あいのうた15 | ナノ





あいのうた15

 未来は整った顔だちをしている。異性からだけではなく、同性からの視線も引きつける。その彼が子どものように泣くのを見て、尊は泣いていてもかっこいい人間は絵になるのだと、ぼんやり考えた。ひりひりと痛むくちびるの端を押さえると、彼が指先で涙を拭う。
「……病院に行きますか?」
 尊は首を横に振る。
「警察」
「行かない」
 行ってもどうしようもない。ただ自分をもう一度傷つけるだけのことだ。尊はまだ何か言おうとした未来を見つめることなく、小さな声で言う。
「出てくれる? 俺、もう上がりたい」
 未来に冷たくすれば、彼は自分から離れていくだろうと思った。言葉にしてから、彼が濡れた服のままだと気づいたが、体を温めるにもこんな汚れた湯では申し訳ないと思い、出ていく背中を見送る。
 立ち上がるとくらくらした。先ほどまでは気にならなかった頭痛がひどくなる。中嶋の言う通り、尊は未来へ昨夜のことを話せそうになかった。話したところで、信じてもらえないだろうという諦めと、信じたとしても、未来が傷つくだけだと分かっているからだ。何も言わないことが互いにとって最善だった。
 髪を乾かし、バスタオルを体に巻いた状態で廊下へ出ると、両ひざをつき、床の拭き掃除をしている未来を見つけた。
「な、何して……そんなこといいから、帰って」
 悲しさと恥ずかしさから尊は声を荒げる。未来が拭うのは自分の汚穢だけではない。男達の残したものも混ざっている。そのどうしようもなく卑しいものに、まったく関係のない未来が触れる。
 おまえといると、俺まで死にたくなる、と言われた。尊は右手で口元を押さえる。
「っやめ……っく」
 恋人の声が響く。どうして、おまえだったんだ、と責める声だ。尊自身もずっと自問していた。行きつくこたえは、分からない、だった。だが、彼は納得しなかった。自分が悪かったのだと、考えるようになったのはいつからだろう。
 早く元の生活に戻らなければならないと思った。肌を隠すようにスーツを着込み、遠回りして駅まで歩いた。誰も見ていないのに、自分の歩きかたは変だと思われている気がして、尊は気分が悪くなった。満員電車に乗ることができず、顔色の悪い自分を心配して声をかけてきた駅員と視線を合わせただけで、彼から責められる気がした。
「渡辺さん」
 未来が、「風邪、引きます。早く服、着てください」と声をかけてくる。尊は収納スペースにあるプラスチックの引き出しを引き、下着と衣服を取り出した。
「俺の家に来てください」
 バスタオルを外にある洗濯機の中へ入れて、窓を閉めると、未来が真剣な表情で言った。
「今夜ここで眠るのは不安でしょう?」
 懇願する口調で距離を縮めてきた未来に、尊は体を萎縮させる。
「どうして?」
 不安なわけがない、と込めて、未来は拳を握る。鍵を閉めて、誰が来ても開けなければいいだけの話だ。もう二度と、誰にも扉を開かなければいい。
「……渡辺さん、お願いです。ここで、その、お、襲われたんですよね? 俺、あなたをここに置いておけない」
 いつまでそうするのか、と尋ねられた。意味が分からず、問い返すと、いつまでその暗い顔を見せるのかと言われた。仕事をしていても、帰宅して、涙の跡を残したままの尊を見るのが辛いと、彼は言った。自分が愛する人の枷にしかならないと理解した瞬間の絶望を、息ができなくなるほどの苦しさを、忘れていた。
「男同士が気持ち悪いなんて、嘘だよ。こういうプレイも嫌いじゃない」
 尊は殴られた頬に手を当てながら、かすかに笑う。まっすぐに未来を見つめた。
「橋口君の好意は嬉しかった。でも、歳下は対象外だし、だいいち、君に俺は殴れないよね」
 馬鹿にするように鼻で笑うと、未来の体が動いた。室内は狭く、彼が大きく一歩動けば、すぐに目の前に彼の体が迫る。とっさのことに目を閉じて、左手で頭を覆った。挑発したから、殴られるのだと思った。だが、未来は両腕で尊の体を抱き締めて、胸の中へと引き寄せただけだった。衝撃もなく、ただ彼の腕に抱かれていることに驚いて、目を開く。
「殴らないです。そんなことできない。尊さんのことが好きだから、俺は……」
 耳にかかる熱い吐息は涙で濡れていた。
「抱き締めたい。そばにいてください」
 未来の服はまだ濡れていた。その冷たい部分に触れているのに、彼の腕は体を温めてくれる。未来の前から消えない限り、と中嶋は脅した。手足を押さえつけられ、蹂躙される恐怖がよみがえる。尊が自らの腕を未来の背中へ回すことはなかった。

14 16

main
top


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -