皐月晴れと扇風機



※学パロ




「…あちい」

夏本番にはまだ遠いものの、じめじめとした空気が肌に纏わりついて、それが汗を誘い出すそんな季節。
もう十二分に暑すぎるほどで、本当は今すぐにでもクーラーをつけたいのだけど、じいちゃんが7月まではダメなんて言う。

だから幼馴染の部屋に、まあクーラーを求める気持ち3割、彼女と一緒に居たい気持ち6割、それから下心1割を抱えてやってきたのだが、この部屋も変わらず蒸し暑い。
なんでも、クーラーが壊れてしまって修理待ちらしい。扇風機が必死に頑張っているものの、ちょっと奴じゃ力不足なんじゃないの。

「文句言うなら帰る?」

可愛らしい桃色のローテーブルを挟んだ向こう側にいる幼馴染のなまえは、膨れっ面で俺を見てきた。
首振りモードになった扇風機の風を浴びて、時折その髪が靡く。首筋にはうっすらと汗をかいて、暑さからかわずかに肌が上気している。
それをまあ、ちょっぴりエロいなぁなんて思ってしまうのは健全な男子高校生である故で、どうか許していただきたい。

そんなことよりも、俺は。そんな膨れっ面だって、風を受けて少しぼさぼさになった髪だって、なまえの全部が愛おしいなんて思っているのに、彼女から聴こえるのは友人に向けるような信頼の音だ。
面白くないなあ、と思う。

「課題手伝ってほしいって言ってきたのはお前だろ」

う、と短い音を出して押し黙る彼女の前には、開かれたテキスト。それはまだ真っ白で、数学が苦手ななまえにとっては苦しいものらしい。
「手伝ってください善逸様」なんてふざけた口調の言葉に返事をしないで、胡座を崩して足を伸ばし、なまえと向かい合っていた身体を扇風機の方へ向ける。
暑さのあまり折り上げていたスラックスの裾から覗く足首を、ひんやりした風が撫でていく。涼しいな、力不足なんて言ってごめんよ。

「え、無視?」
「暑いから、後でな」
「なにそれ、ひどい!」

そう言ってから、まるでハイハイでもするみたいに俺の方になまえが寄ってきて、つい身構えてしまう。何をするのかと思うと、冷え始めた足首を両足とも、なんの躊躇いもなくその柔らかい手で掴んだ。

全く予想外の出来事に「え」と上擦った声が漏れる俺に構わず、よいしょ、と可愛らしい掛け声と共に、彼女はその細い両手をあげてしまって。
情報を処理しきれずバランスを崩して、背中を床に打ち付けた。腹筋のおかげで、なんとか後頭部の直撃は避けたけど。
え、なに本当、突然。

「いっ…てぇ…」
「善逸が悪いんだよ! 意地悪言うし、そんな掴みたくなる足首してるから」
「はぁ? 意味わかんねえよばか」

苛立ったように言ってみせたけど、口をへの字にしているなまえはあんまりにも可愛くて、実のところちっとも腹が立たなかった。我ながらベタ惚れで、ちょっとやばい。
彼女は尚も、寝転ぶ…というか、寝転ばされた俺の足首を揉むみたいに掴み続けていたけど、俺が勢いよく身体を起こすと慌てて手を離した。

これ、仕掛けてきたのは向こうだし。これをダシにちょっと仕返しするくらい、許されるって思っていい?

「…ぜんいつ、怒った?」
「怒った」

と、言ったものの。俺もきっと少し口角が上がっているし、なまえも笑いを堪えるように口元を引きつらせていて、険悪な雰囲気なんかは微塵も流れていない。
むしろつい吹き出してしまいそうなおかしな緊張感に包まれながら見つめ合い、なまえの脇腹を目掛けて勢い良く手を伸ばした。

「きゃっ、は、やめ、やめて、ぜん、ふふ」
「お前から仕掛けてきたんだろ、って、う、やめろって、こら!」

なまえの弱点である脇腹を思い切りくすぐってやると、笑いながらも負けじと俺の脇腹に手を伸ばしてくるから、思わず変な声が出た。

確か…小学校高学年くらいまではしょっちゅうしていた、くすぐり合い。さすがに性差が出てくるとやり辛いことこの上ないので、ここ何年か仕掛けていなかったけど。
その…やべえ、と素で思った。何年も仕掛けなかった俺は正しかったなと、なまえの手を捌いてくすぐり返しながら、冷や汗を垂らす。

「きゃっ、ぁ、やめてよ、ちょっ、」

変に冷静になってしまった俺の頭が、ろくでもない考えを巡らせる。だってさあ、俺が身体を触って、なまえがこんな声出してるんだぜ、この状況…ちょっと、いやかなり、まずいだろ。

それに華奢ななまえだけど、くすぐっている脇腹だとか、不可抗力で掠めてしまう…その、胸だとかが、恐ろしいほどに柔らかい。
それから、必然的に近付いてしまう距離のせいで、シャンプーの香りだとか、少しだけ混ざる爽やかな汗の香りだとかを彼女が纏っていることがわかって…そんな危険な要素が俺を刺激して、ちょっと目の前がチカチカしてきた。

「やめ、おま、ちょっとタンマ、なまえ、やめろって」
「や、やめない、もん!善逸がやめな、っよ、んんっ」

手を緩めれば、なまえが俺の脇腹をもっとくすぐってくるであろうことは想像に難くない。もちろん触る側もやばいけど、触られる側も色々やばい。なんとか押し切ってから逃げよう、そう思いながら力を込めると。

腕の先にあった抵抗が、ふっと消えた。今度は、前向きにバランスを崩してしまう。うつ伏せに潰れそうだったところを、何とか腕で支えて事なきを得た。

…いや。ちっとも、微塵も、事なきじゃねえよ。

俺の両手の間には、目をまん丸くしたなまえの顔。
ついた両膝の間には、恐らく太腿がある。
こんなことって本当にあるのかよと言いたくなるような、俺がなまえを…組み敷いてしまった、そんな状態。

先程までわずかに上気しているだけだった肌は、くすぐり合って笑ったせいなのか、顔も首も桃色に染まっている。汗もかいてしまったのか前髪が少し額に貼り付いて、如何わしい想像が脳みそを駆け巡った。

ぶぅん、なんて気の抜けた音と一緒に、俺たちを扇風機の風が揺らす。それが通り抜けて、また戻ってきて、それからまた通り抜けていった。
潤んだ瞳から目を逸らせないまま、なまえも俺の瞳を射抜いたまま、2人でまた、無機質な風に揺らされる。

一束だけ吹き上げられたなまえの髪が、その桜色の唇に静かに落ちた。

ほとんど無意識に、それに手を伸ばす。指先で滑らせた髪の艶やかさと、撫ぜた唇の柔らかな感触。それから、触れた瞬間に小さく漏れた彼女の声。

そのどれもが俺の理性を奪おうと襲い掛かるから、あっさり明け渡してしまった。

身体を屈めて、ほんの一瞬だけ。先刻指先で撫ぜたそれに、自分の唇を重ね合わせた。
触った通りに柔らかくて、自分の唇よりも熱く、それでいて吸い付くようにしっとりとした感触に、身体が芯から溶けてしまうような心地がした。

そうして。俺の鼓膜を揺らす音が変わった。
混ぜ返すみたいな激しい心音と、その中に潜む甘さと切なさを、俺の耳は確実に拾う。
なまえは何も言わなかったし、俺も何も言えなかった。だけどこんなの、そういう事だって捉らえるからな。

また肘をゆっくり曲げて、なまえに近付く。きつく閉じられた目元で黒い睫毛が震えて、愛おしさで胸の奥が締め付けられた。

「…っ、ん」

触れた瞬間、また小さくなまえが声を漏らす。でも、今度はすぐには離れてやらない。初めは軽く触れ合うだけだったそれを、ゆっくりと圧し潰していく。

ずっと、ずっと好きだったんだよ。今お前が鳴らしてる、甘くて切ない音。激しすぎるくらいの心音。俺はずっと、そんな気持ちだった。
ただお前が笑うだけでも、甘ったるい幸せに包まれて、だけど恋い焦がれて切なくなって、心臓が早鐘みたいに打ってたんだよ。いっそ聴かせてやりたいぐらいに。

溶け合いそうだった唇を一度離すと、なまえが薄く目を開ける。視線が甘く絡み合って、そのまま縺れて、また吸い寄せられた。
短く触れて離れて、またすぐに口付けて。距離がゼロになるたびに小さく震える彼女が愛おしくてそれを何度も繰り返すと、濡れた唇同士が隔たる度に、ちゅう、なんて厭らしい音が響いた。

ずっと目を閉じていたなまえが、ぱちりとそれを見開いた。俺の汗が伝い落ちたのだと気付いたのは、彼女の頬に潰れた滴を見つけてから。
しっとりとした唇が言葉を紡ぐよりも早く、小さく「なまえ」と名前を呼ぶ。彼女は頬を染めたまま、それをきゅっと引き結んだ。

「好きだよ。ずっと好きだった」
「…ぜんいつ」

これまで何をしたって色を変えなかった彼女の瞳が、どこか艶かしく色付いている。成程、実力行使が一番だったってことか、と他人事みたいに考えた。

「今、やっと好きになってくれたんだろ。いいよ、それで」

またなまえから、さっきと同じ音が聴こえる。もしもこれが、ただ突然のキスのせいだったとしても、意識してくれたんなら何だっていいよ。
髪を優しく拐う扇風機を一瞥してから、ずっと焦がれていたその唇に、また引き付けられるみたいに口付けた。

下心、1割しか持ってこなかった筈なんだけどなぁ。




20200618




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