あいのうた番外編5 | ナノ





あいのうた番外編5

 明け方近くまで眠ることができなかった尊が、ようやく眠りに落ちた後、恋人が起床して仕事へ行く準備を始めた。尊は物音を耳に聞きながら、起きて、朝食の用意くらいしなければと思う。だが、思うだけで、体は動かない。
 そのまま昼頃まで眠り、尊は寝室を出て、リビングへ向かった。テーブルの上には今朝、彼が出しっ放しにしたマーガリンや皿、グラスが並んでいる。夕飯はせめて用意しようと、冷蔵庫を開けた。買い物に行かなければならない。外へ出るのは億劫だったが、顔を洗い、服を着替える。
 あの夜から十ヶ月以上が経つ。季節はもうすぐ夏になる。尊は長袖を着て、首を隠すようにストールを巻いた。会社を辞めてから、不規則な生活になり、朝起きられなくなっている。このままではいけないと思っているのに、ずるずると今の生活を続けていた。睡眠導入剤を飲んだら、少しは眠れるかもしれないと、メンタルクリニックへ行ったが、恋人にばれてからは行っていない。
「そんなところへ行かないといけないくらい、俺が追い詰めたって言いたいのか?」
「俺のほうが辛い」
「精神がおかしいから、襲われたんだろ」
 尊は財布の中にあったメンタルクリニックの診察カードを捨てた。恋人の態度は去年のクリスマス以降、どんどん冷淡になっていく。もうだめかもしれない、と冷房の効いたスーパーの中を歩きながら、とうとつに思った。尊は視界をにじませた。

 夕食を終えた恋人が、「ごちそうさま」と言い、ソファへ座った。尊はテーブルの上を片づけ、ソファの端へ腰を下ろす。
「あの、さ」
 視線を上げて恋人を見ると、彼は携帯電話の画面を見ながら、ボタンを操作していた。盗み見るようなことはしないが、何度か夜、帰ってこないこともあり、何となく察しはついている。
「来月中に、ここ、出るよ」
「え?」
 携帯電話から顔を上げた恋人が驚いたような声を出す。だが、すぐに彼は笑みを見せた。
「そうか、ごめんな。俺、仕事が忙しくて、構ってやれなかったよな……でも、お互い、そのほうがいいと思う。おまえも、一人のほうが気が楽だろ」
 胸が苦しくなる。自分は彼を束縛していたのだろうか。ぎゅっと拳を握り締めた。
「うん……うん、そうだね。今まで、ありがとう」
 まだ部屋も見つけていない。本当は立ち直りたい。ここにいたい。彼と別れるのは嫌だ。全部飲み込んで、尊は笑みを見せた。
「男で付き合ってもいいと思ったのはおまえだけだ」
 彼はまるで以前の彼に戻っているように思えた。変えてしまったのは自分だ。いつまでもあの出来事を引きずり、負担をかけている。何も言えずにいると、彼はもう一度、「ごめんな」と言った。

 一人で迎える朝は今までと変わらないのに、「おかえり」と言える相手がいないことに寂しさを覚えた。話し相手は近所にある喫茶店のオーナーぐらいで、そこで朝食セットを食べることが習慣化していた。
 このままではいけない、と思っている。だが、変わることができない。カランカランといつもの音が響いた。中に入ると、オーナーが、「いらっしゃい」とほほ笑みをくれる。
「こんにちは」
 カウンターの左端へ座ると、カウンターの向こうでしゃがんでいた青年が、こちらを一瞥した。尊は自分を襲った青年達と同い年ほどの青年が苦手になった。くちびるを結び、ひるむと、オーナーが話しかけてくる。
「渡辺さん、こいつ、俺の甥で未来です」
 立ち上がった青年は長身だった。店内の女性客が彼に注目している。
「橋口未来です。ご注文はお決まりですか?」
 尊は少しうつむいて、「朝食セットをください」と言った。
「セットですか? セットの時間は……」
 未来の言葉を遮るように、オーナーが口を開く。
「あぁ、渡辺さんはセットとブレンドコーヒーだ」
「でも、セットの提供時間は」
「彼は特別」
 オーナーが笑いながら言い、未来はすぐに頷いた。それから、こちらへ寄ってきて、笑みを浮かべる。
「渡辺さんは特別なんですね」
 眩しいくらいまっすぐな瞳で見つめられて、尊はただ馬鹿みたいに彼を見つめ返す。もう二度と恋はしないと決めていた。泣きたくなるほど寂しくても、誰かを傷つけるのは嫌だった。卑屈で臆病な自分を見透かされそうになり、尊はうつむく。大きな手が尊の前に温かくておいしい食事を運んできた。
「いらっしゃいませ!」
 青年の朗らかな声が響く。痛手を負いながら、愛しい思い出に浸ることなく恋人と別れた。恋人は新しい一歩を踏み出している。だが、尊は自分もその一歩を踏み出していることにまだ気づいていなかった。
「ありがとうございました。また明日!」
 会計を済ませて出ようとしたら、青年があいさつをしてくる。尊は小さく、「ごちそうさまでした」と告げた。今日も何の変哲もない日だ。空を見上げて、少し歩いたところで、ほんの一瞬だけ振り返った。
「また……明日か」
 知らぬ間に、尊は口元を緩めた。

番外編4 番外編6(初エッチ編/尊視点)

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