を、たまらず無一郎くんの背中に回していて、応えるようにぎこちなく抱きしめてくれる腕が小さく震えて、けれどすぐに、優しく力が込められて。重なり合った体温の奥で、心臓の音がする。

 ――生きてる。今、ここで。死の淵を見て、命を落としかけた無一郎くんが。生きることを諦めずにいてくれて、たくさんの奇跡に生かされている。
 君に出逢って変わったのは、私だけじゃなかった。何度も感じていたことが、それでも今までにないくらいの大きな意味を伴って、過去にも今にも未来にも、人生のすべてに染み入るように伝わってくる。
 そう、未来にも。私はきっと、十四歳の君と過ごした時間を想って、大人と子供だった私たちの、あの頃への好き≠フことばかり考えていた。でも君が、これからの話をしてくれた。無一郎くんは、私のいる未来を描いてくれている。
「……わたし、」
「うん」
「私ね、無一郎くんに会えて幸せだよ」
「……うん」
「一緒にいる時間が、本当に、好きで……」
 ……あふれてくる。一緒に笑ったこと、勝手に泣いたこと、ほかにもたくさん。そしてそんな思い出の中で、いつだって君に心を開け渡していたこと。
 私はこれから≠煬Nの隣で、そうやって生きていきたいんだって、もう望んでしまっている。
「ずっと前から、もう、とっくに……」
 無一郎くんが、大切だった。感情は単純でも簡単でもないかもしれないけれど、君のことで笑っていたくて、君のために泣くことを堪えられない私の心は、もっとシンプルな想いをずっと前から抱えていたに違いないのに。
「……好き」
「……っ、」
「無一郎くんのこと……ずっと、好きだった……っ」
 言い終わらないうちに、きつく、きつく抱き竦めてくれる無一郎くんに、涙ながらに伝えた「ごめんね」はうまく言葉にならなかったかもしれない。……でも。私の臆病さが、ずるさが、君をたくさん傷つけていた。好きになるって、好き≠抱え続けるって、こんなにも苦しいことなのに。
 ごめんね。それなのに、ずっと、好きでいてくれてありがとう。
「……さくらさん」
「うん、」
「好きだよ」
 小さく震えて、消えてしまいそうな声だった。今までたくさん貰ってきた、どの「好き」よりも弱々しかった。それでも、確かに届く距離にいる。決して見逃したりなんかしないで、ぜんぶを抱きしめていられる。いつか無一郎くんが言っていたように、これは運命なんて不確かなものじゃない。まっすぐに生きてきた君がくれた、はかなくも美しい奇跡だった。どれほど時が経とうとも、たとえ遡っても隔たっても、忘れたくなんかないと思う。……そして、叶うなら、無一郎くんにも。忘れてほしくないって、自分勝手な願いが燻って、この小さな夜のなかでそっと灯っていた。
 

 ◇


 やっと私の涙が落ち着いたころ、名残惜しさをのこしていきながら、無一郎くんはゆったりと身を引いてしまった。そうして目元を拭う姿が視界に入ったけれど、見なかったことにしておこうと目を逸らす。……見られたくない、かもしれないし。
 分け合っていた体温がなくなって、途端に襲いくる寂しさと。蛍光灯の光がちかちか瞳に入り込んで、ずん、と頭の奥が重く痛んだ。泣きすぎたせいかもしれないし、まだ本調子じゃないからかもしれない。顔をしかめた私を、無一郎くんのほうは見逃してくれなかったらしく、「大丈夫?」ってゆるく頬を撫でられて、びくりと肩を震わせてしまった。
「だっ……だい、じょうぶ」
「じゃないでしょ。頭、痛い?」
「……ちょっとだけ……」
 箱ごと渡してくれたティッシュで残った涙を拭いていると、無一郎くんの手のひらがそっと頭に乗っかって。何度か髪を撫で付けてくれるから、なんだかやたらとドキドキしてしまう。……思えば、抱きしめたり、そもそも触れ合ったりすることだって、今までちっともなかった。情けないくらいうるさい心臓をごまかそうとするけれど、大号泣の大失態も頭をぐるぐる回っていて、ずっと落ち着かないまま身体を強張らせてしまう。

 ふと時計を見遣ると、普段は無一郎くんが帰ってしまうくらいの時間だった。……今日はどうするんだろう。いや、どうするもこうするもないか。そう思いつつ「無一郎くん」って名前を呼ぶと、「なに?」って、まだ隣に座ってくれている無一郎くんは小さく首を傾げてみせる。
「今日は……帰っちゃう?」
 ぱちぱちと数回瞬きをするから、ちょっと言葉選び失敗したかも、なんて思うけど時すでに遅し。「帰ってほしくないって言われてるみたい」って無一郎くんが目を細めるから、口籠ることしかできなくなる。
「……ごめん、冗談。そろそろ帰ろうかな」
「……」
「ちゃんと寝て、風邪治してもらわないとだし」
 そうだよね、とうつむくとまた軽く髪を撫でつけられて、なだめられているようなそれにいたたまれなくなるのに、きゅっと心臓が縮むような心地にもなってしまう。
 そうして立ち上がった無一郎くんを、いいからと言われながらもせめて玄関までは見送りに行きたくて、ちょこまかと着いていく。「じゃあね」ってドアを背にした無一郎くんに、「気をつけてね」って返すこのやりとりは、あまりにいつも通りだった。
 もしかすると、一世一代の告白をしたような気になっていたのは私だけなのかもしれない、と。そんな不安がじわりと滲み出てくるように思えてしまって。……それから、これじゃ変われないような気がした。会いに来てくれる無一郎くんに甘えて、何もできなかった私のままなんじゃないかな、って。
「……まって」
 背中を向けた無一郎くんの手を掴んで、「やっぱり、」とこぼした声が少し震える。かっこわるいかな。みっともないかな。都合いいとか思われちゃったりしないかな。そんな葛藤を必死に断ち切って、喉につっかえそうな言葉を送り出す。
「帰らないで、ほしい……」
 顔を見られないまま、両手で握った無一郎くんの左手をただ視界に映していた。どくどくと心臓がうるさいことにやっと気がついて、相反するように漂う沈黙が重たくて、「だめかな」って顔を上げて、無一郎くんと、ぱちりと視線がぶつかって。
 あ、ってこぼれ落ちた声はほとんど吐息で、形にならなかった。すかさず目を逸らされて、元通りに私に背中を向けてしまうけれど。ほんのり赤くなった耳が見えていて、さっきの一瞬、動揺をありありと映した表情も焼きついて離れない。
「いきなり……言わないでよ、そういうこと」
「ごっ……ごめん……」
 とっさに謝ってしまうと、振り向いた無一郎くんが少し唇を曲げている。ごめん、謝ってほしいとかじゃないよね。でも私の方にだって余裕なんかなくて、うまい言葉を見つけられなくて口をつぐんでしまう。
 ……たぶん、ちゃんと、私だけじゃない。平静を装ってみせるのが上手なだけで、無一郎くんも、ちゃんと。
「……こんなに、はっきり言われると思わなかった」
「え……?」
「だって今まで、そういう顔してても……一回も言わなかったのに」
 と、いうことは……帰ってほしくないって思ってたの、やっぱりバレバレだったんだ……。そんな小っ恥ずかしさを呑みくだしつつも、無一郎くんが私のほうを向いてくれたから。まだここにいてくれるんだ、って呑気にほっとしてしまう自分がいる。なんとなく離せないでいる両手に無一郎くんの右手がそっと添えられて、「まだ、いていいの」なんて伏し目がちに訊ねられて、一際大きく心臓が跳ねた。
「えっと……うん」
「……なんかさ」
「ん……?」
「いや、なんでもない」
「えーっ……気になる……」
 曖昧に言葉を切った無一郎くんは、「ほんとになんでもないから」って繰り返して、ゆっくりと私に向き直った。どこかためらいがちに、でもまっすぐに見つめてくれて、「じゃあ、もうちょっとだけ」って。繋がっていた手が離れても、君のその一言だけで、不安はたちまちかき消えてゆく。





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