つま先立ちの純情と



※現パロ




俺は、この関係に甘えていたのかもしれない。


絶対に離れていくはずがない、と。
この妹みたいな、可愛い可愛い幼馴染はずっとずっと俺のことが好きに違いないと、自惚れていたんだと思う。
だから、この子が高校を卒業したら俺からも気持ちを伝えようだとか、それはそれは呑気に考えていた。

でも、その幼馴染、なまえが高校に入学して数週間。突如として、向こうからの連絡の頻度が落ちた。

もう高校生なんだから、彼女には彼女の世界ができるかもしれないって、どこかでわかっていたのに。
なんにもしなかった俺が悪いってのに、今更焦り始めてしまっていた。



『高校はどう?』
『うん、たのしいよ』
『友達できた?』
『うん』
『そっか、良かった』

なまえとのやり取りは、俺の送信したメッセージに「既読」の文字がついて終わっていて、ため息が漏れ出る。
なまえが中学生になってスマホを買ってもらってから、本当にひっきりなしに連絡が来ていたし、向こうから話を終えることなんて一度もなかった、のに。

勢いに任せてつい通話ボタンを押してしまうと、軽快な音楽が呼び出し中であることを知らせてくる。
それがやけに大きく聞こえて、理不尽でしかないと解りつつも苛立ってしまった。


「…出ろよ、ばか」




***





なまえは、俺より7つ歳下だ。なまえの両親が隣に越してきたのは俺が5歳のときで、つまりなまえは生まれた時から、俺の隣の家に住んでいた。

もう、それはそれは、本当の妹みたいに可愛がった。よく面倒を見たり遊んでやっていたら、物心ついた頃から「お兄ちゃんのお嫁さんになる」なんて言いながら、俺の後ろをついて回るようになった。
当時小学生だった俺も満更でもなくて、「うんうん、結婚しようね」と手を握り返すと、ニコニコ嬉しそうに笑っていたっけ。

俺が高校生になってからも、相も変わらずそんな調子だった。当時の彼女といる時に鉢合わせてからは、暫く機嫌が悪くて。
なまえのお母さんに頼み込んで事情を訊ねると、その日はずっと泣いていて、それから数日機嫌が直らないんだと、申し訳なさそうに教えてくれた、そんなこともあった。

流石になまえも中学生にもなると照れていたし、お兄ちゃんと呼ぶこともなくなったけど、「善逸くん、今ってカノジョいるの?」なんてもじもじしながら訊いてくる事もあって、なんともいじらしかった。


そんななまえを可愛い妹だと思い込むことは、いつしか難しくなってしまっていて。だけど、立派な成人男性が中学生に想いを伝えるなんて、そんなことは到底できないというか、許されないし。せめてもの抵抗として、数年間、彼女なんかはいない状態だったりする。

なまえは本当に、昔からずっと、ものすっごく可愛かった。
いや、今も可愛いんだよ。だって高校の入学式の朝も、「善逸くんに一番に制服姿見せたかったの!」って、俺に会いに来てくれて、危うく抱き締めてしまうところだった。



「あ、もしもし?」
「あ…」


応答なくこのまま切れてしまうだろうと思っていた電話。呼び出し音を遮ったのは、紛れもなく思考の中心にいたなまえの声で、言葉がつっかえた。

「善逸くん?」と不思議そうな声がして、「あ、ごめんごめん」ととりあえず返事をする、けど。やばい、何話すか考えてなかった。


「あのー…学校、終わったの?」
「うん、さっき終わってね。今、学校出たとこ」


当たり障りのない、普通の会話をしているはずなのに。無駄に敏感すぎる俺の耳は、わずかな声の浮き沈みまで聴き分けてしまった。
なんだか変、だ。いつももっと、心が浮き立っていることが伝わってくるような、そんな明るい声で話してくれていたのに。


「…なあ、うち来る?」
「はっ?な、なんで?」
「俺の新居、遊びに来たいって言ってたよね。晩ご飯ご馳走するけど」


この春に大学を卒業して社会人になった俺は、じいちゃんの元を離れて一人暮らしを始めていた。といっても、地元から電車で二駅の、程近い場所だけど。
その新居に、引っ越したら遊びに行かせてね!となまえに言われて、うんうん片付いたらね、と躱していた。だって、女子高生を家に連れ込むなんて、さあ。結構マズいじゃんか、色々。

だけど、なんとなく漂う違和感の正体を突き詰めたい今、この口実を使わない手はないんじゃないの?なんて考えてしまう。
今日は偶然休みで、部屋をピカピカに掃除して片付けたところだし。でも俺の提案を最後にしばしの沈黙が訪れてしまって、じわりと手汗が滲んだ。


「…じゃあ、お邪魔しようかなあ」


沈黙を破ったのは、なまえの声。
その返事に安堵しつつ、なんだか声色はやっぱり浮かないものだから、一抹の不安に襲われる。
でも会わないことには解らないしと、最寄り駅と駅まで迎えにいく旨を伝えて、電話を切った。







伝えられた到着時刻に駅前まで行くと、改札の向こうから歩いてくるなまえの姿が見えた。
制服、よく似合うなぁ。

目が合うと、なまえの表情が可愛らしく綻ぶ。なんだいつも通りじゃん、とその表情に少し安心したのも束の間。
彼女はなぜか唇を引き結んでしまって、それから、どこからか変な音がした。
不安とか、心配とか、俺と居る時には、多分させたことがないような音。


「わざわざありがとね、善逸くん。今日お仕事は?」


その音に戸惑う俺をよそに、彼女は横に並んで話しかけてくる。なんとか「お休みだったよ」と答えると、「そっかあ」と気の抜けたような返事が返ってきた。
やっぱり、なんだか余所余所しい。それから、落ち着かない。

そのまま殆ど話すことのないまま俺の家に着いたけれど、彼女から響く不安げな音はもっと大きくなっている。どうしたものかと思いながら、玄関ドアをゆっくりと開けた。

俺の困惑を知ってか知らずか、彼女は「おじゃましまーす」と俺の部屋に踏み入って、楽しそうに部屋を見回している。


「わー、綺麗だねえ」


ギリギリまで更に頑張って綺麗にしたしな、と心の中で返事しつつ。俺はその音に耳を澄ますことをやめられなかった。少し明るくなったけど、やっぱり。
彼女だって、俺に聴かれていることは解っているだろうし、直接訊いてしまえばいいのかもしれないけど。歳上としてのちっぽけなプライドとか、それから…離れていくことへの不安とか。情けなくもそんなものに邪魔されて、何も言えないまま「ありがと」とだけ返事をした。

時計を見遣ると、まだ十七時。夕飯には早いだろうと、とりあえずまだ新しいソファに座ってもらって、俺もキッチンで飲み物を用意してから、隣に座った。


「ん、りんごジュースでよかった?」
「うんうん、ありがとう。…あ、ちゃんと私の好きなやつ」


この子は小さい頃から、りんごジュースに大層こだわりがあった。よくわからないけど、白く濁ったやつは嫌で、透けている方が好きらしい。
別に俺はなんでも良いんだけど、なんとなく。スーパーではなまえが飲んでいたメーカーのものを手に取ってしまうから、家にあるのはいつもその透けた方だ。
一口飲んで「善逸くんもりんごジュースはこっち派だっけ」と言われて、「別に。なまえがいつ来てもいいようにと思って」と答えて一口飲むと、びく、と肩を震わせる様子が視界の端に映った。
…本当、何をそんなに不安がってるんだよ。


「…高校は、どう?」


文面でも散々聞いた質問を繰り返してしまうと、「うん、楽しいよ」と、返事まで被せられてしまった。

話を変えようと頭を捻るけど、聴こえてくる音はやっぱり変わらないどころか、もっともっと暗くなっていくから。俺も焦燥感に追いかけられるような心地がして、うまく話題が出てこない。
今まで本当に、こんなことなかったのに。


「…んっと、将来、やりたいこととかあるの?」
「うーん…高校生なりたてだし、今はまだ考えられない、かな」


ことん、と音を立てて、コップが机に置かれる。
その小さな音を、合図にしたみたいに。いつもと決定的に違う事に、気付いてしまった。

いつも、いつだって。
将来のことを聞くと、幼稚園のときは「お兄ちゃんのお嫁さんになる」、小学校に上がっても「お兄ちゃんと結婚する」と、中学生になって呼び方が変わっても「善逸くんといっしょに居たい」って、俺の話をしてたのに。
なんで、今はそう言ってくれないんだよ。

やめておけばいいのに、俺は更に質問を重ねてしまう。


「高校卒業したらさ、どうするの?」


ぐるぐる、目の前がゆっくり廻る。彼女の音を聴くことすら忘れて、祈るみたいに目を閉じた。

ほら、いつもみたいに言ってよ。お兄ちゃんのお嫁さんになる、って。


「うーん、とりあえず大学とかかなって、」


そこで、言葉は途切れた。いや、俺が手を引いて抱きしめて、途切れさせた。戻ってきた聴覚が、一段と強い不安と戸惑いの音を捉える。彼女の心臓がばくばくと暴れだす音も、聴こえる。
その細腕がぐいぐいと胸板を押し返すから、さらに腕に力を込めてやった。


「や、やめて、善逸くん」
「…やめねえよ。今更逃げんな」


彼女の音が、暗く暗く沈んでいく。
戸惑いだったそれは恐怖に姿を変えたけれど、手を離す気には到底なれなかった。

散々、好きだとかお嫁さんだとか、言ってたくせに。こんなに簡単に離れていくなんて、そんなこと、あるかよ。

小学生の頃、あんなに抱きしめてってせがんできたくせに。なんで今は、離れようとしてくるんだよ。

片腕の力を緩めないまま、彼女の頬に触れて。それから顎を掴んで引き上げてやると、うっすら張った涙の膜で歪む瞳と、視界がかち合った。

きっとまた、やめて、そう言おうとしたんだろう。
言い切る前に唇を塞いでやると、薄い膜が破れて、それから涙が一筋こぼれ落ちた。
 

「…高校入って、好きな奴でもできた?」


一瞬でその熱を切り離してから問い掛けると、もう片方の頬にも涙の糸が走る。「違うよ」と小さく動いた唇をまた奪いそうになって、何とか自分を制した。


「じゃあ、なんで…そんな音、させてんの」
 

力の抜けてしまったその身体を、ゆっくりソファに押し倒す。音を聴かなくてもわかるぐらい、その瞳が恐怖の色に染まった。


「…だめ」


震える声と押し返してくる手は、おそらくなまえの精一杯の抵抗。涙が目尻から幾つも落ちていって、罪悪感に胸が締め付けられる。

だけど、離せない。罪悪感なんかを易々と踏み越えていくその欲が、身体の奥から湧き上がってくる。

鼓膜を揺らす不安と恐怖の音に抗うみたいにして、距離をまた詰めた。唇が触れるか触れないか、その瞬間になまえが「だって!」と声を絞り出すから、呪文を掛けられたみたいに身体が固まった。



「ぜ、善逸くんが!逮捕されちゃうから…!」

「…は?」


思わず、体を引いてしまった。するとなまえは俺の下から素早く抜け出して、部屋の隅まで逃げていく。
角にぴったり嵌るみたいに三角座りをするその姿を、少しの間ぼーっと見つめてしまった。

戸惑いながらも近づこうとすると、「やだ!こっち来ないで!」と涙声と手で制されて、その直接的な言い草に、情けなくも泣きそうになった。


「…高校で出来た友達と、す、好きな人の話したとき、言われたの」


手の甲で涙を拭うなまえに「なにを?」と小さく問いかけると、嗚咽を漏らしながらも言葉を継いでくれた。


「…女子高生と大人が…つ、付き合うと、大人がね…逮捕、されるんだって…」


ぐす、と鼻を鳴らしながら「私が付き纏うせいで、善逸くんが捕まったら、どうしようと思って、避けてたのに」と膝に顔を埋める姿を見て。

肩の力が、一気に抜けた。

と、同時に。一度消えたさっきの罪悪感が、俺を押し潰しにかかってきた。
あんなに怖がらせて泣かせて、それから。その唇まで、無理やり奪って。
血の気が引くみたいな心地がして、目の前が揺れた。


「…本当、ごめん…」
「………やだ」
「お前の様子が、あんまりにも変だから…俺のこと、嫌いにでもなったのかと思って、焦って…」
「え、わ、私が…!善逸くんのこと、嫌いになんかなるわけないじゃん…!」


その言葉に、今まで張っていた気は一気に緩んで、毒気も全部抜かれてしまって。大袈裟なくらいに息を吐き出して、その場に崩れるみたいにしゃがみ込んだ。
「大丈夫…?」と心配そうにこちらを見ながらも、動こうとする様子はないのが、なんとももどかしい。


「…好き同士でいるぐらいなら、逮捕はされないよ」
「そうなの…?って、え、好き同士って」
「えっちなことしなかったら、大丈夫だから」
「え、えっ…」


耳まで紅く染め上げて固まる姿を見て、隠れていた加虐心がほんの少し顔を出したけど、なんとか抑え込んだ。

落ち着いて耳を澄ますと、不安とか恐怖とかそんな音はすっかり消えて、跳ね回る心臓の音だけが鼓膜に響いてくる。そもそも、あれは俺自身への感情じゃなくて、俺が逮捕されるかも、なんて可愛らしい心配事への感情だったわけで。

自分勝手で、悪いけど。さっきの罪悪感とは別に溢れ出てきたのは、十数年分の愛しさだった。
開けられていた数歩分の距離を詰めて、三角座りの目の前にしゃがみこむと、今度は来ないでとも何も言われなくて、密かに安堵した。


「…ごめんね。さっきの、ファーストキス?」
「…そうだよ…だって」


言葉を切って膝に顔を埋めた彼女の髪を、優しく撫で付ける。それから「だって?」と訊ねてみると、口元だけは埋めたまま、潤んだ瞳が俺に向けられた。


「大事に大事に、とってあったんだもん」


そう言ってから、また目元まで膝の中に埋め込んでしまう。込み上げるものを堪えながら「ごめんね」と謝っても、ぐりぐりと顔を擦り付けるように首を振るばかり。
でも、髪をかき混ぜるみたいに撫でてやると、微かに響くのは嬉しそうな音だった。

募る愛しさを噛みしめながら、「本当にごめんね」ともう一度謝ると、ひとまず首を振るのをやめてくれた。


「ねえ、やり直ししよっか」
「…え?」


ぽかんとした顔を膝から上げた彼女の、そのふんわりした唇。そこに自分のそれを、今度はとびきり優しく、柔らかく、そっと重ね合わせた。


「っん…!」


慌ててなまえは身体を引こうとするけど、そもそも逃げ込んでいるのは壁際で、それは叶わない。
やがて観念したようにゆっくり目を閉じるから、そんななまえの睫毛を見届けて、俺も瞼を下ろした。

気が急いていた時には感じられなかった、その柔らかさと温かさ。
それから、鼓膜を溶かすみたいな甘い甘い音。
小さく震える姿も愛おしくて、性懲りもなく意地悪してしまいそうになる自分に呆れながら、名残惜しくも離れた。


「ん、これが、ファーストキスってことで」


そう言った瞬間、なまえはさっと両手で自分の唇を覆ってしまった。
「善逸くんのばか」と籠もった声で悪態をついて真っ赤になっているその姿は、俺の後ろをついて回っていた頃より、当たり前だけどずっとずっと大人になっていて。それなのに、可愛くてしょうがなかった。


「俺はね、お前のことが好きだよ」
「…善逸、くん」
「さっきは本当にごめんね」
「……うん」


またその髪を撫でてから、「抱き締めていい?」と聞くと。
目に涙をいっぱいに溜めたなまえの方から、飛び込むみたいに抱きついてくる。
危うくバランスを崩しそうになりながらも抱き留めて、その温もりを腕に閉じ込めた。


「私も、好き。ねえ善逸くん、ずっと大好きだよ」


初めて会ったとき、この子はまだ言葉も話せなかった。

あんなに小さかった子が、愛だの恋だのに惑わされてしまう思春期まで、初恋を大事に大事に暖めて、ずっと一途に俺なんかを想ってくれてきたんだと思うと、何故だか涙が溢れそうになって。唇を噛んで、必死に耐えた。

俺が高校生のときは、どうせそのうち言わなくなるだろ、なんて思って、なまえを忘れて人並みに恋愛したこともあった。

成長しつつあったなまえに愛しさを感じ始めても、これは恋愛の類じゃなくて親心みたいなもんだろ、って誤魔化して。知らんふりをしながら、他の女の子を抱いた夜もあった。

どうしようもないほど膨れ上がった気持ちに、今更、本当に今更気付いてしまう、自分勝手で情けない俺なのに。
まだ好きだって笑ってくれるなんて、幸せすぎてバチが当たりそうだよ。


「俺はちゃんと、お前が大人になるまで待つから。その、逮捕されないように」
「うっ…う、うん」
「そんな泣くなよ」
「だって、だってね、嬉しくて」


やっと、初恋が叶ったから。

腕の中で小さく小さく呟かれたその声に、堪えていた涙が一粒だけこぼれ落ちる。彼女に見られないようにと、慌てて拭い取った。


「…だから、大人に、なったらさ」
「っ…ん、な、に?」


相変わらずぐずぐずと鼻を鳴らして、それから声を詰まらせながらも、ちゃんと返事をしてくれるなまえが、可愛くて愛しくて。
もっと力を込めて抱き締めると、嬉しい、とか、大好き、とか。そうとしか捉えようがない程に柔らかくて甘ったるい音が、真っ直ぐに俺に向かってくる。


「ずっと言ってた通り、俺のお嫁さんになってよ」


どくん、大きく心臓が跳ねる音と、それを追いかけてくるみたいな涙の音。
そして黙りこくってしまった背中をそっと摩ると、「う、」と小さな嗚咽が聞こえてきて、それから、一拍あと。


「う、わ、わぁぁ…」
「ちょ、え、どした」


まるで子供みたいに声をあげて泣き始めるから、顔を見ようと少し身体を離すと、「やだぁぁぁ…」ともっと縋り付かれてしまった。


「ごめんって、どこも行かないから、そんな泣くなよ」
「だって……ゆめ、みたい、だから、っく…」
「ん…ふふ、夢じゃないよ。…ごめんね」


ああ、愛おしい、恋しい、かわいい。
こんな月並みな言葉じゃ足りないぐらい、大好きで。
だけど、こんなにも喜んでくれるんだったら、こんな言葉でも、もっと早く伝えたら良かった。


「ね、もう一回キスさせて」
「や、いま、は、だめ」
「なんで?」
「泣い、てて、ぶさいく、だから」


ぐすぐす泣き続けてくっつけてくる顔を、ぐいと引き離して。
「だめ!」と顔を覆った手を掴んで除けてやると、俺と一緒で昔から泣き虫だったなまえの、久々に見る泣き顔がそこにはあった。


「不細工なわけないだろ」


涙に濡れた唇を奪うと、俺の視界までまたぼやける。どうせ気付きはしないだろうと、今度は堪えることも諦めた。


「全部、全部かわいいよ。昔も、今も」


大きな瞳が、俺を映してきらりと輝く。それから、ゆるゆると蕩けて、なまえの零れるみたいな小さな笑い声が、耳に飛び込んできた。

「善逸くん、大好き」なんて言葉と一緒にまた出てきた涙も、好きだ好きだと響いてくる、その聴き慣れてしまった音も。丸ごと包み込んでやろうと、思いきり抱き締めた。


…でも。こんな大きすぎる気持ち、抱き締めてるだけじゃ到底満たされそうにもないのに、大人になるまで待たなきゃいけないなんて。ねえ、大丈夫かな、俺。


「善逸くんー、好き〜…」
「…やばいかも」
「ん…なに?」
「…上目遣いとか、やめて…」



20200627




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