15の不発弾をお読みいただいてからの方がしっくりくると思います。
※BGM 日食なつこ「10円ガム」

* * *

 さわさわと滑らかな風が秋が近いことをそれとなく示す。それでいて太陽はまだ夏の勢いを残したままだ、柔らかく余計な陰りのない頬を刺していた。その光を遮る物など何一つない土手に座り込み、眩しさに目を閉じると、明るい闇が瞼の裏で弾けた。帰りたくないなぁ、と心の中で呟いた。それが引き金になったのか、それとも目に蓄えた太陽光が溢れたのか、目の奥が熱くなった。
 家から持ち出した古い銃を小さな身体で抱え込む。音を立てて鼻から吸った空気は、どこからか漂う夕餉の香りを内包していた。
「あ、いた!」
 感傷的になった幼い彼・尾形百之助の耳に飛び込んできたのは、彼よりもさらに幾つか幼い女児の高い声だ。思わず目を見開きその姿を探せば、彼と太陽の間に彼女は身を滑らせていた。
「ここ、座って良い?」
 その問いに尾形は小さく頷くと、女児は誠に嬉しそうに彼の右へ、同じように腰を落ち着けた。綺麗に着せられた淡い桃色のべべが汚れそうだ、と的外れなことを尾形は思う。
「百ちゃんのじいちゃん、探してたよ。また銃がないって言って。」
「…」
「帰りたくない?」
 この、名前を苗字名前という女児は、尾形の母の実家とは道を挟んで真向かいにある家の子だ。彼自身ではどうにもできない特殊な事情を哀れんでか、それとも娘が構う子だからか、名前の両親は尾形を気に掛けていた。勿論それは名前がそうであったからということに他ならないのであるが、なにぶん深い考えなど無い幼子であるから、ただ彼のことが好きなだけだろう。
 そうであるから尾形も別段名前を突き放すことはしなかった。その表情が和らぐことこそなかったものの、たとえば遅くなった帰り道に歩幅を揃えてやるような優しさは持ち合わせていた。
「また鳥捕ったの?」
「……うん」
「じゃあうちにおいでよ、お母さんに鶏鍋してもらお!」
 名案だとばかりに尾形の着物の袖を引っ張る名前の勢いには、どうも尾形は弱かった。断り切れないし、そもそも「断る」という選択肢が与えられていないような気になるのだ。とは言えど、それは彼が家に帰りたくないと望む日に降り注ぐ彼女の小さな傲慢なので、結局のところ断ることは一度としてなかった。
「帰ろ、百ちゃん。」
 飛び跳ねるように立ち上がった名前に従って尾形もゆっくりと腰を上げた。思った通り、彼女のお尻には土がついていた。それを払ってやる勇気は、彼にはまだなかった。





「百ちゃ……百之助さん、ごめんなさい、お待たせして……!」
「構わん、急に来たのは俺だ。」
 苗字家の客間に通されて茶を啜っていた尾形の姿を認めた名前は、見て分かるほどに慌てていた。実際、買い出しに出ていた名前を、彼女の妹が呼びに出てからすでに30分は経っていた。
 幼い頃より尾形が苗字家に訪れるときは、名前が誘ったときであった。それが今日は初めて、尾形から訪問したのだ。特に約束もしていなかった。真向かいの家同士ではあったが、そのことに驚いた名前の両親が妹に呼んでくるよう遣ったのだ。
 寂しさを弾丸に込めて鳥を撃ち落とした少年は静かに逞しく、その少年を小さな身体で引っ張った少女は聡明に柔く育った。
「えっと、座るのここで良い?」
「なんで横に座るんだ、前に座れよ。」
「いつも横だったから落ち着かなくて……」
 土手で耽る時、夕日を浴びて帰る時、誘われて夕餉に混ざった時、全て横に居たのは名前だった。真正面から名前の顔を見たのはいつが最後だったろう。あまりに記憶にないという現実に、尾形は今更頭を抱えたくなった。
「それで、突然どうしたんですか。」
「戦争に行くことになった。」
 誤魔化しのない言葉に、真っ直ぐにぶつかった視線が痛かった。名前の喉から乾いた音が聞こえる。濃紺の着物の腿部分を握りしめている。不意に目を逸らしたのは名前が先だった。お高そうな着物が皺になるぜ、と尾形は笑った。
 尾形のその声に、名前の手が緩む。
「それで、わざわざ挨拶に来てくれたんですか?」
「あぁ。存外、俺はお前に感謝してるんだぜ。知らなかっただろ。」
「すぐにどっか行っちゃうのを探したことですか?それとも百之助さんが撃ち落とした鳥を私が捌けるようになったこと?あ、おじいさんの銃を持ち出したこと黙ってたことですか?」
「ははっ、全部正解で、全部外れだ。」
 尾形の答えに名前はよくわからないという表情を隠そうともしなかった。喜怒哀楽以外の、そんな表情を見る度に、尾形は多少なりと自身の出征を足踏みしていることに気付いていた。気付いていることと、それに従うことは別物であったのが救いであった。
 視線の合わなくなった名前が言う。
「死んだり、しませんよね…?」
「死にに行くわけじゃねぇが、結論として死ぬことは有るかもな。」
「行かないでくださいって言っても、行くんですよね?」
「そうだな。」
 そういえば俺の母が死んだ時、誰よりもわんわんと泣いていたな。
 尾形は数年前のことを思い出してほくそ笑んだ。自分が死んだ時、名前はまた泣くのだろう。根拠のない自信だったが、酷く安心した。それに反して不安そうな名前を茶請けに、尾形はまた茶を啜った。
 いつかのような冷気を含んだ風が部屋に滑り込む。まだ日は高い。
「…泣くなよ、まだ死んでねえだろ。」
「泣いて、ませんっ」
 立派に鼻を鳴らして何を言うか、と尾形は軍服の袖が汚れるのも厭わず、乱暴に名前の顔を拭った。お粉がとれちゃう、と名前は反抗するが、なら泣き止めとばかりに尾形はその手を止めることはない。
「手紙、書きますからちゃんとお返事ください…それくらいはいいでしょう…?」
「…気が向いたら書いてやるよ。」
 そう返せば涙に濡れた顔で、それは嬉しそうに名前が笑うので、尾形はまた困ったのだった。





 その後、煙る戦地には7日と間を開けずに名前から手紙が届いたが、返事をしたのは彼女の字で結婚の知らせが書かれたものにだけだった。
「では、夫君に余計な詮索を為れると困る。以後は手紙を出さぬよう」とだけ返事を書いた。その字は己が書いたとは思えない酷いものだった。
 具合でも悪いのか、と問いかけてくるのは、小さな歩幅で彼と話し帰るあの日の名前ではなく、異母弟だ。
「…所詮、あの女も祝福された側の人間だったということですな。」
 よくわからない、という顔を異母弟はしたが、その表情はやはり名前とは似ても似つかなく、尾形は歯を食いしばることしかできなかった。大事に腹に抱えていた何かが、そっくりそのまま足下に零れ堕ちる感覚に襲われる。これで空いた穴はもう今後は何物でも、何者でも埋められないのだろう。やけに腑に落ちる結論に反吐が出た。





「ここの席、空いてますか。」
「あぁ。」
 なお、その時に空いた空洞に光が差したのは、大層時を経て、平成になってからのことだった。
神様は人の形を為ている

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