イノセント・シンドローム




 あ、これ、もしかして。

 しばらくくっついていた唇がやっとのことで離れて、けれどまだ互いの吐息がかかってしまうくらいの距離。ふたりソファに沈んだまま、触れあっていただけだった手が、わたしの指を一本、また一本と絡めとってゆく。閉じていたまぶたを上げると、ルビーレッドの瞳がほんものの宝石みたいにきらめいていて、じりじりと焦げつくような熱にやかれてしまいそう。「いい?」と、ささやくような豹馬くんの声がなにを訊ねているのかわからないほど、わたしも初心じゃない。けれどその言葉でわたしの予感は確信に変わって、背筋に冷や汗がにじみはじめる。
 どうして焦っているのかって、それはわたしが──処女、だからだった。彼氏がいたこともあって、そういう機会がまったくなかったわけでもなくて。けれど間が悪く邪魔が入ったり、怖くなって逃げ出したりとそんなことが続いて、二十歳を超えても結局わたしには経験がないままだった。……豹馬くんと付き合い始めて数ヶ月、薄々予感はしていたものの、いざこの瞬間がやってくるとどうしたらいいのかわからない。正直に言ってしまえばいいのかもしれないけれど、わたしは豹馬くんよりも年上で、そこから来るちっぽけなプライドがじゃまをする。豹馬くんはかっこいいし昔からモテていたし、キスやここまでの流れだって上手できっと経験があって、年上のわたしだけが未経験なんてかっこわるい、みたいな。そんなしょうもないことをぐるぐる考えているうちに、急かすみたいに呼ばれた名前とわたしを射抜くような視線にいたたまれなくなって、とうとう目を逸らして俯いてしまった。

 豹馬くんは元々年下の幼馴染で、小さい頃は家が近いこともありよく一緒に遊んでいて。成長するにつれ直接的な関わりはなくなっていったけれど、お姉ちゃんに誘われて彼のサッカーの試合を見にいくこともあって、わたしはコートを駆け抜ける豹馬くんの姿を見るのが好きだった。「本当にすごいね」だとか率直すぎる感想しか言えないわたしは「……ドーモ」なんてぶっきらぼうな返事をされていたけれど、その声は決して冷たくなんかなかった。
 わたしが大学進学と共に上京してそういった機会は減ってしまって、豹馬くんが大きな怪我をしたと聞いたときもつたないメッセージしか送れなかった、けれど。……あれは『青い監獄プロジェクト』というものに参加していた彼の、日本代表との試合を見にいったときだった。「すごい試合だったね、みんな格好良くて」なんて言ったわたしに、豹馬くんは眉間に皺を寄せて。
「俺にはもう、すごいって言ってくれねーの」
 ──そのときわたしは慌ててしまって何と返事をしたのか覚えていないけれど、後から豹馬くんは「あの時、あんたが俺以外を見てんのが気に入らなくて、そんでハッキリ自覚した」と教えてくれて、思えばその時からわたしたちの関係は変化し始めていた。なんでもないようなメッセージのやりとりをして、時々電話をして、彼が東京に来るときやわたしが帰省するときは会って話をして。そうして豹馬くんが高校を卒業するタイミングで想いを伝えてくれて、わたしたちは『幼馴染』から『恋人』になった。それが、つい数ヶ月前のこと。

「……あー、ごめん」
 豹馬くんのそんな声にはっと顔を上げると、わたしたちの間の温度はすっと下がってゆく。指が解かれて、体温がゆっくりと離れていってしまうところだった。「わり、がっついて、ガキみてえだよな」なんて言って笑ってみせる豹馬くんに、なにか言いたいと思うのに、言葉は喉につっかえてそのまま溶けて消えてゆく。
「もうすぐ終電だし、そろそろ出る? 駅まで送ってくし」
 そう言いながら豹馬くんはソファから立ち上がって、わたしは。ここで離れてしまったらどうにもならないような気がして、とっさに彼の袖をつかんでいた。視線がかち合って、ゆるく唇を噛んでいる豹馬くんの瞳には、焦りのような傷のような色が滲んでいる。
「……あの、」
 もう年上の見栄もなにも、いくつも年下の男の子に気を遣わせて、場を取り繕わせて、あまつさえこんな顔をさせて。かっこわるいだのなんだの、わたしが気にしているものは、ぜんぶ『今更』だった。
 豹馬くんだってわたしといっしょだ。もしもわたしがこうやって勇気を出したのに、触れることを理由なく拒まれてしまったら、傷ついて泣き崩れてしまうかもしれない。その想いもぜんぶ無碍にしたくなくて、勢いだけで覚悟を決めたわたしは「ごめん豹馬くん」と口を開いた。もうどうにでもなれ。
「や、べつに」
「処女なの」
「……は?」
 ぽすん、力が抜けたようにソファに逆戻りした豹馬くんの重みでソファが弾んで、わたしも小さく揺れてしまいながら、まるくなった目を見つめて繰り返した。「わたし、処女なの」と。
「ごめん、嫌だったんじゃなくて、えっと、緊張しちゃったっていうか、」
「いや、え、は……」
「その、今まではぜんぶキス止まりで、ってごめん何言ってんだろわたし……」
 言葉を引っ張り出して並べるわたしの前で、豹馬くんはぽかんとしたままだった。……ああ、あ、間違えたかも。経験不足に豹馬くんが引くことはないとは思うけれど、いきなり何言ってんだこいつ、とはなるかもしれない。いや、たぶんなってる。年上のプライド、ボロッボロ。
「……じゃあ、なまえ」
 名前を呼ばれて、じっと瞳を覗きこまれる。まるでそこに嘘の欠片がないかどうかを確かめるみたいにわたしを見つめるから、なにを言われるのか皆目見当もつかなくて、そして。
「高校んときの、あの北高のヤツは」
 ややあってそんなことを尋ねられて、「え?」と間抜けな声がこぼれ落ちる。高校。北高。わたしが二年生のときに付き合っていた、人生はじめての彼氏の顔が、薄ぼんやりと浮かんで消えてゆく。そうしてまた「……え?」と聞き返してしまうわたしに、豹馬くんは「付き合ってただろ、二年の時」と確信をもって言ってくる。
 なんで知ってるの、まずそう思ったけれど。ルビーレッドに射抜かれてしまえばそんなことを考えている間もなかった。付き合ってたけど、けど。目の前のこのひとはわたしに経験がない根拠を知りたがっていて、だから言わなきゃって、まるで誘導されるように「手、つないだだけ……」なんて呆然とこぼす、と。袖をつまんでいた手を包み込むように握り直されて、ぐっと力を込められて、その手のひらの熱さにめまいがした。「それじゃあ」容赦なく言葉が続けられて、心臓の奥底が震えていた。
「高三のときのヤツは」
「そ、その人は、すぐ別れたからなんにも」
「ホント?」
「ほんと……」
 ずくずくと心臓の居心地がわるくなっていくようなこの感覚は、宿題を出していないことが親にバレてしまったような、そんな感じがしていた。いや、ほんとうに、どうして知ってるの。そんな疑問を口に出せないまま、「アイツは?」「大学の先輩は?」とわたしの元彼コレクションが紐解かれていき、目を白黒させながら何もなかったことを伝えるので精一杯だった。そうして聴取を終えて、最後の元彼がキス止まりだと白状すれば、あごを掬われ唇が奪われる。
「ん、ひょ、まくん、」
 ちゅ、ちゅ、と短いキスが繰り返されて、一見軽くみえるそんな戯れは、容赦なくわたしのバランスを崩してゆく。追い込まれるようにソファに背中が近付いて、とうとう支えきれずに倒れこむと、深く、深く唇が重ねられて。
 さっき、あのお誘いの前にされたそれよりも深くて熱かった。繋いでいた手は顔の横に縫いつけられて、酸素を求めて開いた唇のすきまから、舌がすべりこんでくる。
「ちゃんと口開けて」
 ほんの一瞬みじかく告げられたそれに、わたしは無意識に従っていた。ふ、と漏らされた吐息は満足げで、まるでよくできましたとでもいうふうに頭を撫でられて、戸惑う。なめらかにそんなことをやってのける豹馬くんにも、身体の芯が震えるように感じてしまっている自分自身にも。
 歯列をなぞって上顎を撫ぜて、好き勝手に動きまわる舌にいいようにされっぱなしだった。あつい、くるしい、……それなのに、もっと、ほしい。なにこれ、なにこれ。たぶん体温は2℃くらい上がっていて、きつく閉じたままの目のまわりまで熱くなって、じわじわと涙が滲む心地がする。
「っ、はっ、はぁ、は……」
 もうだめって、そう思った途端にちゅ、と音を立てて解放された。……胸が痛かった。どくどく忙しない心臓と、足りなくなった酸素を慌てて取り込もうとしている肺のせいだった。
 一瞬だけ頭が空っぽで、けれど目の前にはわたしと同じように呼吸を荒げる豹馬くんがいて、ぼんやりしたまま思考を取り戻す。頬にさらりと彼の髪が触れて、それと同じところを親指がすりすりと撫ぜてゆく。それは唇のふちまですべって、キスの名残で濡れたままのそこもていねいになぞっていった。
「……俺が」
 ひどく、熱に浮かされた声だった。心臓がこわれてしまいそう。
「俺が、はじめて?」
 親指と、ほかの四本の指先も、ぜんぶがあごを伝って。触れてたしかめるみたいに、首筋までゆっくりと降りてゆく。「うん」そう答えた自分の声もどろどろに溶けていて、視線が逸らせない。生ぬるい今までの経験とは比べものにならないくらい熱されたこの空気に、もう逃げようとすることすら許されないのだろうと思った。
「っん、」
 すり、と耳を撫ぜられて漏れた声に、豹馬くんの唇の端がつりあがる。細められた目の中で、甘くべったりとした欲が満ち満ちてゆくような気がした。優越感、征服欲、支配欲。かたちだけだった言葉が、わたしの目の前で質量を手に入れてゆく。
「……俺しか、知らねえんだよな」
「豹馬、くん」
「ずっと見てたから、だから、もうなまえのはじめてになるのは無理だって諦めてたのに」
 隠しきれない昂りを湛えた声に、身体の中心、明確にどこかもわからない場所が疼きはじめる。豹馬くんの声から伝染されてゆくようだった。
「俺もなまえがはじめて」
 途端、心臓が押しつぶされるような、血が沸騰してしまいそうな、そんな昂りが身体をかけめぐった。どうしようもなく泣きたくなって、喉が焼けて視界が歪む。好きだ、わたし、豹馬くんのことが好き。
「なまえ」
 名前を、呼ばれる。その熱のこもり方に、甘ったるさに、わたしはやっと思い知る。わたしたち、もう幼馴染なんかじゃなかった。
「いい?」
 射抜く視線に絡めとられて、目を逸らす隙なんてもう、いっさい与えてくれなかった。頷いたら戻れない。逃げられなくて、怖い。……こわいのに、もう逃げ出したくはならなくて、わたしは。もしかしてこのときのために、ずっとわたしを見ていてくれた豹馬くんのために、『はじめて』をたいせつに取っておいたのかもしれない。なんて、そんなばかみたいなことを考えてしまった。
「豹馬くん」
「ん、」
「いいよ」
 震える声でそう応えたわたしは、つまらない見栄も外連もぜんぶ捨ててしまった、ひとりの人間だった。姉みたいな幼馴染とかもうそんなのじゃなくって、千切豹馬のことが好きで好きでしかたない、たったひとりの恋人のわたし。
 豹馬くんが嬉しそうに目元を綻ばせるのが見えて、その表情はわたしのよく知る彼のもの。知らない顔もはじめて見る顔も、こうやって変わらない顔もぜんぶ好きだから、わたしもぜんぶを差し出してしまいたいって、そう思う。ゆっくりと影が落ちてきて、体温が近づいてきて、わたしはまぶたを下ろして、豹馬くんになにもかもを委ねてしまおうとして。
 ──あ、そうだ、まって、なんで元彼のこと知ってるの、って。訊きたかったのに。思い立ったときにはもう遅くて、唇が重なってしまった後だった。こんなたった一欠片だけ残っていたまともな思考も、今からたぶん、すぐに溶けてなくなってしまう。



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