あいのうた4 | ナノ





あいのうた4

 寒さから目が覚めた。尊は震えながらタオルを体へ巻きつけるように動く。枕元にあったリモコンを見て、温度設定がいちばん下になっていることに気づいた。すぐに消したが、部屋全体が冷蔵庫の中のようだ。のろのろと立ち上がり、給湯のスイッチを押す。
 口を開けて寝ていたのか、喉が痛い。風呂がわくまでの間、冷房のリモコンを握り、布団の上に座った。睡眠導入剤を飲んだ後はたいてい何も覚えていない。だが、昨日、眠る前、尊は確かに幸せだった。風呂に入り、昔を思い出す。昔はよかった、と懐古主義に走るわけではない。ただ、昔は恋人との暮らしがずっと続いていくのだと信じていた。
「……っ」
 水面を叩き、尊は拳を握る。人の心は水面に起きた波紋程度で、あっさり崩れていく脆いものだ。恋人の責める声がこだまする。どうして、と尊は自分を責めた。息苦しくなり、風呂を出て、体にバスタオルを巻きつける。涙で顔が濡れていることには気づかない。尊は狭いキッチンまで出たところで倒れた。
 熱が上がっていたが、自分では分からない。立ち上がろうと思っても、力が出なかった。目を閉じると、彼と暮らしたマンションが見えた。いけないと思い、目を開いても、尊にははっきりと見えた。自分と別れた後、彼はその言葉通り、同性とは付き合わなかった。
「男で付き合ってもいいと思ったのはおまえだけだ」
 黙っていると、彼は最後に、「ごめんな」と言った。付き合い始めた時はまだ大学生だったから、別々のところに住んでいた。就職後も互いの部屋を行き来するだけに留めた。社会人二年目でようやく同棲を始めた。あのマンションでの二年は本当に幸せだった。
 尊はすすり泣きながら目を閉じる。二年目の夏だ。残業帰りで遅い時間だったが、一人で道を歩くことに危険を感じたことなどなかった。車が走ってくる音が聞こえて、脇に避けたら、駆けてくる足音にジョギングでもしているのかと立ち止まった。振り返る前に、口と鼻に濡れたタオルが当てられた。
 何が起きたのか理解する前に、車の中へ引きずられ、濡れタオルのせいで呼吸ができず、パニックに陥った。視覚と聴覚から入ってくる情報は、尊の恐怖をあおる。顔はよく見えなかった。運転席と助手席の二人と自分の腕を拘束して、押さえつけている男、濡れたタオルを鼻からずらした男、そして、足元に二人の男が座っていた。
 自分は男だと言いたかった。顔がよく見えない男達の淀んだ視線にさらされている状況に、何が起こるのか分かった。最初はどうして、という疑問だった。クールビズが実施されており、夏はネクタイの着用もなく、半袖のシャツを着ている。袖から伸びた上腕に冷たい感触があった。
 男の一人がナイフを立てている。口に濡れタオルを押し込まれ、尊はうなることしかできない。その刃先がシャツの襟元へ滑る。
「っや、やだ、いやだ、い、たい……」
 尊は目を閉じたまま、涙を流す。呼吸が上がっていた。思い出すな、と言い聞かせる声が響く。尊は、「しにたい」と口走った。冷房を切った状態の部屋の中は、昼には温度が上がっていく。尊は悪夢にうなされながら、熱い部屋の中で苦しんだ。

 白い天井と明るい陽射しに、目を細める。左手には点滴が施されていた。大部屋の真ん中のようで、六つのベッドが並んでおり、左の斜向かいには同じように点滴を打たれている男がテレビを眺めていた。尊は尿意を感じて、起き上がる。
「あぁ、あんた、起きたんだ?」
 隣で雑誌を読んでいた男が声をかけてきた。
「あ、はい。あの、俺……」
 オムライスを食べて、部屋に戻り眠った。それ以降の記憶がない。だが、体の調子から考えると、どうも風邪をこじらせたようだ。
「誰か、呼んできてやるよ」
 雑誌を読んでいた男は、軽々とベッドと下りて、大部屋を出ていく。しばらくすると、看護師が一人、顔を出した。
「渡辺さん、おはようございます。よかった、顔色もずいぶんいいわ」
 女性の看護師は笑みを浮かべて、「検温しますね」、と体温計を出した。
「俺、運ばれてきたんですか?」
「ええ。お友達が意識のない渡辺さんを運んできて」
「いつですか?」
「……三日前、そうね、三日前よ。今日も来ると思いますよ」
 部屋に訪ねてくる友人はいない。不意に仕事の納期を思い出し、慌てて日付を確認したが、あと二日余裕があった。
「今日、退院できますか?」
「先生に相談してからですね。確認しますから、その点滴が終わるまで待っててください」
「お手洗いに行ってもいいですか?」
 かすれた声で聞くと、彼女は頷いて、場所を教えてくれた。
 オムライスを食べた日から五日が経過していた。三日前に、誰が運んだのだろう。思い当たるのは未来しかいない。別れた恋人には住所を教えていないからだ。風邪を引いていても必ず朝食を喫茶店で食べているため、おそらく三日間も姿を現さないことを心配してくれたに違いない。尊は気づかぬうちにほほ笑んだ。

3 5

main
top


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -