samsara1 | ナノ





samsara1

 体が冷えきっていた。暗闇の中で何を待っているのか分からない。いつからここにいるのかも分からない。石畳の床に靴音が響いた。少し高いこの音は軍人の靴だ。誰が来るんだろう。
 誰が来ても同じだ。
 足音が近づき、止まる。
「思い出したか?」
 それが自分に向けられた質問だと理解するのに時間を要した。男が何を言っているのか分からない。何を思い出したらいいんだろう。冷えきった体に男の温かい手が触れた。初めてもらった温かさだった。
 かすれた声が出る。温かいと言ったつもりだった。だが、言葉なんてずっと話していなくて、きちんと発音できたか分からない。首をつかんだ男が、少し動揺した気がした。
 だが、それは気のせいだ。
「これが六度目だ。次で最後……」
 その声は少し震えているようだった。首に刃を当てられる。逆流する血が喉からあふれた。男の手が自分の血で汚れていく。男の顔は見えない。だが、頬に光る悲しい色の涙なら見えた。
 六度目。
 次で最後。
 覚えていることはできない。
 意識が終わる。
 自分の名前さえ知らない。
 意識だけが終わる。



 彼は桶に入った冷たい水の中に薄汚れた布を浸して、簡易ベッドに座ったまま、太股の間を擦った。立ち上がるとアナルから精液が流れてしまうから、わざと座っていた。アナルの中が濡れていれば、それだけ次の挿入が楽になる。合図もなしに、次の客が入ってきた。ここにいるのが場違いなくらい上等な服を着ていた。彼はいちいち客の顔を見ない。
 男の履いている革靴はおそらく最高級のものだと思われた。手触りのよさそうなダークブラウンの表面は美しくなめされていた。その革靴の値段は彼の命以上に高いだろう。
 彼は小さく息を吐いた。簡易ベッドの上に乗り、男にアナルを向ける。燭台の上のロウソクはもう半分まで融けている。彼は意識をそのロウソクへやった。時間の流れは残酷で、ここにいると一時間経つのがとても長く感じる。永遠とも思える時間、彼は客に股を開いている気がしていた。だいたいあのロウソクが融けきる頃、この売春宿を仕切っている男がやって来る。もう半分だ、と彼は思った。
 客の男達はほとんどがすぐに突っ込んでくる。だが、時おり、この男のようになかなか事に及ばない者もいた。彼はそういう時、どうすればいいのか知っている。アナルを向けていた体を返して、彼は男の前にひざまずいた。服が上等過ぎて、どこから解けばいいのかよく分からないが、彼は男に口淫する旨を伝えるために、そっと男の股間を手で擦った。
 その瞬間、男は彼の細い手をぐっと持ち上げて、彼をそのまま壁際へ叩きつけた。ここへ連れてこられた時は抵抗して、暴行を加えられることが多かったが、最近は従順な態度を見せているため、久しぶりの暴力だった。息が詰まる感覚とともに視界がにじむ。きっと高い服に汚い手で触れたからだと思った。
 許してもらうために言葉を紡ぐ前に、男が鋭い瞳で彼を睨んだ。深いグレイッシュブルーの彼の双眸に、男の闇色の瞳が映る。彼は恵まれた環境では育っていない。同情も憐れみも怒りの色も幼少から感じとってきた。だが、男の瞳に映る色はこれまで受けたことのない憎悪だった。
 男は左手で彼の両手を壁へ押さえつけ、彼の左胸の上の痣へ触れた。それは生まれた時からある不思議な形の痣だった。
「……おまえはいつも男に媚びを売って生きている」
 彼は男から言われた言葉の意味が分からず、ただ男を見つめた。ここへ来る客の顔をこんなにじっくりと見たのは初めてだ。

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