あいのうた番外編6 | ナノ





あいのうた番外編6

 小麦粉や米粉が並んだ作業台の上には、バターや惣菜パンの材料のほかに、飲みかけのコーヒーが二つ置いてあった。裏庭へ続く裏口の扉は開いており、春風が緩やかに吹いている。チューリップだけを植えた花壇のそばにしゃがんでいた尊は、青々としているクレマチスを見上げる。引っ越してきて、二回目の春だ。
 庭の手入れ方法がほとんど分からなかった去年は、奥村に言われるがまま手を動かした。今年も彼の指示を仰ぎながら、少しずつ花を増やしている。季節の花々が並ぶ前庭は特に念入りに世話をした。
 春風に誘われて裏庭へ出た尊は、厨房に入り、作業台の上をきれいに拭く。一ヶ月前に道の駅で手作りパンを売ってみないかと奥村から声をかけられた。去年の冬、地下の食品売り場で痴漢にあって以来、ほとんど外出していない。未来は以前とまったく変わらず、接してくる。尊が不安に陥り、子どものような駄々をこねても、怒ったり、嘆いたりすることなく、笑って付き合ってくれる。
 尊は翻訳の仕事を少し減らして、その分、庭の手入れや家事の時間を増やしていた。未来のデザインは評価され、順調な様子だ。海外の有名ブランドと契約をしたという話も聞いた。
 ホールの改装は少しずつ進んでいる。二人暮らしには広すぎる厨房をどうするかという話になった時、尊はせっかくの釜を潰すのはもったいないと言った。
 このログハウスの所有者だった二人の男性の話を奥村から聞いた後では、よけいに厨房やホールを大きく変えることにためらいを覚えた。当時の写真が残っており、奥村の家でお茶をした時に見せてもらった。奥村が特に手入れをして欲しいと言った花壇の前で、二人の男性が並んで立っている。やわらかな笑みを浮かべているのが、ログハウスを建てた男性で、その隣には年齢を感じさせない美しい男性が同じように笑っていた。
「俺の憧れだったんだよ、ずっと。いつも仲よくて、けんかなんて見たことなかった」
 尊は奥村達に同じような憧れを抱いている。彼が瀬田を見上げる時、瀬田が彼を見つめる時、羨ましいくらい優しい雰囲気が漂う。その奥村が憧れていたと言うのだから、彼らも素敵な人達だったに違いない。
 厨房は残そうと提案したら、未来は快諾してくれた。尊が作業台でパン生地を練り始めると、中で仕事をしていた未来が顔を出す。彼は飲みかけのコーヒーを一口だけ飲んだ。
「もうすぐ終わります」
 間仕切りを置いていたホールは、互いの仕事部屋とカウンターを含んだリビングへ改装する予定だった。すべてを未来一人でできるわけではないため、瀬田の知り合いである小野原という人物から、内装に詳しい人間を紹介してもらった。
「今日は惣菜パンですか?」
 この間は菓子パンに挑戦したため、今回は違うものを焼いてみようと思った。焼き上がったら試作品を奥村達に食べてもらっている。道の駅には地産品が並び、奥村が育て、収穫している米も並んでいた。今度、パンコーナーを作ろうという話になり、尊へ声をかけてくれたらしい。頷くと、未来がそっと手を伸ばし、髪へと触れた。
「庭にいたんですか? 花びらがついてる……」
 ふっと笑った未来が花びらをつまみ、作業台の上に置いた。歳下とは思えない落ち着きように、花びらを髪につけていた自分と比べてしまい、恥ずかしくなってくる。未来は彼にとっても自分が必要だと言ってくれたが、尊はいまだに自分の存在は彼にとって重荷でしかないと思えた。睡眠導入剤も結局、以前と変わらず飲み続けており、情緒不安定になれば、相手が未来であっても、「一人にして欲しい」と言って泣いた。そのくせ、彼が買い物へ出て、本当に一人になると、尊は怖くなり、捨てられたのではないかと考え始め、何度も連絡を入れた。
 その煩わしい行動や言動にも、未来は怒ることなく、買い物は通販で済ませ、尊を一人にしなくなった。この休憩も、コーヒーカップをわざわざここへ置いて、自分の様子を見にきてくれているのだろう。
「パンが焼けたら、奥村さんのところに行きますか?」
「うん」
「分かりました。じゃあ、俺、続きやってきますね」
 未来がホールへ戻った後、しばらくすると、作業を開始した物音が響いた。尊もパンをこね、発酵させる間に惣菜の準備を再開する。裏庭から射し込む光がきれいだ。ホールから聞こえる物音に一人ではないことを実感しながら、尊は自分の心が弾んでいることに気づいた。

番外編5 番外編7

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