samsara2 | ナノ





samsara2

 先に視線をそらしたのは男のほうだった。彼は男の手が外套に隠れた剣の柄に触れるのを見た。殺される。彼はそう思ったが、男は柄を握っただけで剣を鞘から抜くことはなかった。男は一度、彼に背を向けると、部屋の外へ出て監視人を呼んだ。
 何を話しているのかは分からない。だが、監視人を呼んだということは、後で彼らから罰を受ける可能性が高いということだ。彼は壁際にうずくまりながら、監視人が入ってくるのを待った。
「出ろ」
 監視人が彼の腕を引っ張る。いやらしい笑みを浮かべた監視人が落ちたぞ、と耳元でささやく。落ちた、というのは売れたという意味だ。彼は驚いて、部屋の外にいた男を見上げた。この男が彼をここへ縛りつけている金を払った。彼が全裸のままでいるのを見かねた監視人が薄汚れた簡素な衣服を寄越す。
「不要だ」
 男は濃紺に近い黒の外套を脱ぎ、彼の体を包んだ。上質の外套は男の温もりとかすかな甘い香りがした。

 男の屋敷は街の西に位置していた。彼がいた寒村はここから北へ向かったところにあったが、彼がそれを知るわけがなかった。彼は幼少の頃、両親をなくし、食べるものにも困っていたが、ある時、行商商人に無理やり連れられてこの街へ来た。
 見目がいいと言われ、数週間後には売春宿へと売られてしまった。彼は自分の名前すら思い出せない。呼ばれることがなかったからだ。ロウソクが燃え尽きても、翌日、新しいものに火がともされるように、永遠にあの簡易ベッドの上にいるのだと思っていた。
 屋敷の周囲には見張り役が立ち、松明が煌々と燃えていた。彼は裕福な人種とは無関係に生きてきたため、自分が今どこから屋敷内へ入り、どこへ向かっているのかよく分からない。
 前を歩く男は何も言わず、振り返らず、ただ己の歩調で行く。やがて男の足が止まった。何の装飾もない扉を開く。男は中へ入ると、彼を呼んだ。
「来い」
 部屋には衣装箪笥とベッドがあるだけだった。彼はおそるおそる中へと入る。ベッドのそばに置かれているテーブルの上に呼び鈴がある。男がそれを鳴らすと、彼と同い年くらいの召使が扉のそばに立った。
「お呼びですか?」
「これを何とかしろ」
 これ、というのは彼のことだった。召使の青年は嫌そうな顔もせず、湯浴みに行きましょうと声をかけてくる。彼は男を見た。
「ここがおまえの部屋だ」
 男はこちらを見ることなくそう言って、部屋を出ていく。外套を返す暇もなかった。
「こちらです……あの、お名前をうかがえますか?」
 召使の青年が彼を見た。ブラウンの瞳に同じ色の髪の召使は、深夜の訪問者にも笑みを恵んでくれる。彼はかすかに首を振った。
「お名前が分からないのですか? 私はリズと申します」
 リズは困惑の表情を一瞬だけ見せたが、すぐに気を取り直し、浴場へ案内してくれた。浴場は屋敷の本館にあり、東側の一階に位置している。この館の主人の浴場はもちろん別にあり、彼が連れてこられたのは客人のための浴場だった。寝台のような黒い石の台に横になるよう言われ、彼は外套をリズへあずけた。肌をさらせば、彼がどんな人間か分かる。だが、リズはやはり表情を変えることなく、湯気の立っている湯と冷水を桶に入れて、運んできた。
「どうぞうつ伏せてください。足の裏から洗いましょう」
 柔らかな布を湯に浸し、軽くしぼった後、リズが彼の体をきれいにしてくれる。人に何かしてもらうのは初めてだった。足の指の間や、耳のうしろまで拭いてくれる。その後、アナルを洗浄され、最後に髪を洗ってもらった。
 リズは小瓶から香料を手のひらへ垂らすと、彼の体へそれを塗り込むようにしてつける。
「いい、におい……」
「ハーブとラベンダーのエキスです」
 温まった体と落ち着く香りに、彼のまぶたはしだいに重くなる。昔、ずっと昔、こんなことがあった気がした。白い細かなレースのカーテンの向こうに、花弁の浮いた浴場があった。あれはどこだろう。
 リズが見下ろしている。
「今夜はもう遅いので、お休みになるようにと」
 肌触りのいい毛布がかけられる。誰かに何かをしてもらうことが当たり前だった。彼は不意にそう思った。あれはいつだっただろう。

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