falling down33 | ナノ





falling down33

 イレラント国の地図を広げて、トビアスは赤いしるしのついた場所を指で押さえた。そこにはカティエストとイレラント語で記載がある。
「レア、ここ?」
 キッチンで夕食の用意をしていたレアンドロスは手を止めて、リビングへやって来る。
「そう。そこが俺達の住んでる場所だ」
 少し濡れた指先が髪をなでていく。トビアスはくちびるを結んだ。キッチンへ戻ったレアンドロスは、コバルトブルーのエプロンを身につけ、真剣な面持ちで料理に取り組んでいる。
 ジョシュアは病院へ連れて行ってくれた後から、あまり顔を出さなくなった。週末、一緒に夕飯を取る程度で、すぐに帰ってしまう。レアンドロスに聞くと、彼は大学で勉強していると教えてくれた。
 ぱちぱちと音が聞こえて、暖炉のほうへ視線を向けた。トビアスがここへ来たのは八月の終わりだった。十一月に入り、風の強さと寒さが増している。まだ積もるほどではないが、雪もちらつき始めていた。トビアスはこの三ヶ月ほどを、ずっとレアンドロスとともに過ごしている。最初は何から何まで、彼の手伝いがなければ、どうしていいのか分からなかったが、今は自分の手で食事をし、着替えることができるようになった。
 短期間で覚えたのは、レアンドロスとジョシュアが褒めてくれるからだった。失敗しても怒られず、成功した時は何度も頭をなでて、抱き締めてくれる。トビアスはそれが欲しくて仕方なかった。
 しだいに泣く回数も減り、笑いかけてもらったり、嬉しかったりすれば、笑った。だが、トビアスは笑っているつもりでも、実際にはくちびるを結んでいるだけだった。
「ビー」
 テーブルの用意を済ませたレアンドロスが、エプロンを外す。髪より色の濃いヒゲをかいた後、彼が、「おいで」と手招きする。椅子を引かれ、腰を下ろすと、彼が椅子を押してくれた。テーブルの上にはローストビーフにグレイビーがかかった皿とパン、コーンスープが並んでいた。
「ちょっと見た目が悪いが、味は大丈夫だから」
 レアンドロスはキッチンの作業台に置いてある既製品の空箱を持ち上げた。トビアスは月一回、ブレイトン病院で検査を受けている。栄養価の高いものを食べさせるように、と言われて、彼は毎日、献立表を作り、トビアスの血圧や体重を測った。朝食後と昼食後には散歩に出たり、サッカーボールを使って運動をして、その合間に勉強も教えてくれる。
 トビアスはここが大好きになった。母親がいないことを少し寂しく思うが、夜にやって来る男達の相手をせずに済むことが、身体的、精神的ストレスの軽減に大きく影響していた。
 病院では知能検査も実施された。トビアス自身は結果を聞いても分からなかったが、周囲の大人達はレアンドロスやジョシュアも含めて、混乱していた。トビアスの母親は八歳までの記憶しかないと言っていた。検査結果はその年齢を下回る年齢を推測させた。
 ブレイトン病院には精神科がなく、その場にいた医者は、「憶測だが」と前置きした上で彼の意見を述べた。トラウマになった出来事を想定できない年齢まで遡った後、さらにまた精神的に大きな衝撃を受ける事が起きて、もっと追い込んだのではないか。
 医者はトビアスに年齢を聞いた。母親から、十八だと言うように指示されていたが、トビアスは三つ以上の数が分からなかった。だが、三つと言ってはいけないことは分かる。泣き始めると、レアンドロスが抱き締めてくれた。トビアスはその時、彼が味方だと言った言葉は本当だったと確信した。

 ナイフとフォークを使い、食べ物を口へ運ぶ。トビアスは時おり、手でそのままつかんで口へ持っていった。隣に座っているレアンドロスは、あらかじめ用意してある濡れタオルで指先を拭いてくれる。彼が髪を切って、耳へかけてくれたおかげで、頬についたソースと髪が絡まることは防げるようになった。
「おいしいか?」
 頷くと、レアンドロスが笑う。電話が鳴り、彼は口元をペーパーナプキンで拭いて立ち上がった。ミネラルウォーターが入ったグラスへ手を伸ばした瞬間、コーンスープの器が音を立てて落ちた。座っている場所とは反対側へ落ちたため、トビアスにはスープがかかることはなかった。
 リビングとは異なり、キッチンのある空間にはラグやじゅうたんの類は敷かれていない。器が割れて、破片が飛び散っていた。
「あ」
 トビアスは怒られると思い、慌ててテーブルの下へしゃがみ、壊してしまったものを手にしようとした。だが、椅子から立ち上がろうとした時点で、レアンドロスが受話器を持ちながら、頬をなでてくる。
「ケガはないか?」
「ごめんなさい」
 レアンドロスの顔がみるみるうちににじむ。トビアスは涙を拭った。
「ごめんなさい」
「大丈夫。スープが飛び跳ねたんだろう?」
 受話器をトビアスに渡したレアンドロスは、トビアスの体を抱き上げた。
「ジョシュアだ」
 トビアスは受話器を耳に当てた。
「ジョシュア?」
「トビアス、ケガはしませんでしたか?」
「うん」
 レアンドロスはリビングのラグの上へ、トビアスを下ろす。それから、彼は手や足を確認して、どこもスープで濡れたり、破片で切ったりしていないと分かると、テーブルの下を片づけ始めた。
「飛び跳ねるなんて、元気なスープですね」
 ジョシュアの笑い声に、トビアスは、「ぼくがおとした」と伝える。

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