あいのうた2 | ナノ





あいのうた2

 池川メンタルクリニックと書かれた看板を横切り、尊は家路を急いだ。夕暮れ時だが、まだ闇が迫るには早い時間で、それを理解しているものの早足になっていく。
 クリニックから処方されている薬は、リュックサックの中に入っていた。睡眠導入剤は二週間に一回、決められた分だけしかもらえない。まっすぐ続く道を走り出す手前の速度で歩く。
 尊は狭いキッチンで料理する気が起こらず、角を曲がったところにあるスーパーへ寄ろうと思った。その時、うしろから聞こえてきた足音に心臓が痛くなった。
 この道は狭く、車は通ることができない。それでも、あきらかに女性の靴が立てる足音ではなく、尊はTシャツの上に羽織っている薄手のパーカーを握った。汗だくになっているのに、夏でも長袖を着ることには理由がある。尊は近づいてくる足音に身動きができなかった。
「渡辺さん!」
 尊に追いついた足音の正体が、朗らかな声で呼んだ。未来がタンクトップに半袖のシャツを着て立っている。彼を見た瞬間、足から力が抜けて、尊はその場にしゃがみ込んだ。
「わ、っと、大丈夫ですか?」
 一緒にしゃがんだ未来は、肩に触れる。過剰に反応して、尊はその場にひっくり返った。震えたり、呼吸を荒げたりすることはない。それをしたために傷つけた相手がいた。ただくちびるを結び、何でもないと首を横に振る。
「顔が真っ青です。日射病?」
 とりあえず日陰に行きましょう、と腕を引かれた。スーパーの手前まで来たところで、小さな公園に入り、木陰にあったベンチへ座った。自動販売機から冷たいお茶を購入した未来が戻ってくる。
「どうぞ」
「ありがとう」
 尊はお茶を一口飲んで、落ち着いた。二十二歳の未来は二十九歳になる自分よりもしっかりしている。彼は隣で炭酸飲料を飲んでいた。
「帰り道だったんですか?」
 メンタルクリニックへ通院しているとは言えず、尊はあいまいに頷く。オーナーにも未来にも病弱なために、自宅で翻訳の仕事をしていると思われている。未来は長い足を組み替えて左足をぶらぶらと揺らしていた。
「……橋口君も帰りだったんですか?」
 敬語はやめて欲しいと言われていたが、自分と相手の間に一定の距離を置くためには必要だった。
「俺は友達んちに寄った帰りです」
 未来は高校卒業後、市内にある芸術大学のデザイン科に籍を置いていると聞いていた。何のデザインか尋ねると、アクセサリーなどの小物だと教えてくれた。喫茶店内では飲食関係だからか、彼が装飾品をつけている姿を一度も見たことがない。だが、今も何一つ身につけていなかった。
 墨のように黒い髪を清潔に整え、奇抜なファッションではなく誰もが手にするようなどこにでもある衣服しか着ない未来は、物の持っている価値観を引き出すことに長けているように思う。尊が彼の手にある白い汚れに視線を落としていると、彼は小さく笑った。
「紙粘土で遊んでたんです」
 未来はすでに大学四年生だ。芸術系ということもあり、就職活動はなかなか厳しいと聞く。未来が内定をもらっているかどうか、そこまで深く尋ねる関係ではないが、オーナーの様子だと未来は将来安泰らしい。彼自身にもあせった様子はなかった。喫茶店のアルバイトにも一年前から変わらず、週に三、四日のペースでしか来ていない。
 尊は英文学科を卒業した後、約三年前に辞めた会社に就職した。急によみがえる思い出に目を細める。つい二年ほど前まではワンルームの部屋ではなく、恋人と家賃を出しあって、有名なタワーマンションに暮らしていた。大学三年の時に知り合った恋人とは四年もの間、付き合っていた。もっとも、最後の一年は恋人同士と言えるような関係ではなかった。自分が彼を傷つけた。
 尊は立ち上がる。女性客をとりこにしている未来が、左頬にえくぼを刻んでこちらを見上げた。
「渡辺さん、夕飯まだでしょ? うちで食べてきません?」
 喫茶店は二十時まで営業している。夕飯まで食べることはめったにないが、せっかくだからと頷いた。スーパーへは寄らずに二人で喫茶店まで七分ほどの道を歩く。その間に陽が落ちて、赤い空は徐々に薄く濃い紫から深い青と黒へと色を変えていく。
 オーナーは喫茶店の二階に暮らしているが、未来は喫茶店からさらに歩いて十分ほどのところに家族と住んでいる。彼は歩きながら、家へ連絡していた。母親へ夕飯はいらないと告げている言葉を聞いて、自分もそろそろ実家へ連絡したほうがいいと思った。尊は大学進学を機に田舎を出てきており、就職してからはほとんど帰省していなかった。二年前は実家へ帰ってしまおうと悩んでいたが、結局、両親にさえ自分のことを伝えきれずにいる。

1 3

main
top


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -