どこにも行かないで


 帰らないでほしいなあ、って。顔に書いてあるみたいに、さくらさんがそんなことを言うはずはないのに、まるで言われているみたいに、ほんのり見え隠れする寂しさを感じ取ってしまうことがあった。でもだからって、付き合えてもいないのに長居するようなけじめのないことはしたくなかったし、すべきじゃないと思っていた。
 ――それに、やっと、「好き」って言ってもらえたけれど。話すつもりのないことまで話してしまって、そうやってさくらさんの優しさを引っ張り出して、半ば同情にも近い形で言わせてしまったんじゃないか、って。じくじくと胸の奥が自責でうずいていて、だから今日はいったん帰って頭を冷やそうって、そう思っていたはずなのに。
 ぎこちなくて、それでも真剣な「帰らないでほしい」って言葉が、突き刺さって抜けない。まだ切なさを残した部屋に逆戻りして、隣り合って座りながら、僕はこっそり、未練すら見せずに帰っていった先輩≠フ姿を思い出していた。……こういうときは、帰った方がかっこよかったかな。ついさっき、こんなばかみたいなことを思わず口に出しかけてしまったのは、形になった「帰らないで」にひどく動揺していたからかもしれない。いや、そうに違いない。

「お兄さんが……」
 そんな折、不意にさくらさんがこぼした言葉に、少しだけ身体が強張ってしまった。けれど、「紙ひこうきの折り方、教えてくれたの?」って続いた言葉に、ふっと力が抜ける。こんななんでもない話をさくらさんからしてくれたことが、なんだか嬉しかった。
「……ううん。いつも競ってたから、負けないように練習してた」
「……そうなんだ」
「兄さんには、敵わないことがたくさんあったけど……紙ひこうきだけは負けたことなかったな」
 その話を皮切りに、もう何年も……いや、もしかすると一度もしたことがなかったかもしれないような、兄さんとの思い出を少しずつ話していった。
 ふたりでした遊びのあれこれとか、両親の手伝いを取り合うみたいに過ごしていたことだとか。それから、ふたりで暮らし始めてからの話。料理のほとんどを担っていたのは兄さんで、兄さんの作るふろふき大根を僕はよく覚えていた。大根は切りっぱなしで、味噌は少し辛くて、たまに芯が硬いときもあって。僕たちは口すら利かずに過ごしたこともあったけれど、「おいしい」って僕が言うと、兄さんは一瞬だけこっちを見てくれる。僕はそれが好きだった。好物を覚えてくれていたことも、決して得意だったわけではないであろう料理を、なにを作っても焦がしてしまう僕の代わりに担ってくれていたことも。
 時々くすりと笑ったり、ちょっとびっくりしてみせたり、さくらさんがそうやって受け止めてくれるから、あとからあとから思い出してゆく。記憶の底、心のずっと奥に眠り続ける思い出を。
 
 そのおかげで心がゆるんで、そのせいでヒビが入る。そこから泣き虫な自分が戻ってきてしまったみたいだ、なんて。他人事みたいに思っていたせいか、落ちてゆく言葉を止められなかった。
「……初めはさ」
「ん?」
「同情でもいいって、思ってたんだ」
 脈絡のない僕の話に、さくらさんが背筋を伸ばすのが見えた。和やかだった空気が、わずかに張ったような気がした。
「……でも……」
「……同情」
 言い淀んだ僕の言葉を、さくらさんは拾い上げて繰り返す。「私が、同情してるって思った?」って。静かに尋ねる声は柔らかで、咎めるような響きなんかは含んでいなかった。それでもなんだか居心地が悪くて、さくらさんの方を見られなくて。格好悪いと思うのに、取り繕えなくなっていた。
「……僕は、ずるいから」
「……」
「一緒にいてくれるなら、なんだっていいって……」
 消え入りそうな言葉に、さくらさんの呼吸の音が重なっていた。……本当に、それでいいと思ってたんだ。格好をつけるのも、余裕があるみたいに振る舞うのも、本当はたぶんそんなに得意じゃないけれど、そうやって手を尽くして、どうにかしてあなたの気を引いて、それで……。それなのに、今になってどうして、台無しにするようなことを言ってしまうんだろう。
 強く生きようと気を張ってきたけれど、きっとその奥にいるのは甘ったれた自分だ。抑え込んでやりたいのに、「ずるくないよ」って澄んだ声が届いて、それだけのことでうまくいかなくなる。そんな僕を知ってか知らずか、「無一郎くんはずるくなんかない」って、さくらさんは繰りかえす。きっぱり否定されて、なにを言い返せばいいのかわからなくなる。
「……一度も、なかったわけじゃないよ」
 ちゃんと想いを通わせて、そんなときに始めるには、あまりに無稽な話に違いなかったのに。さくらさんは今、ちゃんと応えてくれようとしてるんだ、って。なにを言われてしまうのかまだわからなくても、戸惑いはあっても、不安はどこにもなくて、気付くと僕は静かに頷いていた。
「本当にいちばん最初、会ったばっかりの頃は、家族をなくしたかわいそうな子だって思ってた」
 ごめんね、って静かに謝ってから、さくらさんは僕の顔を覗き込む。「でも」って、そう続けられて、言われたことは恐れていたことに違いなかったのに、期待にも似たなにかがじわじわと湧き出てくるような心地がする。
「ただ……それとは別に、無一郎くんと過ごす時間がだんだん好きになったの。無一郎くんが嬉しそうにしてくれると、私も嬉しくて……」
「……うん」
「いっぱい、笑ってほしくなった。そう思う気持ちは、絶対、同情なんかじゃなかったよ」
 そう言ってから、ごめん、うまく言えないや、って。どこか泣きそうにも見える吐息をこぼして、笑うふりをしてみせる。……ねえ、そんなことないよ。正解なんかはないけれど、さくらさんはちゃんと、いま、欲しかった言葉をくれたんだよ。そう伝えたいと思っても、喉が焼けるように熱くて、声にならなくて、ふいに握られた手すらうまく握り返せない。
「……だって。一緒にいてほしかったのは、最初から私の方だった」
 堪えなきゃ、とも思わなかったくらい。気付かないあいだに迫り上がっていた涙が、ひとつ、ふたつ、頬を伝って落ちていった。さくらさんはふっと肩の力を抜いて、指先で目元をそっと拭ってくれる。
「もう、さっきせっかく見ないふりしたのに」
 ……なにそれ、変に気回されて、かっこ悪すぎ。そう思うのに、もう僕は、逃げる気にも隠れる気にもなれなかった。
「ねえ、無一郎くん、好きだよ」
「…………うん」
「無一郎くんも、一緒にたくさん笑ってね」
 うん、とまた頷くと、嬉しそうに微笑むさくらさんの目元も、微かにきらりと輝いた気がした。
 ……ほんとに泣き虫だし、涙脆いよね。でも、そんなあなただから、そんなあなたがとなりにいてくれるのなら、僕はきっとこれからも、素直に生きていけるんだと思うよ。
 
 ◇
 
 まぶたに触れた光に朝を告げられて、そうして目を開くより前に、自分がどこにいるのかを思い出した。
 かちゃかちゃ、軽やかな音がする。空っぽになった胃を起こすような、いい匂いがする。僕はこの心地よさをよく知っている。あまりにも突然、なにも知らないこの時代へやってきたかつての僕の、唯一の居場所だった。
 
 もう僕たちのあいだには、「帰る」なんて言葉は現れなかった。でもだからって、ぜんぶが変わるわけでもなく。かつて僕が借りていた寝室でさくらさんが眠って、僕はリビングに布団を敷いて、同じ部屋の中、僕らは別々で夜を明かした。手を繋いだりぎこちなく抱き締めあったり、初めてしっかりと触れ合ったけれど。それ以上のことは起こらなかったし、起こさなかった。意気地なしなのかもしれないけれど、なんだかそれでも構わないような気がしてしまったのは、きっと夢みたいに満たされた夜だったから。
 これ以上の幸せがあるのかもしれないと思うと、少し怖くなる。勝手に涙が出たり、たまらなく苦しくなったり、今でさえ随分と掻き乱されているのに、これ以上。……どうなっちゃうんだろう。
 むずむずするような感覚に思わず寝返りを打った先、偶然こっちを見ていたらしいさくらさんと目が合った。「わっ」なんて大袈裟なくらい肩をびくつかせるから、つい吹き出すみたいに笑ってしまう。
「……もう、起きてたなら言ってよ」
「今起きたとこだよ」
「ほ、ほんとに……?」
 怪訝そうな視線を向けられながら、薄いタオルケットを捲って身体を起こした。僕を疑うことをやめたらしいさくらさんの、「朝ごはん食べる?」って、何気ない問いかけが、それでもとびきりの特別に聞こえてしまう。
「それより……体調は? もう大丈夫なの」
「おかげさまですっかり良くなりました」
 両手をぐっと握りしめて元気を見せつけてくるみたいな様子に、笑い混じりに「それならよかった」って返すと、さくらさんは「ありがとね」なんて言う。大したことはしていないと思ったけれど、余計な謙遜はもったいないような気がして、あいまいに頷いておいた。
「じゃあ、食べる」
「朝ごはん?」
「うん」
 おっけー、って嬉しそうにさくらさんは言う。最初は意味のわからなかった言葉だ、とふと思った。あの頃ぶりにこの部屋で眠ったせいか、ぼんやりした寝起きの世界に、懐かしい記憶が少しづつ混ざっていた。
 
 焼き魚や卵焼き、味噌汁なんかが並んだ食卓を挟んで少し、さくらさんが「無一郎くん」って、ちょっとだけ硬い声で僕を呼ぶ。なにかお願い事というか、提案というか、そういう話を持ちかけるときの呼び方だ。
「どうしたの」
「も……もうすぐ、お誕生日、だよね」
「……ああ、そっか」
 忘れていたわけじゃない。ただ、そういえばそうか、って。普通に生きて、流れていきそうだった毎日の中、滑らかに思い出したその存在に一瞬だけ手が止まる。するとさくらさんが、「その、予定とかある?」って。わざわざ箸を置きながら尋ねてくるから、僕はつい首を傾げていた。
「なんでそんなに言いづらそうなの」
「いやだって、お祝いしてもらう予定とかあったら……って思うと」
「なにそれ」
 笑い飛ばしてしまったけれど、さくらさんにとってはわりと重要なことだったらしい。「だって友達も大事でしょ」って言うから、まあそうだけどね、って軽く受け流す。
「もしあっても、さくらさんのこと優先するに決まってるでしょ」
 はっとしたように目をぱちぱちさせてから、困ったように眉を下げるさくらさんの、その白い頬がかすかに染まっていた。「約束は大事にしなきゃダメだよ」って唇を尖らせる姿がやけにかわいくて、ころころ移り変わる表情を見ていられることが嬉しくて。……ほら、また、これだけのことで息が苦しい。
「心配しなくても、なんにもないよ」
「……お祝いしていい?」
「うん、祝ってくれないと嫌」
 途端に表情をゆるめたさくらさんは、「嫌かあ」って柔らかく呟いた。朝日がよく似合うぬくもりを纏って、「じゃあお祝いしよっか」って、弾む気持ちを隠そうともせずに言う。

 
 ――かつて、明けなかった夜がある。来なかった朝がある。辿り着けなかった春が、手を伸ばせなかった桜が、巡らなかった夏がある。百年も前、僕が確かに生きていた時間のなかに。
 そのすべてを、なかったことにはできない。したくない。僕が選んだ道で、そこに遺した生きた証は、今もたしかに輝き続けているのだと思うから。
 ……でも。夜が明けて朝が来た。季節が巡って春が来た。時を越えて、あなたの優しさに触れて、あなたと生きたいと、そう願った僕に。これを幸せと言わずしてなんと言うのか、僕は知らない。


 ねえ、さくらさん。
 あなたに、出逢えてよかった。

 
 ああそうだ、言ってなかった、ってさくらさんがゆるく手を叩いたから、手のひらの立てた軽やかな音と、繰りかえされる僕の瞬きがすれ違ってゆく。きらきらひかる朝の空気に包まれながら、ちいさな花が綻ぶみたいに、さくらさんは笑ってみせた。


「無一郎くん、おはよう」
 




Fin.




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