エウロパのうみ35 | ナノ





エウロパのうみ35

 しばらくの間、時和は善を見送り、彼の帰りを待つだけだった。食料品は宅配サービスを利用し、コンシェルジュが受け取るため、一階に降りることはない。母親が休みの日に下へ遊びに行く程度で、あとは部屋の中で過ごした。
 一人で外へ出るのはためらわれた。頭では、明達は自分を強姦した連中とは違うと分かっていても、時和の中では、すべての出来事がひとくくりにされていた。テレビや善の服装で季節が冬から春へと変わったことを知り、以前のように働きながら暮らしたいと思う。だが、決意してエントランスまで降りると、色々なことを想像してしまい、足がすくんだ。
 一歩外へ出れば、人と接する。駅まで歩く最中、自分のことを変な目で見る人間はいないだろうか。またあの時のように、力ずくで連れ込まれたりしないだろうか。そういうことが起こらないと確信が持てても、アルバイト先を探し、そこで働けるようになったとしても、唐突に裏切られて、もう来なくてもいいと突き放されないだろうか。
 風除室の前で、外へ出るかどうか思案していた時和の目に、見覚えのある輪郭が見えた。こちらへ向かって歩いてくるのは、間違いなく明達だ。センサーに近づきすぎたのか、風除室の扉が開いた。時和は慌てて中へ入ろうとしたが、暗証番号を入力するタッチパネルがなかなか反応しない。
「時和」
 明達の声に、時和はタッチパネルから手を離した。声だけで、彼の怒りが伝わってくる。また何かひどいことを言われる。ぎゅっと目をつむる。だが、彼の言葉はただ悲愴に満ちていた。
「俺の人生、壊して満足か? おまえは……」
 目を開けると、見慣れた天井が見えた。隣の温もりに気づき、そちらへ視線をやる。本を読んでいた善が、しおりを挟んで、こちらをのぞき込んだ。
「おはよう」
 善の大きな手が額へ置かれる。
「熱はだいぶ下がったね」
「ねつ?」
 風邪を引いた覚えはなかった。
「朝、倒れたのに、覚えてない?」
 優しく笑う善に、時和は首を横に振る。夢にしてはあまりにも現実的で、時和は上半身を起こし、彼の肩へ寄りかかった。
「明達が、ここに来てた……」
「彼はここを知らないよ」
「でも、ここに来て、俺に、人生を壊して満足かって聞いてた」
 悪い夢を見たんだね、と善が肩へ手を回し、体ごと抱き締めてくれる。
「君は優しいから、何でも一人で抱え込もうとして、そういう意識が夢になってしまったんだと思うよ」
 本当にそうかも、と思わせてくれる言葉だ。時和は善を見つめる。彼の瞳は澄んでいて、きれいで、こんなに完璧な人が自分を愛してくれるなんて、奇跡みたいだと思った。だから、その奇跡すら少し負担に感じて、あんな夢を見たのかもしれない。
 時和は自ら善の頬へキスをする。両頬とくちびる、それから首へもくちびるを這わせた。彼のくすくすと笑う声が快く聞こえる。
 おまえはおまえの人生を壊した張本人と住んで、満足なのか、と夢の中で明達は言っていた。
 善に聞かせたら、きっと気分を害するだろうから、その言葉は胸の内へ留めておくことにする。外へ一歩踏み出せるような、強い自分になることができたなら、夢に出てくる明達にはっきりと言える。善と暮らせて幸せだ、と。
 あの夢にはまだ続きがあったが、思い出そうとした時和のくちびるへ善が噛みついた。
「次は俺の番」
 性感帯をいじられる。少しずつスイッチを入れられていく感覚に、時和は声を漏らした。
「好きだよ」
 間接照明に照らされた善の体が、壁に大きな影をつくる。時和はその影に飲み込まれた。だが、受け取るのはただ優しい愛撫と深い情愛だけだ。俺も好き、とかろうじて言葉にしたら、時和の好きな彼の笑い声が聞こえた。



【終】


34 番外編1(本編後・善視点)

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