【春】
 物心ついた頃、自分の中にぽっかりと空いた空洞に気付いた。何を食べても、何を見ても埋まらないソレは何なのだろうか。大事なことを忘れていることだけを覚えているような、そもそも元より何も知らないような、不思議な感覚だった。寂しい、悲しいとはまた違うその感覚を表現できるほどの力を持たなかった幼い俺に、母は「孤独」という言葉を教えた。その意味を幾ら聞いたところで、ソレを表す言葉としては収まりが悪かった。
 しかし今になって思うのは、母は母で何か空洞を抱えていたのだろうと思う。そしてその空洞を息子である俺と共有したかったのではないか、とも。とは言えど、その推測を確固たる事実にするための証言を得ることはもうできないし、今となっては興味が無い。なにせ、俺の空洞は孤独ではなかった。


【1週目】
「ここの席、空いてますか。」
 小さくとも確かに聞こえた女の声に、俺はその方向、右に目を移す。あぁ、と短く答え、女の指差した席に置いてあった自分の鞄を退けた。退屈に形を与えたような教授の声がだらだらと教室に響く中で、どうしてその女の声だけが明瞭に聞こえたのかはわからない。覚えたての薄い化粧にうっすらと汗を滲ませて席に腰を下ろす女を見て、新入生か、とぼんやりと思う。
 最前列の2人席、無駄に大きな講義室でわざわざ俺の隣を選ばなくてもいいだろうに、と自嘲するが、この講義自体がカモだったことを思い出す。退屈な代わりに単位を落とすことはまずないという情報が出回り、立ち見すらある講義だ。後ろの席が空いていなかったのだろう。まぁ、遅刻する方が悪い。
 隣の席すら埋まるのに、俺の空洞はいつまでたっても埋まらんのだな。感傷的なことを、柄にもなく考えながらまた右を見やれば女は居眠りをしている。

 数年後、俺の嫁になる苗字名前との出会いはこんなもんで、一掬いの色気もなかったのだ。

【2週目】
「おはようございます。」
「ん。」
 それからというもの、毎週最前列の2人席、右の席取りを甲斐甲斐しくやってやった。苗字は初日以降は遅刻せずやってきたが、図ったかのように俺より遅くやってきて、賄賂だと言って俺の吸ってる煙草を1箱渡してきた。銘柄を教えた覚えはない。そう言うと、父と同じにおいがしたので同じ銘柄だとわかりました、と、しれっと返しやがる。
 へぇ。
 煙草止めてやろう。

【3週目】
「尾形ちゃん、煙草やめたの?」
「……」
 目敏く気付くのは白石だ。黙ってろと睨むが、その意図は気付かれない。
「えー?なになに?あの尾形が女のために煙草止めたって?あの尾形が?」
「杉元!駄目だぞ!あの尾形が女のために自らを変えようとした決心をからかうのは!」
 おい、お前ら、話してる内容はこの際目をつむってやるから、そのにやついた顔くらいは隠そうとしろ。おい、聞いてるのかクソ野郎共。

【4週目】
「尾形さんって休みの日は何してるんですか?」
「サバイバルゲーム」
「あ−、なんか尾形さん強そうですね。」
 授業終わりに多少の会話をするようになった。出していた筆記具を片付けてから教室を出るまでのほんの数分のことだ。初めて出たバイト代で髪色を明るく染めたと嬉しそうに話す苗字は、数週間前よりも垢抜けて見えた。
「ちなみにどんな銃を持ってるんですか?」
「VSR-10 Gスペック」
「まぁ聞いたところで、わかんないですけど。」
「だろうな。」

【5週目】
「あ、尾形さん、今週の授業なんで来なかったんです?」
「就活で県外に居た。」
「あ、そうか、4年生ですもんね、一応。」
「その認識があるなら、ちったぁ敬えよ。」
 そもそも学部が違うからあの授業以外で苗字と出くわすことなどほとんどない。授業自体殆どとっていないから、毎週ゼミか就活をしてるだけだ。正直、あの授業だって別に単位が欲しくてとってるわけでもない。初回の講義だけ見て、暇を潰せそうだったからとっただけだ。そう、それだけの筈だ。

【6週目】
「ゴールデンウィーク、何かしましたか?」
「泊まりがけでサバゲー行ってきた。お前は?」
「同期の男女で1泊2日の旅行に行ってきました。あとはバイト三昧です。」
 旅行とやらは楽しかったらしく、ほんのりと小麦色に焼けた肌が眩しい。
 同期の男女、ね。入学して1ヶ月半もしないうちから、元気なことで。
「……一応言っておきますけど、男女別室でしたからね。」
「…そうかよ。」

【7週目】
「そういえば煙草やめたんですか?」
「…就活で突っ込まれたら面倒だからな。」
 それらしい理由がよく出たもんだ。そう思いながらもクソ野郎共の顔がちらつく。
「煙草なんて吸わなくていいですよ。百害あって一利なしです。」
 百害を諦めた俺に一利はどうやったら巡ってくるのだろう。
 お疲れ様です、と爽やかな色のワンピースを翻して教室を出て行った苗字に、終ぞその質問は投げかけられなかった。

【8週目】
「で、もう付き合ってんの?」
「あ?なんの話だよ。」
 表情筋の全てを緩めた白石が俺に声を掛けてくる。コンマ1秒で面倒くささを感じる。
 面白そうな話をしている、と杉元も寄ってくる。帰れ。
「あの尾形に煙草をやめさせたコだよ。授業終わりに仲よさそうに喋ってるって噂だぞ。」
 軽快にウインクを飛ばしてくる白石の顔面に、持っていた空のスチール缶を投げつけた。上手く鼻っ柱に当たったらしく、鈍い音と鼻血を出して白石は倒れた。
 ははっ、どんなもんだい。

【9週目】
「えっ、もう内定出たんですか。」
 目を丸くする苗字に、割とよく聞く企業名を告げれば、その瞳は零れ堕ちてしまうのではないかと思うほどに見開かれた。驚いた、そんな顔もするんだな。表情に乏しい女ということもなかったが、必要以上の感情を見たことは無かったのだ。
「あとは卒論くらいなもんさ。」
「いいですね、遊び放題じゃないですか。」
 そう言って、右手の親指と人差し指を立てて、前者は天井に、後者を俺に向ける。
「撃ち放題ですね。」
「主にこっちだがな。」
 応戦して、俺は見えないVSR10gを構えた。

【10週目】
「えらい雨だな。」
「傘持ってます?」
「持ってねぇ。」
「私も折りたたみ傘しか。」
 バケツをひっくり返したような雨に、大きな音を立てて風が突進している。
 このあと、用はない。雨が落ち着くまで俺は空き教室で時間を潰す決心をしていた。
「……コンビニで大きい傘買ってきますから、尾形さんここで待っててください。」
「別にいい。気にすんな。」
「いや、でも、この雨しばらくやみませんよ。たぶん。」
 言い出したら聞かない人間であることは、なんとなく分かっていた。しかしそれは俺の中の何かが許さない。いいから気にせず帰れ、と教室を追い出せば恨みがましい視線ばかりを寄越してきやがった。
 なんだってんだ。

【11週目】
「あの後、無事帰れました?」
「杉元に無理矢理車を出させた。」
「どなたがは存じ上げませんが気の毒に。」
 今日も雨が酷い。先週ほどではないものの、やむ気配のない穏やかな雨が地面を打っている。
「そういう苗字は。」
「教室出てすぐに遭遇した鯉登、車で駅まで送ってくれました。」
「誰だよ。」
「同期の男です。ゴールデンウィークに一緒に旅行にも行った。」
「そうかい。」
 携帯のカメラロールから、旅行中の写真を手早く見つけ出し俺に見せつける。褐色肌の「美丈夫」と称されるべき男が写っていた。

【12週目】
「久々に晴れましたね。」
「日差しがしんどい。」
「サバゲーの時は?」
「フルフェイスだし、そもそもあれは別枠。」
「謎の理論ですね。」
 瞳孔がかっ開くくらいの強い日差しを窓の外に見つけ、教室の外に出ることを躊躇う。太陽を避けて帰れるような器用さを持つわけでもなし、しばらくここで涼んでから帰ろうかとも思う。
「尾形さん、この後暇ですか?」
「驚くほどに暇だ。」
「駅裏にかき氷専門店できたんですけど、今からどうですか。」
「……いいだろう。」
 数十分後、文字通り山盛りのかき氷を食し、頭を抱える羽目になった。

【13週目】
「それはデートだ!」
「デートだねぇ。」
「ソレがデートでないなら、なんなんだよ、けっ。」
「よし、杉元、お前は表に出ろ。」
 ここがフィールドだったら間違いなく杉元の心臓にヒットさせてた。
「2人で1つのかき氷食べたんだろ?」
「1人で食い切れる量じゃないと、メニューを前にしてあいつが日和ったからだ。」
「そこで半分こしてあげるんだから優しいね、尾形ちゃん。」
「ほんとに、尾形は成長したな。」
 相変わらず三者三様に好き勝手言い腐る。
 また違った意味で頭を抱えた俺が思い出していたのは、かき氷にかかっていた見た目よりも酸っぱかった苺のソースの味だった。

【14週目】
「テストの課題、簡単そうで安心しました。」
「そうだな。」
 来週に迫ったテストの課題が、今日の授業終わりに発表された。噂通りの緩い評価設定のようで、毎週授業に来て資料さえ手元にあれば難なく単位が出るくらいの難易度だ。
「テスト終わったら夏休みですね。」
 人並みに長期休暇は嬉しいようで、苗字は夏休みにしたいことを熟々と話している。思ってたより前期日程終わるの早かったです、という言葉に「あぁ。早いもんだ。」と、俺は生え際に黒が伸びた苗字の茶髪を見ながら答えた。
 夏休みか。

【15週目】
「お疲れ様でした。」
「ん、おつかれ。」
 テストは筆記試験で、書き終えた者から順次提出していつでも帰って良いというものだった。開始20分程で俺も苗字も回答し終え、馬鹿みたいに熱気立つ教室の外で立ち話しとなった。
 妙に機動音のうるさい自販機で缶ジュースを買ってやる。
「今更ですけど、尾形さんの実家ってどこですか?」
「茨城。」
「へぇ、夏休みに帰省は?」
「……」
 がらんどうの実家を思い出して、暑さだけが理由ではない汗が1つ背中を伝って落ちた。蝉の声が耳をざわめかせて脳を揺さぶる。落ち着いた丸みのある苗字の瞳孔が揺らいだ。
「あんまり、聞かない方が良かったですね。」
 苗字の手元でプルタブが乾いた音を立てた。
「あぁ、でも私、茨城なら牛久大仏見てみたいんですよ。どうでもいいかもしれませんけど。」
「……そうか。なら、行くか?」
「え?」
「帰省はしねぇが、旅行したいなら案内くらいしてやるよ。」
 みんみんとうるさい蝉を蹴散らすように言う。半ばやけくそのような、そんな気持ちだった。薄い生地の半袖から伸びた白い腕に、結露した缶から雫が伝う。あぁ、夏だな。
「…それは、男女同室ですか?」
「……お前がソレで良いなら、そうしてやるよ。」
 日向で話していやしないのに、苗字の顔は赤かった。
 
 ずっと空いていた筈の穴は、いつの間にか少しの隙間もなく埋まっていた。
 あの空洞は、どうやら苗字名前という人の形をしていたようだ。





【夏】
「尾形ぁ、今年の夏休み、私の実家に行かない?」
「別にいいが、なんかあんのか。」
「いや、これと言った目的はないんだけど、お父さんとお母さんが尾形に会いたいって。」
「へぇ。」
「酷いよね、娘を差し置いて婿殿に会いたいって。」
 よく冷えたリビングで淹れ立てのコーヒーを飲む贅沢をする。小さな皿に入れられた豆菓子を1粒俺の口にねじ込んで、名前は満足そうに微笑んだ。コーヒー豆は白石さんから、このお菓子は杉元さん家からのお中元、と余計な一言まで添えて。くそ、もう飲み込んじまった。
「特にお父さんは、禁煙したいから、尾形が禁煙に成功した話を参考にしたいんだってさ。」
「んなもん、」
 男の意地に決まってらぁ。
 まさかそんな白状をできるはずもなく、曖昧に笑ってから俺は俺の空洞を埋めた人型に優しくキスをした。
 頬を撫でた髪は、もう全て黒かった。
15の不発弾

back

top

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -