knock on the heart



※学パロ




最近、陽が落ちるのが遅くなった。ブレザーは暑くて着ていられなくなったし、下敷きで顔を仰ぐと、涼しい風が気持ちいい。ゆっくり、季節が変わっていく。
午後五時、数ヶ月前なら暗くなり始めていたはずのこの時間。窓の外を見ると、まだ空は水色で、ちぎれた雲がふわふわと漂っている。

「なあ」

短く私を呼ぶ声に反応して視線を移せば、難しい顔をして私を呼ぶクラスメイト、我妻善逸がそこにいる。仲のいい男友達と言える彼と、二人きりで放課後残っているのには、理由があった。

「なに?終わった?」
「終わった?じゃねーよ。なまえは何もしないつもりかよ、本当さあ」
「善逸はそういうの得意そうだから、お任せしちゃいます」

はあ、と善逸のわざとらしいため息が聞こえたけど、私はまた窓の外に視線を向けた。
人権学習、なんてものが今学年全体で行われていて、クラスから男女各一人、一か月ほどの期間限定で選出される人権委員に、善逸と二人で就任した。というか、させられた。担任の冨岡先生がなぜか善逸を指名して、それならコイツとやる!なんて善逸が私を巻き添えにしたせいで、面倒なものをやらされることになってしまったのだった。

「だいたい、なんで生徒主導でやらせるかなあ」
「なまえ、なーんもやってないくせに文句言うなよ」
「あのね、善逸に指名されなきゃ私はやらなくて済んだんだよ…だから全部善逸がやるべきなの、これは」
「はあ…」
「またため息?善逸ってば、幸せ逃げちゃうよ?」
「誰のせいだよ…」

人権委員としてクラスの話し合いの資料を連日作っている私たちだったが、今日が最終日だ。私はこの資料作りもほとんどやっていないし、実際の話し合い中も、出た意見を黒板に書き留めるぐらいしかしていない。我ながら最悪だなと思うけど、前に出るとか資料作りとか本当に苦手だし、人には得手不得手があるし、仕方ないよね。まあさすがに申し訳ないし、今日はジュースでも奢ろうかな。

罪滅ぼしの方法を無事に見つけた私は、一応善逸がいる方向に向けていた体を、完全に窓の方に向けた。「は?ちょ、お前…」という善逸の制止に、「後でジュース奢るから」と返してから、今度は空じゃなくて、下の方に視線を向けた。グラウンドが一望できる、この三階の教室。野球部、陸上部、サッカー部がグラウンドを分け合っているのが見える。陸上部の取り分、意外と小さいんだよなあ。

それから耳を澄ますと、色んな音が聞こえてくる。善逸のシャーペンの、かちかち、さらさら、って音。こんなところまで届く野球部の声。吹奏楽部のチューニング。学校のすぐ近くを走る電車の音。部活にも所属していない私は、普段さっさと下校してしまうから、放課後の音を聞くことが滅多にない。憎まれ口は叩いているけど、こうやって教室に残って耳を澄ます時間は、密かに楽しみだった。

善逸は、たしか耳がいいと言っていた。こういう音、彼にはどうやって聞こえているんだろう。少しだけ興味が湧いて善逸を見つめていると、プリントから視線を離さないまま「なんだよ」と言われてしまった。

「ねえ善逸、今一番大きく聞こえてる音ってなに?」
「え、どした?いきなり…」

さらさら、紙とシャーペンが擦れ合う音が止む。善逸の気怠げな瞳が私を見つめたとき、昔どこかで見た琥珀みたいだな、なんて一瞬思った。

「今いろんな音聞こえるけど、耳のいい善逸くんはどうかなあって思って」

そう言うと、善逸は手元で器用にシャーペンを回しながら、ゆっくり目を閉じて唸る。前から思っていたけど、善逸ってきれいな顔してるよなあ。長い睫毛、筋の通った高い鼻、形の良い唇。
ちょっと顔を見ているのが気恥ずかしくて、かちゃ、かちゃ、と小さく音を立てて善逸の手元で回るシャーペンを見つめていると、「今はねえ」と善逸が唇を動かした。一拍遅れて開かれた目が、私を捉える。

「お前の心音かな」
「…え?」

なにそれ、と言い返す前に、善逸がシャーペンをゆっくりノックする。それが文字を書くための行為ではないことは、すぐに解ってしまった。
かち、かち、かち…善逸が作るその音は、私の心臓の鼓動と同じリズムを刻んでいる。どんどん繰り出されていく細い芯を見ることしかできない私に、善逸は「ちょっと早くなった」なんて言って、ノックの速度を少し上げた。

「どんどん早くなってる」
「善逸が、変なこと言うから…」

かちかち、もっと早くなったノック音が途切れたのは、頼りない芯が全部出て行って、私たちを隔てる机に音も立てずに落ちたからだった。
その頃にはもう、ノック音に導かれなくても自分の心音が耳に届いて、善逸の顔を見られなくなっていた。シャーペンを持つ手元を、意味もなくじっと見つめる。

「今だけじゃないけどね」

ことん、善逸の手が、芯のないシャーペンを硬い机に置く。自然とそれを追う私の目に、さっきまで善逸が向き合っていたプリントの文字が飛び込んできた。
『我妻善逸』のとなりに、善逸の癖のある字で書かれた『みょうじなまえ』が佇んでいる。彼なりに精一杯の丁寧な字で書いてくれたであろう、私の名前。
顔に熱が集まっていくけど、その感情をうまく理解できない。
恐る恐る顔を上げると、「やっとこっち見た」と笑う善逸に、心を全部持っていかれたような気がした。




20200511




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