スカーレットのおまじない




「なーんかしっくりこない……」
 わたしのそんな呟きに、ちょうどリビングに入ってきた豹馬くんは足でドアを閉めながら「なにが?」と返事をくれた。「もー、足でドア閉めないの」と何十回も言ったお小言をまた口にすれば、「んー」とまるで響いていなさそうな声が返ってきて、「そんで、なにが」と続けられる。
「服。あした何着てこうかなって」
 リビングでひとりファッションショーを繰り広げているわたしが散らかした服を拾いながら、「あー、大学の友達と飲むんだっけ」と話をしてくれる豹馬くん。服散らかすなよってお小言返しをされてもおかしくない状況に、ちょっとだけきまりが悪くなった。けれどそんなことを全く気にしていなさそうな様子で、「前に買ったワンピースは?」と豹馬くんは言う。
「明日はそれだと寒そうなんだよね……」
「確かにな」
「ニットとか着たいけど、いつも同じの着てる気がするし」
 んー、と首をひねる豹馬くんを見ながら、こんなふうにおしゃれの相談ができるのって嬉しいなあ、としみじみ思う。ある友達の彼氏は徹底的に服に無頓着で、友達はいつも買う服も着る物もぜんぶ選んであげているらしい。それはそれで楽しそうだなとは思うけれど、同じ目線で考えてくれて提案してくれる、そんな豹馬くんの存在がわたしにはとびきりありがたかった。わたしよりずっとセンスもいいと思うし。
 すると豹馬くんは「ちょっと待ってて」と言い残して、自分の部屋に戻ってゆく。待つこと一分ほど、豹馬くんが両手に持って戻ってきたのは、彼がいつも着ているニットやトレーナー。ちなみに後ろ足でドアを蹴って閉めたのが見えたけれど、今度は何も言わないことにした。
「なんか貸してやろっか? たぶんなまえも着れるだろ」
 そうして豹馬くんはそんなことを言うから、「ほんと!」と返したわたしの声はずいぶんと弾んでいた。それは、その手があったか、というひらめきがちょこっと、あとのほとんどは、豹馬くんの洋服を着られるというわくわくから来るものだった。
 豹馬くんが広げて見せてくれた洋服のうち一際わたしの目を惹いたのは、グラデーションみたいに重なる少しくすんだ色合いがきれいな、ふんわりした生地のニット。前に豹馬くんがこれを着ていて、「そのニットかわいいね」と褒めたとき、「だろー?」なんてちょっと得意げにしてみせたあの顔を思い出して頬がゆるんでしまう。提案してもらわなければ借りようとはならなかったかもしれないけれど、うん確かに、このニットにシンプルなナロースカートを合わせれば普段とちがう雰囲気になっていいかもしれない。
「これがいいかなあ」
「お。なまえ、これこないだ褒めてくれたもんな」
「覚えてたんだ」
「まあ、そりゃ。お前に褒められると嬉しいし」
 そう言ってゆるく目を細める豹馬くんがほんとうに嬉しそうだから、照れやらなんやらでどんな顔をしたらいいかわからなくなって口元をむずむずしていると、「なんだよその顔」と豹馬くんがかるく頬をつまんでくる。たぶん、それはちょっとした照れ隠し。ぜんぜん痛くないけど「いひゃい」と言ってみれば、「痛くないくせに」と豹馬くんは笑ってから手を離してくれた。そうして、「よし」とひとつ頷く豹馬くん。
「そんじゃバンザイして」
「うん、……ん?」
 ほんわかした空気の中、流れるように言うからいったん頷いてしまった、けれど。まって、豹馬くんいまなんて言った? ちょっと戸惑っていると「着替え手伝ってやるから」と続けられて、さっきの言葉が聞き間違いではないと思い知らされてしまう。
「え、いや、いい、ひとりで着れるよ」
「いーから」
「よくないよ!?」
「貸す側の言うことは絶対だろ」
「横暴!」
 抵抗を試みたけれど、言い出すと聞かない豹馬くんには到底敵うはずもなく。しぶしぶ胸の上くらいまで手を上げると、両手をぎゅっと握られて、「こら、ちゃんとバンザイしろよ」なんて言葉と一緒に持ち上げられる。そんな子供に言うみたいに言わなくても、なんて唇が尖って、すると豹馬くんはなぜか不意に触れるだけのキスを落としてきて、驚くわたしを見てからりと笑った。
「じゃ、脱がすな」
 優しく囁かれて、豹馬くんの手が服の裾にかかる。脱がす、って。いかにもな言葉なのに、その声色にも仕草にもすこしのいやらしさも感じないから、逆にそわそわしてしまって落ち着かない。
「なに緊張してんだよ」
「してない」
「着替えるだーけ。」
「わかってるよ……」
 わかってる、わかってるのに、耳が熱くなって、頬のあたりもぼうっと熱がこもってゆく。やがて衣擦れの音と共に服がめくり上げられて、薄手のキャミソールがあらわになって、その温度差にぞくりと鳥肌が立った。
「中、キャミだけ? あったかいやつ着てねえの」
「あれこれ迷いながら着替えてたら暑くなったから……」
「ふーん」
 ちょっと笑いを含んだような声を聞きながら、どんな表情をしているかまでは確かめられなかった。そうして目を逸らしたまま、されるがまま、引き上げられてゆく服は首元にさしかかる。元より豹馬くんの顔を見てはいなかったのに、視界を物理的に遮られると途端に不安が襲ってくる。
「なんもしねえって」
 わたしがどきまぎしているのがバレたのか、豹馬くんはそんなことを言う。わかってるよ、なんて同じ返事をしようとしたわたしの口は、服が通りすぎていったせいで思うように動かなかった。一気にすぽん、と抜かれて視界が明るくなって、さいごに残った袖に触れて抜いていく豹馬くんは、伏し目がちだったけれど穏やかな表情をしているようにみえた。なにを思っているのか、いまいちわからないままだ。
 そうして、わたしの身体からすっかり離れてしまったトップスを、豹馬くんはゆるくたたんで近くの椅子にかけた。
「寒い?」
「ちょっと……」
「おいで」
 肩があらわになってかるく身震いしたのを見逃さないで、豹馬くんはそのままわたしを抱き寄せる。少しかさついた手のひらが乱れた髪を撫でつけて、そのまま肩のほうへすべってくる。乾いた熱が何往復かして、「すべすべで気持ちいーな」なんて気の抜けたことを言うから、ちょっとだけわたしの緊張も和らいで。
「はやく着せてよ」
「はいはい」
 しょうがないなぁとでも言いたげに笑うけれど、元はといえばわがままを言っているのはわたしではなく豹馬くんだ。でも、この状況で一応『なにもされていない』のは豹馬くんの裁量によるものにちがいないので、余計なことを言うのはやめておく。
 ふわふわのニットを手に取った豹馬くんは、首のところをかるく広げてから、ぽふ、とわたしにそれを被せてしまう。見た通り、触れていた通りの柔らかであたたかな感触に包まれたのも束の間。ぱちぱち音がして、軽い静電気で髪がまとわりついてきて顔をしかめると、くすりと笑った豹馬くんの指先が頬に触れる。そのまますっと何度かなぞられて、耳に髪をかけられるその瞬間の刺激には反応しないように必死に身を固くして。わたしの葛藤を知ってか知らずか、「ほら、腕通して」と促す豹馬くんに、わたしは素直にひとつ頷いた。
「着れた?」
「うん」
 結構余ってしまった袖をくいっと引き上げて、それから。豹馬くんに着た姿を見てもらおうと思ったのと、そういうふりをしていったんこの熱を冷まそうしたのとで、わたしは二歩、三歩後ろに下がった。豹馬くんは、相も変わらず穏やかな視線でわたしを縫いとめている。
「どう?」
「……うん」
 うん。またそう言って頷いた豹馬くんは目を細めて、わたしがとった距離をいとも簡単に埋めてしまった。豹馬くんが着るのより襟ぐりは広くみえて、そこから覗く鎖骨に豹馬くんの視線はすべっていって。それから視線がかち合って、また髪を撫でつけられて、片方だけ耳から髪を外される。
「いいじゃん、かわいい」
「ほんと?」
「俺の、って感じする」
「っ、」
「マジで最高」
 ……不意打ち。そうしてふっと笑った豹馬くんの穏やかにみえていたその瞳の奥には、毛布みたいに柔らかな愛に隠された、するどい刃みたいな独占欲が覗いている。
「俺が着せた、俺の服。なんかめっちゃ、くる」
 口の端をつりあげた豹馬くんのそんな言葉にかっと体温が上がって、わたしはいまとんでもない格好をしているのかもしれないとやっと思った。同じ洗剤と柔軟剤をつかっているはずなのに、この服はどうしてだかすこし豹馬くんのにおいがして、豹馬くんの使う香水の残り香までもを持て余している。こんなの、どこにいたって抱きしめられているみたいだ。
「……やっぱ借りるのやめとこうかな」
「なんで」
「なんでも」
「意識するからだよな」
 わかってるなら聞くんじゃない。そう思いながらちょっといじわるな顔をした豹馬くんから顔を背けてやると、「かわいいってのはホント。似合ってる」と豹馬くんは微笑むから、現金なわたしの心はそんな褒め言葉に浮き立ってしまう。
 あらためて自分の格好を見下ろしてみると、袖と裾が余ってしっかりオーバーサイズで、豹馬くんが着ているときよりも明らかにぶかぶか。はじめからわかっていた当たり前のことなのに、体格差を身をもって思い知らされるような状況にまた身体があつくなる。そして、「俺が着せた俺の服」なんて豹馬くんの言葉。優しさと善意と、その中にほんのすこし紛れ込んだ豹馬くんの目論みに、わたしはまんまと揺さぶられていた。
 そんなわたしの頭をぽんぽんと撫でてくれる豹馬くん。まだお礼を言っていなかったなと「ありがとう」と小さくつぶやけば、「なにが?」と豹馬くんは首を傾げて。
「あー、着替えさせてくれてってこと?」
「ちがう! 貸してくれてありがとう!!」
「ハハ、わかってるって」
 照れんなってなまえと髪をわしゃわしゃかき混ぜられて、もうすっかり慣れてしまったはずのその手の大きさまで意識する羽目になるなんて、さっきまでのわたしは思ってもみなかったのだ。



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