指折り数えて、朝まで



※現パロ




 恋人と、朝まで一緒に過ごしたことがない。

 私がこんな話を持ち掛けると、ランチを共にしていた同僚は「それ、あんたが本命じゃないってことなんじゃないの」と顔をしかめた。

 私と善逸は高校の同級生だった。プチ同窓会みたいなもので久しぶりに再会した善逸は、学生の頃よりもずっと落ち着いて大人びていて──そんな彼に少しドキドキしていたところ、なんと善逸のほうから告白してもらって。そして今、付き合ってもう半年を過ぎる頃だった。
 最初は友達気分が抜けずぎこちなかったけれど、だんだん距離も縮まって、世間のカップルがするようなことは大抵してきた、と思う。だけど前述のとおり、朝まで一緒に過ごす、いわゆるお泊まりデートをしたことはなかった。
 身体を重ねた後だって、そのまま一緒に眠ったことはない。でも、その時の善逸は決してつめたいわけではなくて──とびきり優しい口付けをくれて、この上ないほど甘ったるく愛を囁いてくれる。
 それから、過ごしている場所がホテルや善逸の家ならば、どれだけ遅くても遠回りをしてでも送ってくれるのがいつものことだった。だからこそ、違和感を抱くまでには随分と時間がかかってしまったのだ。

 このあいだ「今日はこのまま一緒にいたい」と、言ってみたけれど。善逸はその透きとおる目をまん丸に見開いて、けれどそれをすぐに曇らせてしまって、「ごめんね、帰ったら電話するからさ」なんて寂しそうな声色で言って抱き締めるから、私は口を噤むほかなくなってしまった。……そうして。心にかかる靄はゆっくり、でもたしかに濃くなっていく。

 だから私は、同僚のその言葉に「やっぱりそうかなあ」と返すほかなくなってしまっていた。というよりは、この違和感の正体を明かしかけていたところで、背中を押してもらいたかったのかもしれない。そんなはずない、そう思いたいけれど──渦巻く気持ちを片付ける答えは、私にはこれくらいしか思い付かなかったから。

 ああでも、言葉にしてしまうと。あのやさしい眼差しが、あたたかい言葉たちが、ぜんぶ嘘だったとしたら。そんな良からぬ想像が、靄どころか真っ黒い雲になって胸にたちこめる。もし本当に“そう”ならしばらく立ち直れないかもしれない。今日の夜は善逸と約束をしているけれど、楽しみだったはずのその時間すら、ともすれば憂鬱に飲み込まれそうになる。胸に渦巻く淀んだ空気を、なんとか大きく吐き出した。





 夜、善逸との待ち合わせ場所である駅前に向かう。少し離れたところからでも目立つ色が目に飛び込んできて、とくん、心臓が跳ねるのがわかって。まるで、その音が聴こえたみたいに。いや、善逸のことだから、本当に聴こえていたのかもしれない。ぱっと顔を上げた善逸と目が合って、彼がふにゃりと柔らかく笑うから、固まりかけていた私の表情もゆるゆると解かれていった。


「善逸! 待たせてごめんね」
「んーん。俺もさっき来たとこ」
「ほんと?」
「ほんとほんと。じゃ、行こっか」


 差し出された手を、なんの疑いもなく取る。ねえ善逸、大丈夫だよね。手のひらから伝わってくるような気さえする愛情を受け取ろうと、心ごともたれ掛かるみたいに身体を寄せた。


「なぁに、どうしたのなまえ。なんか嫌なことでもあった?」
「……善逸、心配してくれるの?」
「当たり前じゃん」


 それから、握り合う手に力が込められる。それじゃあ明日はふたりとも休みだし、今日は善逸のおうちに泊まっていってもいい? なんて。苦しげなあの表情が頭を過ぎって、こぼせない言葉たちが冷たく喉をすべり降りていく。柔く心臓が締めつけられて、すこしだけ息が詰まった。


「……本当にどうしたの?」
「ええ? なんでもないよ、ちょっと疲れちゃってるのかも。仕事、立て込んでたし」
「……うん、そっか」


 これ以上は深入りすまい、そんな表情で善逸は頷いた。


 まるで、ガラスみたいな。限りなく透き通っているように見えて、むこう側がぼやけてしまうほどの、到底割れない厚さの壁。そんなものが、私たちを隔てているような気がした。今だって強く手を握り合って、私も善逸もどうにかして信じ合おうとしているのだろうけど──気遣いなのか、秘密なのか遠慮なのか、不確かなものに遮られて身動きが取れないのだ。
 きっとお互いに何かを抱えているのに、どちらも訊ねることができないままに、静かに静かに夜に溶けていく。





 はっと、目がさめる。カーテンの向こうから染みこむ光、それに薄ぼんやりと照らされる部屋には見覚えがあって──善逸の、部屋だ。そう思うと同時にすっと意識が冴えてきて、慌てて身体を起こす。ベッドからずるりと毛布が落ちて、微かな唸り声が隣から聞こえた。


「んん……」
「……ぜんいつ……?」


 シャツにスラックス、昨日会ったときのままの格好だ。けれど善逸の眠る姿は、少し戸惑ってしまうくらいに弱々しくみえた。
 すらりとした長身は、膝を抱えこむようにぐっと縮こめられて──白いシャツにつつまれた腕が、薄い朝日でもきらめく金髪を隠そうとしているように見える。いや、違う。もぞもぞと、でも必死さすら感じさせるふうに動く腕を見つめて、思う。これは、耳を塞ごうとしているのかもしれない。


「善逸、おきて。大丈夫?」


 どこかつらそうな様子からして、悪い夢でも見ているのかもしれない、とっさにそう思った。少し無遠慮に肩を揺するけれど、なかなかその頼りなくうずくまった格好を崩そうとはしてくれない。

 あ、善逸って、朝弱いんだ。……そう思ってやっと、善逸とはじめて朝を迎えたことに気付いた。
 昨日は疲れもあったのか酔いが回るのがお互い早くて、少しふらふらしながらお店を出た、ような気がする。そこから近かった善逸のおうちにお邪魔して、記憶があいまいだけれど──お互い、そのまま眠りこけてしまったのかもしれない。私も昨日着ていたままの格好だし、化粧も落としてない。しまったな。

 そしてなにしろこれは想定外のことで、朝を迎えたことに今は喜びや安堵なんかを感じている場合ではなかった。どうしよう、もし予想通りに私が本命じゃなくて、約束してる彼女なんかと鉢合わせたら……。いやでもなんだか、ここで黙って帰るのも良くないような気がする。
 若干の焦りを感じつつ、相も変わらずうずくまったままの善逸を揺り動かしていると、「ん……?」と、やっと意識が浮き上がってきたような声を出してくれた。


「善逸、おきた?」
「ん? んー……んぁ、えっ、あれ、なまえ!?」


 がばっ、と突然とび起きるから、私も大きく肩を震わせてしまう。きれいな金髪はところどころ乱れて跳ねて、はじめて寝癖を見たな──なんて。呑気に考えていると善逸の顔が青ざめていくから、つられるように私の身体も芯から冷え始めていった。

 そうかやっぱり、善逸には私と朝を迎えられない理由があるんだ、と。喉が焼けるような心地がして、何か言う気にもなれなかった。そして、何か言われる気にもならなかった。「あの、」と言いかけた善逸を制して、ひとり黙ってベッドを降りる。


「ごめん。……ごめんね善逸」
「……いや、あの、……俺こそ、ごめん」


 背中を向けて、慣れた部屋をざっと見回す。所在なさげに落ちていたバッグを引っ掴むと、ぎゅうと胸が締め付けられて、目頭に熱く涙が滲んできた。だめだ、こんなときに泣いたら。


「私、もう帰るね」
「…………ん……」
「……本命の子、と。はち合わせたりしないように、気をつけるから」
「……は!? は、はぁ!?」


 がたん、どすっ。すごい音に振り返ると、なんと善逸がちょうどベッドから落っこちるところだった。
 善逸のひっくり返った甲高い声もあいまって、頭がぐらぐらしてすぐには状況が呑み込めない。そうしてぼうっと立ち尽くす私のほうに善逸が四つん這いで突進してくるから、反射的に少し後ずさってしまった。いや、これは仕方ない。


「ほん、ほんめいのこ!? って何!?」
「ほ、本命が、いるのかなって……?」
「いやいやいや待っ、待って、本命もなにも、なまえだけなんですけど!?」


 ずるずるとフローリングで足を滑らせて立ち損なうこと数回、叫びながらもやっと立ち上がった善逸が、呆然としている私の肩に手をかける。きらきら光る琥珀の瞳は、少し潤んでいるようにも見えた。


「ごめんなんか誤解してると思うからイチから説明してもらっていい!?」


 そして寝起きのくしゃくしゃの格好のまま、そう早口で圧をかけてくるので、慌ててこくこくと何度も頷いた。

 朝まで一緒にいてくれないのは、私が本命じゃなくて、何か都合の悪いことがあるのかと思った──と。しどろもどろになりながらもそう話すと、善逸は突然大きな大きなため息をついて、「そういうことかあ……」と私の前にしゃがみ込んでしまった。
 言葉を探していると、「うん、そうだよな、そりゃそうだわ……」と、頭を抱え込んだままぶつぶつ独り言を繰り返しているから、余計に何を言えばいいのかわからなくなる。「善逸」と意味もなく名前を呼ぶと、のっそりと顔を上げた善逸の、前髪の隙間できらめく瞳と視線がぶつかった。


「……俺さぁ、てっきり……」
「てっきり……?」
「…………俺の癖、見られて。……嫌な音もしたから、なまえに愛想尽かされたのかと思って、さ……」


 ──癖? なんのことかとつい首を傾げてしまうと、善逸はぱちくりと目を瞬かせる。「さっきの、見ただろ」とばつが悪そうに言われて、少しまえのことを思い出そうとするけれど、“愛想を尽かす”ほどのことなんて思い当たらなくて。それに嫌な音というのもきっと、勘違いが膨れて抱えてしまった疑心の立てたそれだろう。


「……フローリング、四つん這いしてきたのとか……?」
「……いや、あれを俺の癖だと思ったわけ……それはそれで心外なんですけど……」


 苦し紛れに絞り出したそれは大ハズレだったらしく、慌てて謝ると善逸は「いやごめん、おまえが謝ることじゃ……」と言いかけて。そこで言葉を止めて、おもむろに立ち上がった。緊張しつつもすこし目線を上げて、ゆっくりと引き結ばれていく口元を見つめていると、それは存外すぐに解かれる。そうして「さっきさ」と話し始めて、ばくばくと心臓が跳ね始めていた。


「……耳ふさいで、寝てただろ。俺……」
「あ、うん……」
「癖なんだよ、あれ」
「……癖」
「……聴こえすぎて、寝らんないんだよ」


 はっとした。普通のひとよりもよく聴こえてしまう善逸はきっと、たくさんたくさん苦労してきたのだろうなと、ぼんやりそう思ってはいて──それでも。
 具体的にどう困っているかとか、そんなことは考えたことがなかった。善逸もなにも言わなくて、私もすこし心配しつつもなにも訊かなくて、だから、気付いてあげられなかった不甲斐なさに心が揺れた。


「情けなくて、どうしても見られたくなくて、さ。……だから、一緒には寝ないようにしてたんだよ。勘違いさせるようなことして、ごめん」
「……ううん。私も、気付けなくてごめんね」


 目の前でぼうっと立っていた善逸が、ふいに私の髪を一束さらりと掬う。「いいんだよ、それでさ」と呟いた響きは、どこか拗ねているようにも聞こえた。


「ずっと、気付かれないように格好つけてたんだから」
「……なんで、そんな……っ!?」


 抱き締められた、というより。突然に覆い被さられるような姿勢になって、慌てて膝に力を込めた。倒れこみそうになりつつ戸惑う私の耳元で、善逸が鼻をすする。


「格好つけたくもなるだろ、そりゃさぁ」
「ぜ、ぜんいつ」
「だってさぁ、ずっと、高校んときからずっと、好きだったんだから……」


 ──し、らなかった。もたれかかってくる善逸を踏ん張って支えながら、「ずっと好きだった」なんて告白に素直に反応した心臓が、ばくばくと音を立てて暴れ回る。


「……でも俺、本当にダメじゃん。おまえに好かれようって、頑張って大人っぽく振る舞ってたんだよ、俺」
「うん……」
「それなのに、なまえはこんな俺を見たって引かなかったのに、……俺は、おまえを不安にさせて、ほんと、なに、やってんだろうなぁ……」

 ずず、とまた聞こえた音に、善逸は泣いているのかもしれない、と思った。気持ちがぐちゃぐちゃにかき乱されて、どうしてだか私まで泣きそうになる。唇を噛み締めながら名前を呼ぶと、ひどく弱々しい返事が聞こえた。


「善逸が、……こんなにも私を想ってくれてたこと、ちっとも知らなかった」
「……しられたく、なかったよ、おれは」
「どうして、私……すっごく、嬉しいのに」


 滲んでいた涙が、ひとつぶ溢れた。頬を伝っていく音を聴いたのか、大慌てで私を引き剥がした善逸は、濡れた瞳で私をのぞき込む。「なんで泣いてんの」「善逸こそ」なんて短く言い合って、それから。そっと善逸の目元を拭いとった。あたたかい涙が、親指に沁みる。


「ごめんね。……でも、わかってよかったよ。嬉しいよ」
「……こんなにカッコ悪いのに?」
「かっこ悪くない、けど……もしかっこ悪くても、善逸が好きだから、大丈夫」
「……なんだよ、もう、さぁ……」


 なまえ、どんだけ好きにさせるつもりなの。私の両肩に手を置いたまま項垂れる善逸の、そんな絞り出すような声にまた、哀しくもないのに涙が滲む。
 胸の奥がぎゅっとしめ付けられて、緩みきった涙腺はなんだって涙に変えてしまうのだ。切なさとか申し訳なさとか、嬉しさも愛おしさも、ぜんぶ。まるで、こころに立ち込めていた真っ黒い雲が晴れていく、その前触れである雨みたいに。

 ねえ善逸、ひどい勘違いしちゃってごめんね。つらいこと、気付いてあげられなくてごめんね。それから、ずっと好きでいてくれてありがとう。──涙で喉が焼けて、うまく言葉にならないけれど。それでも、気持ちを伝えたくて、項垂れた善逸の頭をそっと包みこんでやさしく抱き寄せた。ちょっとだけ背伸びして、こぼれ続ける雫にも構わずに。
 どうか私のこの想いたちが音に乗せられて、善逸のすてきな耳に届きますように。それから私の音が、すこしでも善逸を安心させてあげられますように──なんて、そんなことを願いながら。昇りきった朝日が、カーテンの向こうでまばゆく揺らめいている。



20210517
久しぶりの我妻善逸!!!!




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