あいのうた11 | ナノ





あいのうた11

 いつもより早い時間に睡眠導入剤を飲んだ。明け方の六時頃に目が覚めて、まだ起きるには早いと目を閉じる。だが、一度起きてしまうと、もう眠くはない。尊はもう一度、目を開いた。テーブルの位置が違うことと、自分の腕がしびれていることに気づいた。
 尊の左腕は未来の右脇に入り込んでいた。未来はまだ深い眠りにあるのか、大きな寝息を立てている。驚きのあまり声が出なかった。右手は未来の左手とつながっている。非現実的な状況に整理ができない。顔を上げた時、彼の右肩あたりが濡れているのを見た。その瞬間、自分が泣きながら眠っていたことに気づき、羞恥心から飛び起きる。その動作でさすがに未来も目覚めた。
「渡辺さん?」
 呼びかけられても、尊の頭の中では繰り返し、「おまえが誘った」という声が聞こえた。くちびるを噛み締めて嗚咽をこらえたが、耳をふさいでも声は消えない。大きな手が伸びてきて、尊の体を抱き寄せた。強張る体を労わるように、手のひらが背中をなでていく。
「すみません。昨日、プレゼント置きっ放しだったから、夕食の差し入れもかねて、寄ったんです。そしたら、渡辺さん、ふらついてて、俺が勝手に心配して、泊まったんです」
 抱き締められた胸の中から、テーブルの上を見やる。誕生日プレゼントでもらった、ピアスが入った小箱の横には、ピルケースがあった。さらに池川メンタルクリニックと印字された袋も置いてある。処方されている薬の名前をインターネットで検索すれば、すぐに何の薬か分かる。尊はそっと未来を見上げた。未来は安心させるような落ち着いた笑みを浮かべて、「それから、俺、渡辺さんの体、そういう意味で触れたりしてませんからね」と言った。
 眠りに落ちるまでの間の記憶がないのは、初めてのことではない。尊は未来の来訪すら覚えていなかった。
「何か、薬、飲んでるんですね。副作用で眠くなるのかな? とりあえず、昨日持ってきた差し入れ、温めてもいいですか?」
 未来は抱き締めてくれた手を緩めて、立ち上がる。
「昨日、勝手に冷蔵庫、開けちゃいました。またちょっと開けてもいいですか?」
 布団を三つ折りにして、テーブルを元の位置に戻した未来に、尊は何とか頷く。リモコンを触って、「少し温度上げます」と操作し終えた後、未来は冷蔵庫の中から袋に入っているタッパーを三つ、取り出した。キッチンスペースに立っている彼のうしろ姿を見ながら、だんだんと正常な思考が戻ってくるのを感じた。
 尊はゆったりめのジーンズをはいているものの、上はTシャツだけで、肌が露出していることを知り、慌ててパーカーを引っ張り出す。
「カレーとグラタンが余ったから持ってきたんですよ。どっちなら食べられそうですか?」
 パーカーに袖を通していると、「寒いですか?」と手を止めた未来が近づいてくる。尊は首を横に振った。
「俺、先に顔洗って、口だけゆすいでいいですか?」
「あ、ごめん、気づかなくて……」
 尊は洗面所の扉を開けて、新しいタオルを渡す。彼が使っている間、キッチンでカレーとグラタンを見つめた。保温状態の炊飯器には白飯がある。カレーでもいいが、どちらかといえばグラタンを選びたい。だが、温める手間を考えるとカレーのほうが早いと思い、洗面所から出てきた未来に、「カレーでいいです」とこたえた。
 すると、未来は少し探るような目つきでこちらを見てくる。尊はすぐに自分の返答じたいが失礼だと思い当たった。食事を持ってきてもらって、ただ温めるだけの作業すら彼に任せようなんて、偉そうな態度だと思われたに違いない。先ほどの勝手に心配して泊まり込んだと言うくだりも、きっと自分が彼を放さなかったのだろう。彼は困り果てて、仕方なく泊まった。そのほうがつじつまが合う気がする。
「ごめ」
 謝罪の言葉の途中で、未来が話し始める。
「渡辺さん、ほんとはグラタンがいいんでしょう?」
 未来の言葉に顔を上げると、彼は小さく笑う。
「カレーがいいじゃなくて、カレーでいいって言ったから、グラタンのほうがいいのかなって。どっちも大した手間じゃないですよ。顔、洗って、座っててください」
 尊は顔を洗い、歯を磨いた後、冷蔵庫から麦茶を取り出し、二人分のグラスを並べた。テーブルの上からクリニックの袋やピルケースを片づける。小箱を手にした時、またあの美しいリーフとブルートパーズを見たくて、ふたを開けた。指先でつまんで持ち上げ、じっくりと見つめる。
「気に入りました?」
 グラタンを温めた未来が、サラダと一緒に運んでくる。尊は深く頷いた。
「本当にありがとう。こういうアクセサリー系のプレゼントはもらったの、初めてで、何か照れる」
 そっと箱にしまい、未来を見ると、彼は嬉しそうにグラタンの入った皿とサラダを軽く押した。
「よかったです。じゃあ、これ、食べてください」
 そう言った後、未来が立ち上がったのを見て、帰ろうとしているのだと分かった。別に引きとめる理由はない。だが、思わず、「帰るの?」と聞いてしまった。尊は狼狽したが、その表情を未来に見られることはなかった。すぐにうつむいたからだ。
「はい。でも、また来ていいですか?」
 尊は頷く前に、震えながら言葉をつむぐ。
「昨日は色々ごめん。気持ち悪い、とかも、全然、ほんとは、そんなつもり……」
 狭い玄関で向かい合う勇気はなく、尊はうつむいていた。その手を未来が両手でぎゅっと握る。
「気にしてないって言ったら嘘ですけど、大丈夫です。あなたが優しい人だって分かってるから」
 また来ますね、と未来の手が放れ、開いた扉から湿った空気が入ってきた。雨になるかもしれない。傘を渡そうと閉じかけた扉を開くと、もう彼の姿はなかった。

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