新月の夜に
なまえを見つけてまず思ったことは、美味そうな匂いがする。んで、その美味そうな食い物くれた良いやつ。それだけ。拾って連れて帰ってきた明確な理由なんてない。ただのあの日の気まぐれ。ああ…でもそういえば、俺の前で寝こけたのが少し面白かったような。それくらい記憶はうろ覚えで、理由を聞かれても答えようがない。ただなんとなく。本当にそれだけだった。
連れ帰り、話を聞けば俺に捧げられた生贄らしい。あいにくそんなもの要求した覚えはない。そもそも生贄の見返りを与えたこともない。いつもなら人間1人迷い込んでもどうなろうが知ったこっちゃないと放っておくけど、なまえがくれたパンが美味いから召使いとして住まわすことにした。
それに、気に入らなければ殺してしまえばいい。人間なんて弱いくせに悪知恵働かせるし、金に汚いし、すぐ裏切る。始末するなんて簡単なこと。そんな物騒なことを思っていたのに、なまえは拍子抜けするくらい害意がないどころか、むしろ変わってるやつだった。
「…オマエ、何やってんだ」
「えと、今朝言ってたお掃除を。あとタライも見つけたので今からお洗濯をしようかと」
「ああ、そんなこと言ってたっけ」
料理だけでいいと言ったのに、三角頭巾をつけてどこで見つけてきたのやらモップや箒とあらゆる掃除道具を持って城内を駆けまわる。毎日毎日飽きもせずに、せっせと家事を行っていた。
ビビって言うこと聞く人間なんて今まで山ほどいたけどなまえは少し違うと思った。俺のこと怖がってるくせに、根が真面目なのかやる事はきちんと行う。それは気に入られようと取り入る素振りもなく、ただ自分のできること一つ一つをこなしているように見えた。
「いい匂い〜」
「おかえりなさい。すぐ支度しますね」
「…ん。ただ、いま」
「今日はビーフシチューにしました。もうすぐパンが焼けるから少しお待ちください」
だからなまえといると居心地がいいと思うのにそう時間は掛からなかった。なまえの作る飯はもちろん、こうして出迎えてくれるとこ。名前を呼べば、ちょこちょこかけよってくる姿。俺が料理を食べる前に反応を気にしてそわそわしてるとこ。その料理をうまいと褒めるとほんの少し上がる口角に目尻がちょっと下がるところ。そんななまえの姿を見るのが好きだなぁ、なんてらしくもないことを思うようにもなった。
「前の家でもずっとこんな生活だったの?」
「そう、ですね。一応家族ですけど遠縁でしたし、居候みたいなものだったので小間使いみたいな感じでした」
「ふーん」
「でも、こんなふうに一緒にご飯食べることもなかったですし。あ、ちゃんと食べた分は頑張って働きます…!」
でも今までの生活からか自分の事を卑下するのは気に食わない。前になまえの家でどう扱われてたか話を聞いたら無性にムカついた。怒りがおさまらなくて、なまえの住んでた村で暴れた。後からケンチンにめちゃくちゃ怒られたけど、気に食わなかったんだからしょうがない。そうだ、あと俺には見せないような満面の笑顔でケンチンに笑いかけるのも気に入らない。
「ケンチン、あんまなまえに構うなよ」
「構うなってお前が放置してるからだろ」
「…うちは放任主義なの」
「だってよー、お前なんかに誠心誠意奉仕してんの見たら可哀想になんだよ」
面倒見がいいからか、すんなりとケンチンに懐いたなまえ。俺じゃなくてケンチンの横をちょこまかとしてるのがなんだかムカついた。だってなまえは俺が見つけてきた俺の召使いなのに。
「つーか構うくらいいいだろ。なにが嫌なんだよ?」
「俺以外の魔族会ったことねぇから慣れてねぇの。魔族なんて危ねぇ奴らに危機感なく変に懐いたら危ねぇじゃん」
ムスくれた顔で文句をつけると驚いたように目を丸くさせるどころか、口もポカンと空いた珍しい顔したケンチンがいた。
「……何?」
「いや、珍しいなと…。そんな気に入ってんなら大事にしてやれよ」
「別にそんなんじゃねぇよ」
「うーわ、自覚ねぇの」
「あ?俺のモンどう扱おうが勝手だろ」
「はいはい」
その顔は納得してない表情だったけど、それ以上ケンチンがなまえのことを言ってくることはなかった。仲間以外の誰かを大事にするなんてこと俺に求めても無駄だとケンチンが1番分かってるはずだから。そんな俺でも珍しく特別扱いしてる方だ。
なまえことは気に入ってる。その自覚もある。アワアワしてる姿が面白くて、わざとかまいたくなるくらいに。それになまえのいる空間は不思議と穏やかで心地がいい。柔らかな声色と優しい眼差しが暖かくて、くっついて寝ると驚くほどよく眠れるし。
「なまえ…?」
重たい瞼をうっすらと開けた。昨日だって子ども体温のなまえにくっついてぬくぬくと寝てたはずなのに、今は握りしめているのはシーツの端っこ。まだぼんやりとした頭のまま、ゆっくりと上半身を起こす。2人で使うにも大きすぎるベッドのどこにもいない。
俺を起こさないようにともぞもぞと布団から出ていったのは夢ではなかったらしい。そんな気を使わなくたってこの城の中にいる限り、どこにいるかなんて匂いや気配ですぐに分かる。だからすぐに異変に気づいた。いつもなら料理か掃除かでなまえのいる場所なんて限られている。なのに厨房も中庭も隣の自室にもどこにもその気配がない。
逃げた?そう考えると胸がザワザワと今まで感じたことのない息苦しさが襲う。確かに最初に逃げてもいいと言ったけどなまえにそんな度胸があるとは思えない。そんなことしないはず。そうは思っても胸からみぞおちまでの違和感は消えないまま。
そういえば、ケンチンと三ツ谷がなまえの服のことで何か話してたような。近いうちに三ツ谷の店に行くの今日だったっけ。起き抜けで重たい頭をゆっくりと動かしていくと少し前の記憶が蘇る。同時にチクリと傷んでいた胸があっという間に沸々と怒りが覆っていった。