あいのうた1 | ナノ





あいのうた1

 薬を飲んでから横になり、完全に意識が落ちるまでの間、思い出すことがある。愛した人の言葉が責めるようにハウリングして、やがてそれが一つの記憶と重なっていく。渡辺尊(ワタナベタケル)は静かに涙を流した。だが、眠る前はほとんど何も覚えていない。ただ泣きながら寝て、朝、起きたら忘れていた。

 尊の一日は昼頃から始まる。洗顔や着替えを済ませて、外へ出た。遅い朝食兼昼食は近くにある喫茶店で食べている。こだわりがあるわけではないが、ここへ越してきた時にコーヒーを飲んで、それ以来、毎日通っている。
 オーナーのいれるコーヒーは絶品で、尊以外にも通いの客がおり、皆、思い思いの固定席に座っていた。
 尊にも固定席がある。店に入って左手側にあるカウンターの端だ。そこでいつも朝食セットとコーヒーを注文する。本当は朝食セットの時間は終わっているが、オーナーが特別に用意してくれる。
 このあたりに引っ越してきて一年ほど経った頃、オーナーの甥がアルバイトに来た。橋口未来(ハシグチミライ)です、と名乗った時、彼はまだ二十一歳だった。尊は人見知りするような性格ではなかったが、彼と打ち解けるまで少し時間がかかった。
「渡辺さん、いらっしゃい」
 ジーンズとTシャツに黒いエプロンをつけただけの格好で、未来が笑いかけてくる。尊は小さく笑みを返した。今日はオーナーがいないらしい。一人でカウンター内をきびきびと動く彼を見て、尊はひどく落ち着いた。
 未来が店で働くようになってから女性客が増えたと聞いた。彼は確かに長身で愛想もよく、笑うと少し幼く見えて、目を引く。接客商売に長けているのか、彼は最初からそうだった。彼くらいの歳の青年を警戒してしまう尊でさえ、いい子だとすぐに分かった。
「お待たせです」
 タマゴがたっぷり入ったホットサンドとトマトがそえられたサラダ、オレンジジュースが並ぶ。尊は手を合わせてから、サラダに手をつけた。さっぱりしたレモン風味の味つけは尊のお気に入りだ。
 時おり体調を崩して、何も食べられない時でも、ここの朝食セットだけは別だった。食べ終わった後、しばらくすると、コーヒーミルの音が響く。尊のコーヒー豆を未来がひいている音だ。客に合わせて豆を変え、注文があってからひくため、周囲にはコーヒーの深い香りが漂う。
 店内は禁煙で煙草を吸う客はいない。静かに流れるボサノバやジャズを聞きながら飲む食後の一杯はとてもぜいたくな気分にさせた。
 一時間ほどかけて食事をしたら、部屋へ戻って仕事を始める。代金の五百円を伝票の上に置いた。コーヒーソーサーも持ち上げて、カウンターの上にある台へ置こうとする。二席離れた客と話をしていた未来が、こちらに気づいてソーサーごと受け取ろうと手を伸ばした。
「渡辺さん、ありがとうございっ、あ」
 未来の指先が尊の指先に触れた。尊はただそれだけのことにうろたえて、思わず突き放すようにソーサーを持った手を放した。そのせいで、まだちゃんとつかんでいなかった未来の手の間から、カップとソーサーが落下した。乾いた音が響く。
「あ、すみません、すみませんっ」
 尊は立ち上がり、カウンター越しに身を乗り出した。未来の立つ内側へ落ちたカップとソーサーは見事に割れていた。
「弁償します。本当にすみません」
 頭を下げると、未来は優しい口調で、「気にしないでください。ケガはないですか?」と聞いてくる。顔を上げると、彼は冷たいおしぼりを出してきて、尊へ差し出した。カップの中身はなかったため、手は濡れていない。だが、彼の気づかいに感謝して、おしぼりを受け取った。
「明日は伯父さんが朝、入ってるから、来てくださいね」
 尊は何とか頷いて、扉を開けて外へ出た。カランカランと音が鳴る。夏生まれなのに、夏が嫌いになった。熱気をはらんだ風にうつむく。ほんの少し指先が触れただけで、あんなに驚いた自分をおかしいと思ったに違いない。尊は急いで部屋へ帰った。

 冷房を入れた部屋はすぐに寒くなる。ワンルームの部屋は、玄関を入ってすぐにキッチンがあり、その向かいにトイレと風呂場が並んだ。奥には六畳の居間と洗濯機が占領しているバルコニーがあるだけだ。
 尊はパソコンデスクの前に座り、クライアントから受けている英文翻訳をこなす。三年ほど前までは、貿易事務の仕事をしていた。退職した後、懇意にしていた企業担当の紹介で、中小企業からの小さな仕事を受け始めた。今では月に五万から八万ほど稼げるようになっている。残業の多い職場だったため、貯金と合わせて何とか生活しているが、今の生活もすでに二年目に入り、そろそろ外へ働きに出なければならないと考えていた。

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