vanish58 | ナノ





vanish58

 要司がしたようにバケツの中にあるネットの上でローラーを動かして、ローラーについたペンキの量を調整する。
「慎也、好きに塗っていいぞ」
 そう言われても、慎也はペンキ塗りなどしたことがないから、どこから始めていいのか、どんなふうに塗っていいのか分からなかった。おそるおそるローラーを持ち上げて壁の真ん中あたりにつける。
「あ……」
 ぽたぽたとペンキが新聞紙の上に落ちた。
「上下に動かせ」
 言われた通りに動かすと、白い壁はモスグリーンへと変わる。
「アルファベットのWを書くみたいにやってみろ。力はもっと抜いて」
 鮮やかなモスグリーンが広がっていく。色がかすれるまで慎也は夢中になってローラーを動かした。要司はしゃがみ込んで、壁の縁とコンセント周りの細かいところを刷毛で丁寧に塗っていた。
 ローラーをバケツに入れてペンキをつけ、ネットの上でしごいては壁に色をつける。思っていたよりも重労働だが、慎也は楽しくて仕方なかった。要司も鼻歌まじりにてきぱきと壁の下部を仕上げると、今度は三段のステップがついた折りたたみ式脚立を持ってきて、上部を塗り始める。
 無心に作業を繰り返しているのに、慎也の視界はだんだんとにじんだ。ずっとやりたかったことだった。叶うはずがないと思っていた。だが、慎也は今、要司と二人で住んで、この部屋の壁をモスグリーンに塗っている。ただそれだけのことで、慎也はようやく葵と自分を認めてくれなかったあの家から解放された気がした。
「慎也、どうしたんだ?」
 ローラーを動かしながら泣いている慎也に、要司が焦って脚立から下りてくる。
「要司さんが、言った通りだった」
 慎也は腕を伸ばして、届く範囲をモスグリーンへ変えていく。
「誰も認めてくれないって、思ってた。俺なんて、何の価値もないって。でも、違った。要司さんは俺のことちゃんと見てくれる。俺の気持ちを軽く扱ったりしないし、俺のこと、軽蔑したりしない。俺にも、居場所があったんだって、思って」
「当たり前だろ」
 要司が勢いよく抱きついてくる。力強く抱き締められて、慎也は大声で泣いた。彼の前で泣くのはこれを最後にしようと思った。泣き終わったら、また笑って、ずっと笑って、幸せになろうと決めた。
 泣き顔のまま、要司を見上げると、彼は笑みをこぼした。
「塗料、ついてるぞ」
 要司の左手が頬をなでた。
「目、閉じて」
 ペンキがついているのだと思い、素直に目を閉じると、くちびるに温かいものが触れた。慎也が驚いて目を開くと、要司のまつげが見えた。慌てて目を閉じる。軽く触れるだけのキスは長く感じた。
「……要司さん」
 慎也はローラーを持っていない左手で、自分のくちびるに触れた。心構えもしない間にされたキスの余韻に浸っていると、要司が何事もなかったかのように、刷毛をバケツに入れた。ネットの上で素早く余分なペンキを落として、作業を再開する。
「少しずつやっていこうって言っただろ? 俺さ……毎日、少しずつ、おまえのこと好きになってる。だから……仕事、とか見つかっても、とりあえず、あー、俺、うまく言えねぇ。とにかくさ、ずっとここにいたらいいだろ、な?」
 要司は慎也に背中を向けていた。
 彼は背中を向けて、白い壁をモスグリーンへ変えていく。
 彼はいつも前に立って、自分が行くべき道を照らしてくれる。
「はい」
 慎也が返事をすると、要司の手が止まる。彼は金髪を揺らしながら振り返った。嬉しそうに笑っている。まだ自分が抱えている闇もこれから先のことも、不安はつきない。だが、可能な限り、この部屋みたいに幸せな色で染めたい。慎也はそう願い、ほほ笑みを返した。



【終】

57 そのあと1(本編から2年後くらい/要司視点)

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