初恋だった。それは桜が咲き始めるよりも少し前。アパートの隣の家に引っ越してきた2つ上の彼女。「引っ越し作業でお騒がせします」と深々とお辞儀する両親の後ろで真新しいランドセルを背負って嬉しそうにニコニコしていたのをぼんやりと覚えている。
おふくろが保育園に迎えに来る帰り道。あの日と違って寂しそうにランドセルを背負って学童から帰るなまえをよく見かけた。両親ともに仕事で忙しく、1人で過ごすことが多いなまえと仲良くなるのは必然的だった。まだルナもマナもいなかったから、初めて弟ができたみたいとお姉さんぶってたっけ。
そのくせに泣き虫でドジで放っとけないやつ。「タカちゃん縄跳びしよう」「タカちゃんブランコしに行こう」と俺の手を引いて遊びに行っては、転んで怪我するのは日常茶飯事。擦り傷と打身は絶えずどこかにあったし、真っ白のワンピースで水溜りに落ちたり、かけっこして捻挫するわ、ジャングルジムから落ちかけたこともあった。その度にピーピー泣くなまえの手を引いて家へと連れて帰るのが俺の役目だった。
「タカちゃんごめんね」
「別にへーき。なまえはケガしてねぇ?」
「んーん。だいじょーぶ!!」
「じゃあ、あっちで遊ぼ」
「あ!お母さんがね、ポップコーンをおやつに食べなさいって」
鉄棒で頭から落ちた次の日は大人しくなまえの家で遊んでいた日のこと。家だと流石に何も起こらないだろうと思ったら大間違い。段差につまずくは序の口で、今もジュースを絨毯にひっくり返してひと騒ぎしたところ。雑巾を片付けてなまえの手を引いてリビングに戻る。
「タカちゃんは保育園で好きな子いないの?」
幼いながらに俺がしっかりしなくてはと悟ったのは言うまでもない。なまえが開けようとしたポップコーンの袋を破いて勢いよく散らばるのは目に見えていて、惨事になる前にポップコーンを奪いとる。「お皿持ってくるね!」と走るなまえに「ゆっくりでいいからな」と念を押して見送った。無事に運ばれてきたお皿を受け取ると、屈託なく笑うなまえに唐突に尋ねられる。
「保育園にはいねぇ」
「好きな子はいるの?」
「…なまえ」
「なぁに?」
少し考えてから小さく答えると、名前を呼ばれたと思って呑気に返事をされる。なんとも言えない恥ずかしさと伝わらない気持ちにムッとなって勢いよく立ち上がると、なまえはキョトンとした顔で俺を見上げていた。
「俺はなまえが好きなんだってば!」
「えー!そうなの?嬉しいなぁ」
「…返事は?」
「ん?」
「嬉しいじゃなくて、告白したんだからその返事!」
声を荒げるように気持ちをぶつければ、へにゃりと嬉しそうになまえは笑う。その無邪気な笑顔に自然と苛立ちも消えてしまった。
「じゃあ、タカちゃんが大人になってもまだ好きでいてくれたらそん時返事するね」
「はぁ?大人っていつだよ」
「んー、10年後は大人かなぁ」
「わかった。10年後、覚悟しとけよ」
好きな子を聞いといて全くその恋心を理解してなさそうななまえに捨て台詞のような言葉を吐いた。あれからもうすぐで10年。
「タカちゃんタカちゃん!」
「ん?」
「この前の衣装ね、みんなすっごく褒めてくれた〜」
「良かったじゃん」
関係は殆ど変わっていない。強いて言うなら、お姉さんぶってたなまえが歳下の俺に世話を焼かれてることに気づいて、何かあれば俺に頼るようになったことくらい。よくある弟みたいな幼馴染として子ども扱いされることはない。むしろ頼れる幼馴染のお兄ちゃんとして見られているくらい。どっちにしろ幼馴染から抜け出てないんだけど。
「そういや彼氏作るってさぁ、具体的に彼氏作ってどうするわけ?」
「それはね!えっと、えーっと、」
「ほら、彼氏なんていらないだろ」
「タカちゃんにまず紹介すんの。他は後から考える」
「俺は親か」
「違うよー!タカちゃんは偉大なるスーパー幼馴染だもん」
「…はいはい」
幼い頃は傲慢にもなまえも俺を好きでいてくれてると思ってた時期もあったけど、そんな期待は儚く砕け散った。つい先日も死刑宣告のような彼氏作る宣言をされたばかり。それでも今まではなまえが俺のこと男として見てくれなくても、傍にいれるならそれだけでいいと思っていた。幼馴染として横にいれるならそれでいいとずっと我慢してた。あまつさえ、諦めようと考えたこともあった。
「本当に本当にウルトラスーパー幼馴染なんだってば!」
「なまえ、危ない」
「うわ」
「前見て歩けっていつも言ってんだろ」
「タカちゃんがいたら平気〜」
一生懸命俺の方を向いて話すせいで電柱に激突する前に手を引き寄せる。絶大な信頼を寄せてくれてるからか、繋いだままの手に恥ずかしがる気配もない。でも、天真爛漫に笑うなまえのこの手をいつまで握っていられるだろうか。いつまでなまえの傍にいられるだろう。そんな不安が急に身体中にほとばしる。
中学からは女子校通いでほとんど他の男に免疫がなく、幸いにも恋愛に興味がない。いや、恋愛まで気の回る余裕すらないおかげでこのなまえの隣というポジションを脅やかすような者はいなかった。それが本気で彼氏を作るつもりならこの場所をそいつに明け渡さねばならない。そんなの、なまえの隣に俺以外の他の男が立つなんて考えただけで吐き気がする。
「なまえ、」
「なぁに?」
「呼んだだけ」
「えー、変なタカちゃん」
俺が名前を呼ぶだけでふにゃりと幸せそうに笑う。こちらの苛立った心の毒気が抜けるような笑い方は変わらないままで。やっぱり、もうこの手を離したくない。諦めることは出来ない。
隣で呑気に笑うなまえは10年前の何気ない約束なんて覚えてないだろう。当時5歳だった俺は来月の誕生日を迎えれば15歳になる。実際には、あの遊んだ日からきっちり10年ではないけれど、このくらい誤差の範囲内のはず。
「タカちゃんなんか楽しそう。いいことあった?」
「まぁ、前途多難だけど。楽しみではあるな」
「?」
「俺も変わってないってこと」
「よく分かんないけど、タカちゃんが嬉しいなら私も嬉しいや」
たかが幼馴染の分際で何を言ってるかと思うかもしれないが、おいそれとなまえを他のやつに渡す気なんてサラサラない。幼い頃の両思いだと勝手に思っていた傲慢さや、なまえが欲しいという強欲さは変わらないまま俺の胸の中にある。そんな下心に気づかないままなまえはまた笑っていた。