怖がらないで


 

 また生きてみようと思えたんだ。他でもない、あなたのおかげで。


 頬を撫でてゆく風は生ぬるくて、夏が襲いかかってきたことを知るには充分すぎるほどだった。嫌いだ、とか。単純な言葉では片付けられないけれど、蒸すような熱気に呼吸を邪魔されるこの感覚に、鼓膜を揺らす忙しない蝉の声に、決して忘れられないあの日が蘇るように滲んでくるような心地がする。
 温暖化が進んでいるらしい。僕がかつて生きていた時代より、ずっとずっと暑い日もある。けれど、それを凌ぐように冷房の技術は発達している。身体の芯まで冷えてしまうほどの涼しい風のおかげで、あの悪夢みたいな夏の夜明けと重ならないことだけが救いだった。
 本当なら死んでいたはずの僕は、兄さんに守られて生きていた。いま、本当なら死んでいるはずの僕は、たくさんの偶然に生かされている。それで今は――ちゃんと、自分のために、自分自身の意思で、この道を。


 ◇


『何日かちょっと会えないかも!』
 さくらさんからそんなメッセージが来たのは昨日、帰宅ラッシュの満員電車に揉まれているときのことだった。近頃は僕のバイトだったり、さくらさんの残業だったりが互い違いに訪れて、微妙に会えない日が続いていて。そんな中で受け取った、簡潔……というよりは、雑な印象すら受けてしまうお断りの文章。いつも送ってくれるものよりもそっけないというか、なんだかそんなふうに思ってしまうのは、会えない日々に多少参っているからかもしれなかった。
 自分なりにずっと格好をつけてきたのに、取り繕えなくなって子供みたいに拗ねてしまったあの日。意地さえ張らなければあなたと過ごせていたかもしれなかったのに、ひとりになってしまった暗い帰り道で、僕はみっともなく涙を堪えていた。
 でも、だってさ、僕はずっと、さくらさんのことが好きだった。そうやってただ好きだって思う気持ちと、なんだっていいからそばにいたいと思う必死な想いと、そんな強引な心で突き進んでいたけれど。あのとき会った男とさくらさんの雰囲気だとか、「デートくらいするよ」って、明らかに突っぱねてくる言葉だとか、いろんなことが重なって、冷静でいられなくなってしまっていた。
 たくさん悩んで迷って、とうとう繋がった電話口で、僕は「ごめん」をうまく声にできなかったのに。ごめんねを先に渡してくれたのは、さくらさんの方だった。……さくらさんが僕を嫌いになることなんてこと、きっと、ないんだろうなって。そう思えるくらいの優しさを、僕はこの瞬間にもまた受け取ってしまったんだ。
 ――そうは言っても、まだ顔を合わせて謝ることはできていなかった。目を見て話をできていなかった。あんな帰り方をしてしまったのは初めてで、また会っていつも通り≠ノ戻らないことには、僕の胸に蔓延るもやみたいな不安もどこかへ行ってくれないままだった。
 何日か、ってどれくらいだろう。ちょっとってなんだろう。会えないかも、って、どうして理由も書いてくれないのかな。もしかすると少し前の僕なら、「なんで?」って返事を送ることができていたのかもしれない。それができなかったのは、ずんと胸が重たいせいに違いない。

「時透くん、体調悪い?」
 どんな事情があろうとも、日常は平等に訪れる。バイト先でつい手を止めていると、ちょうど同時期くらいに入った子に顔を覗き込まれてそう言われてしまうから、「ううん」とだけ簡潔に答えた。少し頭が重たい気もするけれど、体調が悪い、の範疇ではないと思う。情けないけれど、気持ちの問題でもあるのかもしれない。
「ほんと? 無理しないでね」
 気遣ってもらったのに悪いとは思うものの、彼女にどうこうできる話でもないので曖昧にひとつ頷いておいた。まあ妙に近づいてこようとしてくる人間もいる中、適切に距離を保ってもらえることはありがたいと思う。この子に嫌われるメリットはないな、と「ありがとう」と軽く告げれば、相手もゆるく頷いてくれた。
「じゃあ時透くんにこっちの品出しお願いしても……」
「あの〜すみません」
 ちょうど僕から死角になっている方向、彼女の後ろから聞こえた声に僕たちはぴたりと会話を止める。このバイトはわりとお客様対応が多い方で、「ちょっと探してる本が……」と続いた声にああやっぱりと思うと同時に、なぜだか聞き覚えのようなものがあるような気がして。ひょいと身体をずらして、そうしてその声の主と目があった途端、互いに「あっ」なんて声をこぼしてしまった。
「……えーっと、あー、トキトーくんだ」
「………………どうも」
 ぎこちない発音の名字は、このあいだの答え合わせのようだった。そうして愛想の悪い返事をする僕に、相も変わらず人好きのする笑顔を浮かべてみせるのは、先日駅でばったり会った男。さくらさんの会社の先輩≠ノ違いなかった。
「あれっ、お知り合い? ……ですか?」
 僕と先輩≠交互に見比べて言う彼女に、彼はさくらさんの前にいるときと同じように、さっぱりと微笑んでみせた。
「そーそー。お姉さんありがと、時透くんに訊きます」
「わ〜すごい偶然! ごゆっくりご覧くださーい」
 そうして対応を任せられてしまったから、「何をお探しですか」と、もうちょっと愛想良くできたら完璧だなあとよく店長にも言われるトーンで尋ねてみる。不本意だけど仕方ない。
「あー、コードとかメモってあって……これこれ」
 向けられたスマホの画面には検索に必要な情報が揃っていて、なんだかもう少し鈍臭ければすっきりしたのに、なんてこっそり思った。手元の端末でさっと確認して、先導するように売り場に連れて行くと、その道すがら「あのさ」と声をかけられる。僕はあくまでも店員で、相手は単なる客に過ぎなくて、ここにさくらさんがいないのなら雑談に応じてやる義理もない、のに。「橘ちゃん、」と続けられると、ほとんど反射で耳を傾けてしまう自分が情けない。
「風邪引いたらしいけど大丈夫かね」
「……え、風邪」
 つい歩く速度を落としてしまったところに、「あれ、聞いてない?」なんて言われてきゅっと眉間に皺が寄る。表情までは見えていないだろうけど、僕の雰囲気に気がついたのか、彼はちょっと慌てたように「ごめんマウント取ったとかじゃなくてさ」と付け加えてくるから、なんだかお見通しみたいな態度にまたちょっと悔しくなった。
「昨日今日と出勤してないから連絡してみたら、久々に熱出したって」
「……」
「あーゴメン、てっきり聞いてるもんだと」
 抱えていた疑問がするりとほどけて、絵合わせみたいにかちりとはまる。そうか、風邪。体調を崩しちゃったから、あんなメッセージを送ってきたんだ。
 ……けれど次は、どうして僕には言ってくれなかったの、なんてモヤみたいな感情が胸の奥からあふれてくる。「さくらさん、『会えない』としか……」って、ひどく曖昧に不安をこぼしてしまうと、彼が小さく笑う声が聞こえたような気がした。
「君って、風邪引いたとか聞いたらすっ飛んでくタイプなんじゃないの」
「まあ……当然心配しますし」
「だからじゃない? 君がそうするってわかってて、君に心配かけたくなかったんでしょ」
 やけにしっくりくる推論に、つい押し黙ってしまう。さくらさんってほんと、変なとこで気を遣うんだ。それがだめだとは言わないし、そんなところも好きだと思うけど、でも。
 ねえ、心配ぐらいさせてよ。あなたが手の届く場所にいて、あなたのためにできることがあって、それが今、僕にとってどれほど幸せなことなのか――。さくらさんは、きっと知らない。
「俺から聞いたのは不本意かもしんないけど」
「そうですね」
「おい……まあもうどうするつもりもないけどさ、俺は君に勝てないんだと思うよ」
 ずいぶんあっさりとした降参を受け止めて、内心少し驚いてしまったのをひた隠しにしながら、僕たちは揃って足を止めた。目当てのコーナーに辿り着いて、取ってつけたように「こちらのコーナーです」と目を合わせると、相手もわざとらしく敬語でお礼を言ってくる。
 ――打算的とか、理屈っぽいとか。さくらさんはそんな風に受け止めていたけれど、僕はそうは思わなかった。だって、少しでも同じことを考えていたとしたら、なんとなくわかってしまうものだ。今さら僕には関係ないし、これ以上知りたいわけでもないけれど。
「時透くん。頑張ってよ」
「……言われなくても」
 探していた本をぱっと手に取って、「それじゃ」とあっさり帰っていくその後ろ姿を、僕はただぼうっと見つめてしまう。気になること、訊きたいこと、言いたいこと、そのどれもがなかったわけじゃない。たぶんそれは、相手もそうだったはずで。けれどさらりと切り上げてみせる、そんなさっぱりとした諦めの良さのようなものは、きっと大人≠ニして生きていくには必要なものなんだろうって、納得できたわけじゃないけれど少しわかったような気がしていた。だから、声をかけたり呼び止めたりもせずにぐっと堪えて。ただ、店員として黙って頭を下げておいた。


 ◇


 ほどなくして退勤時刻になって、僕は支度もそこそこに電車に飛び乗っていた。向かう先はもちろん、さくらさんの最寄り駅。家に押し入るとか、そこまでするつもりはないけれど、だからといって何もせずに家に帰ることもできそうになかった。昨日の夜に「わかった」って、簡潔に返したメッセージには返信はないままだったから、「大丈夫?」とだけあいまいに送ってみる。もういい加減に聞き慣れたはずの、通過駅のアナウンスすらもどかしく感じていた。
 返事はもらえないまま、僕はさくらさんの家の前まで来てしまっていた。途中立ち寄ったコンビニでゼリーなんかを適当に買い込んで、やけに膨らんでしまったビニール袋を提げながら。
 どうしよう。ドアノブにかけて帰ろうか。いやでも、具合がどうかくらいは聞いて帰ってもいいんじゃないのかな。らしくないくらいにうじうじと考えて、ひとつため息をついたその瞬間、握ったままのスマホが震えだす。……電話だ。慌てて確認すると、何かの間違いかと思ってしまったけれど、相手はさくらさんだった。
 もしかしたら、切れてしまうかもしれない。逸る心のままに通話ボタンに触れると、無駄に軽やかな電子音が途切れていった。
「……さくらさん?」
「あっ、えっ、もしもし……無一郎くん?」
 いちばん新しい記憶の中の声よりも、少し掠れているような気がした。「ご、ごめんねいきなり」って、どうしてだか慌てだすから、「べつに大丈夫だよ」っていつもの調子で答えておいた。体調はどうかだとかいろいろ話したいことはあるけれど、知った経緯も簡潔には説明できそうにないし、ひとまずさくらさんの次の言葉を待ってみることにする。
「連絡とか……できてなくてごめんね。その、実は、風邪ひいちゃって」
「……うん。大丈夫なの?」
「熱は下がったよ、まだちょっと喉痛いけど……」
「そっか」
 思っていたより重症ではなかったようで、こっそりと胸を撫で下ろしていた。僕から訊かずとも話を進められたことにも安堵しつつ、「ちゃんと休みなよ」と声をかけて、「さくらさん、すぐ無理するから」と付け足してやると、ちょっと気まずそうな笑い声が響いてくる。
「そうかなあ」
「そうだよ」
「うん、……あのね」
「……なに?」
「ごめん、話は、これだけなんだけど」
 少し話しにくそうなのは、喉が痛いせいか、言いにくいことを言おうとしているのか、そのどちらもか。躊躇うように詰まった空気が、「無一郎くん」って、僕の名前を呼ぶ。
「しんどくて……なんか、心細くなっちゃったんだよね」
「……うん」
「それで、無一郎くんの声、聞きたくなっちゃった」
 ごめんね。と結ばれる言葉に、「なんで謝るの」って、そんな声が転がり出ていった喉が焼けるように熱い。
「だって、都合のいいことばっかり……ごめんね」
「……さくらさん」
「うん……」
「開けて」
「…………え?」
「鍵。開けて」
「……どっ、どういう、こと?」
 さっきよりも明らかに慌てているさくらさんに、「家の前にいる」とだけ短く告げると、あんまり聞いたことがないような声にならない掠れた声がスマホから響いてきた。「心配で、会いにきたから」とたたみかける。「さくらさんの顔が見たい」って。
 心細くて、そうして頼る先に僕を選んでくれたということ。ちゃんと僕にもできることがあったんだって、僕はここにいていいんだって、まるでそう言われたみたいだと思った。
 ――がちゃり。目の前の鍵が回る音と、電話越しに響く硬い音が、ほんの少しずれて聞こえてくる。ゆっくり、ゆっくり開いた扉の隙間から僕を覗き見るさくらさんが、「ほんもの?」なんてバカみたいなことを大真面目に言うから、こんな時なのに笑ってしまった。
「偽物に見える?」
「見えない……で、でも、なんで」
「会いにきたんだってば、さくらさんに」
 ぱちぱち、くりかえされる瞬きに瞳がきらめいている。……本当はさっさと押し入ってしまいたかったけれど、僕だってそんなにデリカシーのない人間じゃない、と思う。「入ってもいい?」って訊くと、さくらさんはちょっと気まずそうに視線をさまよわせた。
「……その、結構散らかってるし、私はお風呂入ったけど、うーん……」
「……だめなら帰るよ」
「あ、……うん、そうだよね」
 はっとしてから視線を伏せたさくらさんは、「そうだよね」って、同じことをまたつぶやく。表情が見えなくてもどかしいけれど、どうしてだか、帰って≠ネんてことは言われないような気がしていた。
「無一郎くんの言うとおりだ」
「……え?」
「いつも、会いにきてくれるのは無一郎くんだったね」
 僕がその言葉の意味を噛みくだくよりも早く、きぃ、と音を立てて扉の隙間が大きくなった。漏れ出てくる光をぼうっと見ていると、「ほんとに散らかってるけど、嫌いにならない?」って、さくらさんが眉を下げてみせる。
 ……ねえ、さくらさん。それくらいで嫌いになれるなら、僕はこの時代で生きる道は選ばなかったんだと思うよ。
「……なるって言ったらどうするの?」
「えっ! え……急いで片付ける、かも」
「ふふ、ねえ、冗談だから」
 一歩踏み出すとさくらさんもそっと後ろにさがって、一際大きく扉がひらくから、迎え入れるみたいに開けられた場所に踏み込んだ。ゆっくり、ゆっくり閉じる扉が、広すぎる夜とこの小さな世界を、ほんのすこしずつ引き離してゆく。

 この人の言う「散らかってる」は、あてにならないことが多い。わかってはいたけど。案の定それほどひどいことにはなっていない部屋で、「無一郎くんごはん食べた? 何か作ろっか?」なんて言ってくるからしっかり止めておいた。病人にそんなことさせるわけないに決まってる。ましてやさくらさんに。
 あんまり食欲がないなんて言うから、買ってきたレトルトのおかゆを温めて出してあげた。向かい側じゃなくなんとなく隣に座ると、「無一郎くんに何か作ってもらったの初めてだ」ってさくらさんは笑った。
「作ったうちに入らないでしょ」
「そんなことないよー」
「今度また、ちゃんと何か作るから」
「え、無一郎くん料理できるの?」
「……最近ちょっと練習してる」
 さくらさんみたいにはできないけど、って付け足そうとしたけれど、すごいねえ、なんて目を輝かせる姿を見ていると、つまらない逃げは喉の奥に引っ込んでしまう。
「無一郎くん器用だもんね、すぐ上達しそう」
「いや、そうでも……昔はよく怒られてたし」
「怒られてた?」
「米も炊けなくて、兄さんに任せっきりだったから」
 ふと、昔を思い出してこぼしただけの話だった。
 けれど、ぴたり、さくらさんが手を止めるから。空気が少し、硬くなってしまったような心地になる。
「……家事はからっきしなのかも」
 茶化すみたいに言ってみたけれど、そんな言葉も静かに溶けてゆくだけだった。
「無一郎くんは……」
 視線が絡んで、でも逸らされて、うつむいたさくらさんの横顔を僕は目で追っていた。戸惑うように、躊躇うように、口を開こうとしてやめてしまうさくらさんはきっと、知りたい≠ニ思ってくれている。僕の歩いてきた道を、時間を、僕のことを。

 あのころふたりで暮らしていたとき、それから再会してからも、さくらさんが僕の今までについて訊ねてきたことはほとんどなくて。踏み込んではいけないと思う遠慮だったのかもしれないし、断片的に話した過去から痛みを感じ取っていたのかもしれない。
 もう一生、話すことなんてないはずだった。つまらない言葉なんかじゃ語り尽くせない過去だ。あえて口にしてまで得られるものなんかないと思っていた。……それなのに。
 たとえ全てを知らなくても、いつだって僕のために泣いてくれる、優しすぎるあなたに。きっと全部を話し尽くすことなんかできないけれど、あとほんの少しだけでも、僕のことを知ってほしくて――。
「……さくらさん」
 きらりと光る瞳に僕がうつりこんで、「きいてくれる?」って、ささやくような言葉に小さく息を呑む音がする。
 
 いつかは時すら飛び越えてしまったこの小さな部屋のなかで、交わる視線がきらきら溶けて、ゆっくり、静かに夜が深まってゆく。






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