vanish31 | ナノ





vanish31

 服の袖で涙を拭いた慎也は、視線を合わせないまま、小さく謝り、立ち上がった。
「何で謝るんだよ? 慎也、どうしたんだ?」
 怪訝そうに要司が聞いてくる。慎也はくちびるを噛み締めて嗚咽を殺した。彼を不安にさせたくなかった。視線を彼の耳あたりへやると、そこには以前と変わらず、リングピアスが輝いていた。
「……いいな」
 ぼそりとつぶやいた言葉は要司にまでは聞こえなかった。慎也は遠くに行きたいと思った。葵から逃げたい。意識を落とすことで逃げるんじゃなくて、あの錠剤に頼らず、自分の足であの家から出なければいけないんだと分かっている。
「要司さん」
 慎也はようやく要司の目を見ることができた。
「どうやって自分の足で歩いてきたんですか?」
 要司は退学になった時、まだ十六歳だった。今の自分より幼かった彼は、自分で生活していくために事務所へ行き、働き始めた。自分にもできるはずだ。慎也はそう考えた。
「俺にも自分の足で歩く力、あると思いますか?」
 要司はその言葉で慎也が大学に合格しなかったことを悟ったようだ。一瞬、悲しげに視線を伏せた後、口元に笑みを作って、手を伸ばしてきた。その手が慎也の髪をわしゃわしゃといじる。
「ばっかだなぁ。じゃ、おまえ、どうやって俺の前まで歩いてきたんだ? あるに決まってるだろ」
 慎也がかすかに笑みを見せると、要司の指先が左のくちびるの端へ触れた。彼の視線が険しくなる。
「誰、これ」
 慎也は昨日、義理の母親に頬を叩かれていた。葵の用意するコンビニ弁当もほとんど手をつけないため、慎也の栄養状態は非常に悪い。外に出ず、運動もせず、傷は治りにくくなり、顔色は常に青白かった。だが、慎也自身は鏡で自分を見ることもないせいで、外見の変化には気づいていない。
「あ、これは机の角にぶつけたんです」
 すらすらとついた嘘に要司は納得していないようだった。
「要司さん、俺、家に戻ります」
 慎也には要司から自分の足で歩いていける力があると言われただけで十分だった。それだけで、落下して消失していくばかりの自分の意思を、きちんと胸へ押し留めることができる。そして、彼を自分の戦いに巻き込むわけにはいかなかった。
「何言ってんだよ。母親に追い出されたんだから、とりあえず今日は俺んち来い」
 腕を引かれて、慎也は必死にそこへ止まろうとする。
「ダメです。俺、怒られる」
「誰に? 父親? 優秀なお兄さん? おまえ、たった今、自分の足で歩きたいって思ってたんだろう? 歩け。おまえはいつだって好きな時に好きなところへ行っていいんだ。そうだろ?」
 ぐいぐいと引っ張られながら、慎也は視界をにじませていた。あの夜と同じだ。要司は慎也が欲しい言葉をくれる。優しく励ましくれる。自分だけが特別だと思わせてくれる。本当はこの手を振り払わなければいけない。タカが言ったように、要司にとって自分は弟みたいなもので、だから、気にかけてくれるだけだ。その優しさは愛情であり、愛じゃない。慎也が望む愛じゃない。
 止まれ。振り払え。
 慎也はにじむ視界を拭いながら、自分へ言い聞かせた。だが、ずっと絶望して諦めることに慣れた慎也には、きらきら光る要司は特別で、一度見た光を視界から消すことはできなかった。自分だけの光として独占できないなら、せめて遠くに光る星みたいに時々眺めていたい。
「はい」
 切符を渡された慎也は、先に改札口を抜けた要司を見つめた。彼が手招きする。彼との関係を完全に断ち切ることなんて、慎也にはできない。切符を入れて、改札口を抜けた。気分は高揚していたが、左腕はひどく痛んでいた。

30 32

main
top


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -