falling down10 | ナノ





falling down10

「イレラントは同性婚が認められてるんですって」
 母親の不快な笑い声は続く。
「王子はすっかりあなたに夢中なんじゃないの? 跡継ぎのこともあるから、結婚はできないかもしれないけど、愛人くらいにはなりなさいよ」
 そうすれば、お金の心配はいらないわ、という言葉を聞き、トビアスは水圧を上げた。冷たいシャワーが胸を濡らす。昔、あの女性は自分の母親ではなく、本当の母親は別にいるのだと信じていた。あるいは、いつか父親が迎えにきてくれると思っていた。体にできている傷に水がしみる。そのたびに顔を歪ませながら、トビアスはバスルームを出た。
 リビングのソファに座った母親が、化粧直しをしていた。寝室へ入り、用意されているスーツを着る。
「ちょっと、髪くらいちゃんとして。あら」
 先ほど頬を叩かれた時にできた引っかき傷を見て、彼女は苦笑した。ファンデーションを取り出し、傷を隠すように塗られる。月二回は美容院へ通っている彼女の髪は、人工的なブロンドだった。崩れていない完璧な化粧を見ながら、人形みたいだと思い、校内で人形と呼ばれていたことのある自分を嘲笑う。自分は彼女の息子なのだと改めて思った。
「レイジェントホテルのラルゴで食事なんて、本当に素敵ね」
 レアンドロスが用意したリムジンに乗り込み、トビアスは憂うつなディナーに小さく息を吐いた。向かいに座る母親は、細い指に大き過ぎる宝石をあしらった指輪を眺めながら、嬉々としている。レアンドロスからの誘いは断って欲しいと言っても無駄だろう。トビアスは緩やかなカーブの後、静かに停車したリムジンの扉が開くのを待つ。
 ラルゴはイタリアンレストランとして非常に有名だった。ホテルの三十階にあり、市内の夜景を三百六十度、見渡すことができる。円形のホールの中でも、部屋代が別になっている個室へ案内された。もっとも美しい夜景を見ることができる場所だ。
「よくいらっしゃいました」
 レアンドロスは母親の手を取り、恭しくキスをする。うしろに控えているジョシュアが、こちらを見てほほ笑んだ。トビアスは視線をそらし、赤いじゅうたんを見つめる。母親は美しい容姿だが、一目見れば誰でも、彼女がどういう女か分かる。それを知られるのが嫌だった。トビアスは母親の存在を自分の存在と同じく恥じていた。
「トビアス」
 レアンドロスの手が肩へ触れる。彼はトビアスの左頬へ触れ、小さな声で聞いた。
「化粧をしているのか?」
 ファンデーションを指で軽く擦った後、レアンドロスは秘密を見つけた少年のように笑った。
「君は色が白いから、こんなものを塗らなくても十分きれいだ」
 不意に母親へ視線をやると、彼女はジョシュアと談笑していた。人当たりのよいジョシュアは面倒そうな表情も見せず、話を聞いている。媚を売るような彼女の態度に吐き気がした。友達になりたいと言ったレアンドロスの言葉にも嫌悪しかなかった。
「きもち、わるい」
 トビアスは立ちくらみを起こして、その場に倒れそうになった。すぐにレアンドロスが支えてくれる。
「大丈夫か?」
「き、そ……はきそう」
 夏季休暇に入ってから、初めての外出だった。食事は運ばれてくるが、ほとんど手をつけず、体力も衰えている。トビアスは自分が嘔吐していることに気づいていたが、それを止めることはできなかった。母親が声を上げている。また叩かれると思って、目を閉じる。衝撃はなく、ただ体がふわりと浮き上がっただけだった。

 どこからが夢か分からなかった。トビアスは知らないベッドの上で寝かされていた。拘束されていると思った足は自由に動き、服を着ていることに驚いた。部屋を見渡せば、テレビやパソコンが置いてあり、本棚には経済誌が数冊並んでいた。経済誌が置かれた下の段にフォトフレームがあった。トビアスはベッドから出て、その本棚の前に立つ。今より少し幼いレアンドロスとおそらく弟が並んでいた。
 一つしかない扉を開けると、外に立っていた男が目を丸くする。
「あ、起きていらっしゃったんですか。すぐにレアンドロス様へ連絡するので、どうか中でお待ちください」
 トビアスは大人しく中へ戻った。窓から見える景色を見ても、庭しか見えない。遠くに時計台らしき建物があり、ここが国内であることは分かった。喉の渇きにテーブルの上にあるミネラルウォーターへ手を伸ばす。
「トビアス様」
 ノックの後、外にいた男が呼んだ。返事をためらっていると、男は扉を開けず、そのまま外で話をする。
「レアンドロス様は約一時間後にはお戻りになります。もし、よろしければ、軽食を運ばせますが、いかがしましょうか?」
 これまで意思など聞かれたことがなかったため、トビアスはミネラルウォーターを手にしたまま返事ができなかった。

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