twilight 番外編9
ルカはチトセの肩から首にかけて、ゆっくり優しくもんだ。目を閉じたチトセの頬へくちびで触れる。光の下で見ると、チトセの瞳はダークブラウンだが、その焦点がまた合わずに、さまようのをルカは認めた。
「チトセ、右目はいつから見えなくなった?」
腕の中にいたチトセが動揺から体を離す。波打った湯がタイルへ落ちた。
「見えないって、見えてるけど……?」
苦笑してとりつくろうチトセは、右目を擦る。
「ちょっと見えにくい日があるだけで、ちゃんと見えてる。心配ない」
強引なことはしたくなかったものの、ルカは右手でチトセの左目を隠した。
「ルカ」
瞬きを繰り返す右目の前に手を上げる。
「俺の手、見て」
「見てる」
「今、俺が見せてる数字は?」
黙り込んだチトセの手が、左目を隠していたルカの手をつかんだ。ルカはそっと左目から手を離す。
「ずっとじゃない。調子が悪い日は見えないだけだから」
バスタブから出たチトセが、扉へ向かって歩く。中折れタイプの扉へ手を伸ばし、引こうとして、彼は何度か取っ手部分をつかみあぐねた。片目しか見えない状態だと、立体感覚や平衡感覚が分からなくなる。ルカはチトセの後を追った。
「明日、病院へ行こう」
着替えを済ませ、食器を片づけ始めるチトセに、ルカは静かに提案した。何でもないことのように装う彼は、あいまいな笑みを浮かべて、食器棚へ食器を運んでいく。
「チトセ」
言い聞かせるように名前を呼ぶと、乾いた音が響いた。白い陶磁の皿が割れる。チトセの肩が震えた。怒ればいい、とルカは思う。我慢する必要も耐えなければならない理由も、自分達の間にはないはずだ。
どうして自分だけがこんな目にあうのか、と言葉にしてくれることを期待した。だが、チトセは少しも変わらない。その場にしゃがみ、破片を拾い始める。砕け散った欠片が毒物だったとしても、気に留めずに拾うだろう。誰にも告げず、一人傷ついて、負った悲しみさえ、彼は己の内に溜め続ける。
「お気に入りだったのにな……」
苦笑いして、大きな破片に触れようとした彼の手を握った。左目に宿っている光は、怒りではなく、諦めの色だ。ただ、その瞳はルカを映すと、温かい色へと変化した。彼は自然に笑みを浮かべ、「ごめん」と言葉をつむぐ。
その謝罪が皿を割ったことに対してではないと分かっていた。ルカは彼の手を離し、破片を集める。椅子に座った彼は、「自業自得だから」と言った。朝市で買った野菜が包まれていた新聞紙を引っ張りだす。細かな破片をほうきで掃き、新聞紙の上に落とした。
「薬のせいなんだ。BETW、摂取してたから、それで……」
今になって、と考えたが、あり得ない話ではない。BETWはヴェスタライヒでもすぐに違法となった。依存度が高く、臓器や体内の免疫システムを壊すこともある。目に影響がないとは言いきれない。
「レント州の眼科で見てもらおう」
ルカは両手でチトセの顔を包むようにして触れる。親指の腹で目の下をなでてやると、チトセの瞳に涙が見えた。ルカ達の住むアデンタ州よりも、シュヴィーツ列島の中で一番大きく都会的なレント州のほうが、医療も進んでいる。アデンタ州には病院が一つしかないが、レント州なら複数あり、独立した眼科も存在している。
電話を持ったルカは、職場へ連絡し、三日間の有給を取ると告げた。チトセの働くレストランへも一週間休ませると電話する。店主はチトセの体調が芳しくないことを知っていたのか、すぐに承諾してくれた。 |