spleen88 | ナノ





spleen88

 志音は気にも留めず、言葉を続けた。
「正式なごあいさつの前に、お母様に会えてよかったです。ぜひ一言、お礼を申し上げたくて」
「何かしら……?」
 母親は見当がつかないらしく、首を傾げる。明史にも分からない。志音が上半身を曲げて頭を下げた。きっちりと下げた後、顔を上げて、彼は笑みを見せる。
「明史を産んでくださり、ありがとうございました」
 演奏の音はまったく耳に入らなかった。明史は志音の発した言葉だけを聞いた。歓喜や感動といった表現では足りないほど、心を揺さぶられた。視界がにじんだのと、涙があふれたのは同時だった。
「い、いえ、そんな……」
 母親が志音にたじろぐと、彼はさらに口を開く。
「本日は、お父様はどちらに?」
「え、あ、すみません、主人はどうしても仕事の都合がつかなくて」
「そうでしたか。では、今度、改めてごあいさつにうかがいます。ところで、お母様のレシピはすべて拝見しています。明史から聞いているのですが、焼き菓子が特にお得意だとか?」
「え、えぇ」
「実は明史と誕生日が近くて、四月二十五日生まれなんです。だから、来年は一緒に誕生日パーティーをしようと決めています。厚かましいかもしれませんが、もしよろしければ、来年の誕生日にケーキを焼いてもらえませんか?」
 明史があふれる涙を手で拭おうとすると、志音が優しく胸の中に抱いてくれた。彼は小さく笑い、ハンカチを出してくれる。母親が頷く姿が見えた。新しい涙で、また視界がにじんだ。
「明史は少し体調を崩しているんです。あまりお話できませんでしたが、必ずご訪問いたします。それでは」
 涙が止まらず、嗚咽を漏らし始めた明史を、志音が横抱きにする。
「あの」
 母親に呼び止められた。明史は志音の肩へ額を当てて、涙と嗚咽を必死にこらえる。
「冬には明史の兄も帰ってきますので、ぜひその時にでも」
 志音は返事をして、そのまま会場を出ていく。志音のスーツの柄だけを見つめた。志音は誰かに向かって、部屋を取るように言い、しばらくするとエレベーターに入る。その間も明史の喉からは嗚咽が漏れていた。
「明史」
 志音が明史のことをベッドへ寝かせた。すぐにミネラルウォーターのペットボトルを差し出される。明史は一口だけ飲んで、ハンカチを目に当てた。
「しおっ、ん、あり、ありが、と」
 何度言っても足りないくらいだ。明史がずっと欲していたものを、志音が手に入れてくれた。先ほどの母親の態度は、確実に若宮財閥という名に魅かれて出たものだろう。だが、志音がいれば、明史の存在は認められる。
「すてなっ、いで、いらな、って、いらな、い、って、わないで」
 志音に飽きられないために、何でもしようと思った。彼の命令なら、どんなことでもできると思った。明史の足元にひざまずいた志音は、明史の両手を取って、ひざの上に置く。
「明史、きっかけさえあれば、おまえの両親はおまえにも関心を持つようになる。俺はおまえが幸せになるなら、どんな力だって使う」
 自分を見上げてくる志音の瞳は力強い。明史は呼吸を整えながら、ただ彼を見つめ返した。
「おまえは消耗品じゃねぇ。捨てるとか、いらないとか、そんなこと言うな。未来のことなんて誰にも分からない。ただ、うまく言えねぇけど、その未来っていうのは、今の積み重ねだろ? 俺は今、おまえと一緒にいたい。おまえを幸せにしたい」
 明史は頬を流れる涙を拭う。 
「おれは、どした、ら、しおんを、しあわせに、できるの?」
 自分が志音にできることはほとんど何もない気がした。泣き過ぎて、腫れてしまったまぶたが熱い。志音が立ち上がり、優しくまぶたへキスをする。
「おまえが幸せだって、笑ってくれたら、俺は世界一の幸せ者だろうな」
 耳元でささやかれた言葉にこたえるように、明史は志音の左手を自ら握り締めた。強くなった自分が、志音の隣に立って、彼へほほ笑みかける場面を想像した。未来が今の積み重ねなら、と明史は少し顔を左へ向ける。
「志音」
 顔を動かした志音のくちびるに、そっと指先で触れた。目を閉じて、彼のくちびるへキスをする。未来が今の積み重ねなら、彼をもっと好きになるだろう。明史は重ねたキスの先へ必ず進めるはずだと信じて、彼の背中へ腕を回した。



【終】

87 番外編1(志音)

spleen top

main
top


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -