カゲロウ、稲妻、水の月


「──見えているのに掴めないもの」
「何だ?」
「見えているのに掴めないものが、この世界には多く在る」
 まるで途方もなく大きな一枚岩を、そのまま切り崩したかのような巨大な階段、それが人里のかたちをとっていたいにしえの集落その五段目──この階段のいちばん高い場所にて、イリス・アウディオは白い陽光を受けながら眼下の家々ではなくそれよりも遠い彼方を見つめて呟いた。
 その瞳は、視界の遥か遠くで緑に揺れている世界樹よりも遠くを見ている。
 白光が眩しかったのだろう額に手を当てていたハイク・ルドラが、イリスの少し後ろで思い付いたように彼女へと声を投げかけた。
「……逃げ水とかな」
「そう、雲とかもね。……ハイク、水は喉が渇く前に飲むべき」
「ごもっとも。に、しても……今日はやたらと日差しが熱いな」
「ええ。おかげで今日の夕焼けは眩しそう」
 先ほど集落の家の一つに足を踏み入れたイリスは、その壁に未だ形ばかりは保って掛かっていた乾花に、つい手を伸ばしてしまった。
 触れた瞬間にその花がどうなるかは頭が知っていた、しかし手を伸ばしてしまったのだ。
 誰かが触れればそのものの時間は動く。良くも悪くも。
 乾花は触れた場所からたちまち崩れて灰塵となり床の上に降り積もった。
「たとえ触れることができても掴めはしないものが、案外この世界には多い」
「俺たちの両手はそこまで大きくないからな、そういうこともあるんだろ」
「掴めないとしても見て、探して、手を伸ばしてしまうのはトレジャーハンターの性ね、きっと」
「いやはやそれは困ったものだな、お客人?」
 イリスは少しだけ笑うと傾きはじめた太陽に一度だけ視線を送り、それから背後のハイクを振り返って微かにその鮮やかな紅を細めた。
 手のひらに一枚だけ残った乾花の、自らの時と共に色を失ったひとひらを吹いてきた風に送っては、彼の鋼玉によく似た瞳の輝きを見る。
 それから問いにも満たないただの言葉を暮れた花びらと共に風に乗せる自身の背中にイリスは、眩しい太陽の熱を感じていた。
「──ハイク、あなたには何が見える?」



20170108
…special thanks
ハイク・ルドラ @hiroooose

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