falling down26
迎えに来た車を前に、トビアスは母親を振り返った。
「行きなさい」
トビアスは泣きながら、車へ乗った。車の中には誰もおらず、運転手が発進すると声をかけて、車が動き出す。どこへ向かっているのか分からないまま、トビアスは不安になり、むせび泣いた。夕暮れの迫る空は赤く染まっていたが、スモークが施されている窓からは、すべて黒く見える。泣き疲れて、頭が揺れる頃、車は空港に到着していた。
「トビアス!」
開いた扉から、自分を呼ぶ名前に、トビアスははっとした。眼鏡をかけた優しげな青年が抱き締めてくる。
「よかった。本当はそちらまで迎えに行きたかったんですけど、あなたのお母様に拒否されてしまって。でも、来てくださって、本当に……」
トビアスは小さく震えていた。知らない青年が自分を抱き締めている。性的な雰囲気はなかったが、外に出ることじたいを恐れていたトビアスには十分怖かった。うつむいたトビアスを見た青年は、体を離す。
「トビアス? ジョシュアです。覚えていませんか?」
ジョシュアと名乗った青年を、トビアスは見上げる。首を横に振ると、彼の瞳がかげった。
「彼女の言ってたことは本当だったんですね……パスポートはお待ちですか?」
トビアスがジョシュアを見上げたままでいると、ジョシュアはてきぱきと車のトランクから荷物を取り出す。トビアスの荷物はリュックサック一つだけだった。中身を広げて、パスポートを取り、ジョシュアはトビアスの手を引いた。
どこへ行くのか聞きたかったが、母親から余計なことは話すな、と言われていた。きょろきょろと空港内を見上げていると、ジョシュアは小さく笑う。
「本当は専用のジェット機があるんですが、残念ながら使えないので、一般の皆様と同じようにイレラントへ行きます。何か欲しい物はありますか?」
トビアスは子どもが食べていたアイスクリームへ視線をやり、それから、首を横に振った。
「搭乗までまだ時間があります。ここで座って待っていてください」
ジョシュアはそう言って、店のほうへ歩いていく。彼がアイスクリームを買って、戻ってきた。
「どうぞ」
ジョシュアが持っていたのは、チョコレートとバニラのアイスクリームだった。コーンの部分を持つように言われる。
「……たべるの?」
うかがうように見上げると、ジョシュアは笑う。
「トビアス、あなたが食べるんです」
トビアスは両手でそっと受け取ろうとしたが、うまく受け取れずにアイスクリームが落下した。
「あ」
トビアスは椅子から床へ座り、落ちたアイスクリームへ手を伸ばす。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
謝りながら、アイスクリームを手を伸ばし、それを口へ運ぼうとする。ジョシュアが慌てて、ハンカチでトビアスの手を拭いた。
「トビアス、落ちたものを食べないでください。手を洗いに行きましょう?」
立てますか、と聞かれて、トビアスはおそるおそるジョシュアを見た。彼はにっこりと笑う。
「手を洗ってから、買い直しましょう。色んなフレーバーがありましたよ」
レストルームへ行き、手を洗った後、ジョシュアとともに店へ入った。彼が言った通り、色とりどりのアイスクリームが並んでいる。テーブルに座り、カップに入ったアイスクリームを食べる。トビアスはスプーンをうまく使えなかった。溶けたアイスクリームが落ちても、ジョシュアは怒らずに、こちらを見ていたが、眼鏡を外して目を擦り始める。
携帯電話が鳴った。電話に出たジョシュアは涙声で話す。トビアスはイレラント国の言葉も忘れていた。十六歳までに習得していたすべてを、辛い記憶とともに沈めた。電話を終えた彼は、べたべたになっているトビアスの指先を見て、もう一度、レストルームで手を洗うことを提案した。
トビアスはジョシュアが母親の言っていた王子なのかと思い、この人は怖くないと感じた。搭乗アナウンスが流れるまで、並んで椅子に座った。窓からは大きな飛行機が見える。
「トビアス、眠かったら寝ててもいいですよ」
優しく言われて、トビアスは目を閉じた。冷房が効いているため、ジョシュアが羽織っていた上着を被せてくれる。まだ部屋に戻りたいという気持ちはあったものの、戻れば母親を怒らせてしまうと分かっていた。トビアスは夜になったら、いつものように相手をしなければならないのだと思い、体力を温存するためにも眠った。 |