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on your mark番外編45

 水面で揺れる光を裂き、史人は腕を伸ばして進んだ。
「あや」
 名前を呼ばれたが、史人はクイックターンでもう一往復を繰り返す。敦士の声を聞きながら、こんなことなら、真ん中のレーンに行けばよかったと考えた。だが、それも一瞬で、史人は水をかき進み、ただ泳ぐという行為を続ける。
「史人、そろそろ上がれ」
 最近は多忙すぎて、泳ぎに来る時間はなかったが、ここ数週間は毎日のようにここへ来ている。その分、家にいる時間が減り、敦士やプーケットから戻った遼と話す機会もない。二人とも、史人の現状は直広の死が原因だと考えているようだった。
 史人は腕を伸ばし、前へと進む。今年で六十四歳になるはずだった直広は、急性心不全で亡くなった。寝苦しい、と漏らしていたが、検査をすすめた遼に、暑いからだろうと返し、病院へは行かなかった。
 遼が、その日のうちに病院へ連れて行くべきだったとひどく悔いていることは知っている。喘息症状が出てから、病院へ救急搬送されたが、間に合わなかった。史人がいまだに遼と会話しないのは、そのせいだと思われている。
 だが、史人は医療現場で働く者として、おそらく敦士や遼よりは、冷静に直広の死を受け入れていた。連絡を受けて、プーケットの私立病院まで飛び、すべての手続きを済ませたのは史人だ。葬儀後、一週間で職場へ戻った。
「史人!」
 ターンに備えて前回りしようとした瞬間、伸びてきた手が、史人の右腕をつかんだ。水面から顔を出すと、敦士が業を煮やした顔つきで、こちらを睨んでいる。
「いい加減にしろ。もう上がれ」
 ぐいっと腕を引かれ、史人は肩で息をしながら、プールサイドへ上がった。
「痛い」
 腕を放すように言っても、敦士は構うことなく歩き続ける。
「着替えて来い」
 ロッカールーム前でようやく解放されたが、彼は監視するつもりらしく、仁王立ちで扉の前に立っている。史人はうんざりした。個室になっているシャワールームに入り、温水を頭から浴びる。
 直広を失った悲しみから逃れるために、無理をしていると思われていた。遼に理不尽な怒りをぶつけていると、敦士からはっきり言葉にされた。髪を乾かすため、鏡と向き合う。あまり似てないと思っていたが、自分は母親似だと結論づけていた。プーケットで見たカルテの文字が脳裏をよぎる。
 担当した医師へ、血液型が違うと伝えた。彼は食い下がる史人へ検査結果を見せてくれた。日本へ戻ってから、直広が過去に受けた医療記録をすべて確認した。鏡の中にいる自分が笑う。おまえはだまされていた、とくちびるが動く。
 手からドライヤーが滑り落ちた。
「史人?」
 ロッカールームの中へ入ってきた敦士が、名前を呼ぶ。照明を見つめながら、史人は直広がついた嘘について考えた。どうして、という疑問だけが浮かぶ。目の前が真っ暗になり、史人は闇の中へ手を伸ばした。

 医者の不養生だと看護師に笑われながら、点滴を終えた史人は、敦士の運転する車で家へ戻った。中心地から車で一時間ほどの距離にある家は、住宅街からも少し外れている。不便だが、静かで、毎年、帰省してくれた直広達も気に入っていた。
「大丈夫か?」
 敦士がウッドデッキに置いたソファへ寝転んでいる史人へ、麦茶を差し出した。右側に駐車場があり、左側は庭になっている。庭師に頼んで、季節ごとに手入れしてもらっているが、最近、新しい花壇ができていた。
「遼パパ、出かけてる?」
「あぁ」
 帰国当初は憔悴しているように見えた遼だが、花壇をつくることで悲しみのやり場を見つけたらしい。ばらばらと顔を出した双葉は、太陽に照らされ輝いていた。
 足元のほうへ座り、ふくらはぎをマッサージし始めた敦士に、史人は目を閉じながら聞いた。
「直パパの、血液型、知ってる?」
「A型だろ? 何でそんなこと聞くんだ? まさか、輸血ミスでもしてたのか?」
 目を開けた史人は、敦士の真剣な表情に思わず笑いそうになった。
「違うよ」
 寝転んでいた史人は、上半身を起こし、座り直す。
「あの病院はプーケットの中でもかなり優秀な病院だった。たとえ」
 テーブルの上に置いてあった麦茶を、一口だけ飲み、史人は続けた。
「たとえ、ここで同じ状況になったとしても、直パパが助かる確率は一緒だったと思う」
 定期健診ではまったく異常がなかった。あの時、こうしていれば、という後悔は起こってしまってから気づくことであり、日本で一緒に暮らしていれば、何か違ったかもしれない、という思いは、ただの願望であって、結果が変わることはもうないのだ。
「じゃあ、遼パパのこと、許してやれよ」
 敦士は小さな溜息の後、そう言って手を握ってきた。
「……別に、怒ってない」
「口、きいてないだろ」
「忙しいだけ」

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