オーロラ


 少女は暮れはじめた空の、その柔らかな色を見つめている。
 未だ少女と呼ぶべき年頃であるイリス・アウディオは、自身が主な拠点としている商業都市〈ルナール〉に点在する、街を一望できる高台の一つで、緩やかに吹き抜けていく風をその細い身体に受けていた。
 ──この世界には、高い建物が多い。
 そして、商いをするために所狭しと人が行き交うこの街には、他よりも更に、高さのある建物やそういった場所が多かった。
 それを何故、と問われても少女には分からない。道行く人にその問いを投げかけてみれば、おそらく誰もが、そりゃあ此処には人が多いからだ、と答えるだろう。
 事実、その通りであった。人が他よりも多いこの都市には、建物が他よりも細く高く、そして多く建っている。なんてことはなく、面白みなど欠片もない、それだけの理由だった。
 ただ、少女は高い場所で受ける風が好きだった。そこから見える、広い世界が好きだった。
 やけに長い階段を、ひたすら上った先に在る高台から見える景色は、この街に建つほとんどの建物よりも更に高い。
 これは普通なら、ちょっとばかり足がすくみそうな高さである。それでも少女は臆することなく、高台に備えられている、自身の胸ほどまでの高さがある木柵に身体を寄せては、そこからじっと街並みを眺めていた。
 イリスは、建物と建物の間から立ち上る激しい風や、その隙間からふと覗く空のことも、決して嫌いではない。しかし何物にも遮られることのない風と空は、トレジャーハンターの少女がそう呼ぶに相応しい宝ものの一つだった。
 どうして拓けた風が、空が、そういった景色が好きなのか。その理由もまた、少女には分からない。
 ただ、此処から空を、街を眺めていると、この世界にはまだまだ自分の知らない、見たこともない景色や色──無限にも近い宝ものが在るのだろうと純粋に、そして強く感じられた。
 実際、この街だけでも、昼間と夕暮れ、そして夜でその見た目が違う。今は、桃色に近い橙色が、地面も建物も寒色が多く使われているこの商業都市を、その色で暖かく照らしていた。
 そしてイリスは、この自由に吹き抜けていく風を、何ものにもとらわれないこの景色を、その身で感じていると時折、ふと懐かしくなるのだった。それは涙が滲みそうになるほどに、ひどく。
 けれどもこれはおかしな話だ、自分には高い場所が懐かしくなるような記憶はない。むしろ、孤児院を出てトレジャーハンターになってから初めて、こういった高台の空気をその身に受けたのだ。
 ただ、それでもこの風が、この景色が、ひどく恋しくなるときがあった。
 此処から見る世界は美しい。
 そして、世界は広かった。
 橙色の太陽が、沈むにつれてその赤みを増してきている。その赤よりも更に鮮やかな紅色の瞳をした少女は、地平線の果てで燃える太陽のその眩しさにそっと目を細めた。
 ひゅうっとイリスの橙の髪を吹き抜けていく風が、熱を宿す彼女の身体をしかし冷たく撫でていく。少女は軽く身震いをした。もうすぐ日が暮れる。暑いからといって年中薄着をしているのが悪いのだろうが、それにしても今夜は、遥か先の太陽の炎とは相反して冷え込みそうな予感がした。
 高い処に吹く風は冷たく、そして時に鋭い。
 今日の風は、段々とそれに近くなりつつあった。その風を受けながら、孤独なのかもしれないな、と少女は心の底でなんとなく想う。此処に在る風は、孤独なのかもしれないと。
 だから、自分は覚えるのかもしれない。この風と空、高い場所から見える景色に、懐かしさと恋しさ──そして、寂しさを。その空気の色に、共鳴するかのように。
 冷たく吹く風に軽く指先をかざしながら、イリスはそろそろ戻ろうと高台の木柵にくるりと背を向ける。そして、少女は驚きに声を洩らした。
「……えっ?」
 ぽかんとした表情を浮かべるイリスの目の前には、何やらとても見覚えのある、白い杖を突いた老婆が紙袋を片手に立っていたのだ。
 両目を瞑っている老婆は、イリスが振り返ったのと同時に、にっこりとした朗らかな笑みをその顔に浮かべる。そんな老婆の様子に、少女はちょっとびっくりしたようにその瞳をぱちくりとした。
「オ──オレハ? なんでこんな処に……あの階段、上ったの? 流石に危ないんじゃ……」
「いや、そうでもないよ。上ろうと思えば案外上れるものさね。手すりも在るし、それにけっこう上り慣れてるのさ」
「……そうなの? まあでも……オレハに怪我がないなら、よかった」
「あはは、ありがとうね」
 オレハと呼ばれた老婆はそう言って目元の皺を深くすると、こつこつと軽快な調子を杖で刻みながら、高台の柵の処まで歩いていった。それから、歩き出そうとして立ち止まったままのイリスの方を振り返る。
「今なら空が見えるかもと思って、なんとなくね。どうやら勘が当たったようだよ、私もまだまだ捨てたもんじゃあないかもねえ」
「空……?」
 イリスは一度その背を向けた柵へともう一度向き直ると、暮れに色付く空へと視線をやる。その隣で、オレハがふっと表情を緩めた。
「……私は、おまえが来てくれてほんとうに嬉しいんだよ、イリス」
「え?」
「私の目にはね、もうずっと長いこと色が映らなかった。現に今も映っていないし、これからも映ることはない。……けれどね、イリス。おまえが私の処に来て、おまえがおまえの言葉を紡ぐとき──私は確かに、自分の目の前に広がる色たちのことを想い出すことができるんだ」
 イリスは無数の色を映すその赤い両目を、闇を患うオレハの閉じられた両の瞳へと向ける。
 オレハはイリスの方へと顔を向けたまま、暮れる太陽の熱よりもずっと優しい温度で微笑んだ。
「──おまえの言葉は、私にとっての虹なんだよ、イリス」
 その言葉に、イリスの瞳が微かに見開かれ、彼女は思わず声を失った。
 そうしてそのしばらくの沈黙の間に、少女は喉から鼻の辺りまでせり上がってきたものをなんとかもう一度飲み下しては、それからオレハの方を見て柔らかく微笑んだ。
 そののちに少女は夕暮れの空の色に染められていく街並みを見やり、その色合いに目を細めては、鮮やかな赤い瞳を光にちかりと煌めかせる。
「──虹の色は、空に似ている」
「空……かい?」
「うん。空というものは、一日でたくさんの色に変わっていくわ。だから、空はそれ一つがまるで大きな虹のよう」
「大きな虹、か……それは考えたことがなかったねえ……」
「様々な色をもつ蝶や花、街や、人──いろんな処に、何処にだって色は在る。オレハの瞳の中にも色は在る、いつでも。だから、えっと……だいじょうぶよ、オレハ」
 訥々と言葉を紡ぎながら、イリスは橙色に照らされた高台から、その未だ小さな手のひらを、世界を染め上げる太陽の光を掬い上げるようにしてそっと伸ばした。
「もっと高い処から見た世界も、きっと、一つの虹のように見えるのかも。鳥のような翼が有ったら、きっと」
 太陽へと伸ばした手を、今度は空を泳ぐようにして傾けさせながら、イリスは指の隙間から零れる陽光のまばゆさに少しばかり目を細める。
 手のひらがつくり出す影の中で、彼女の紅色が燃える夕陽にも負けない鮮やかさで輝いていた。
「空を飛べる翼が欲しいかい、イリス」
 オレハが高台の柵に背を預けて、顔だけで太陽が燃えている方向を振り返った。
「……ううん。上手く飛べる自信、ないもの」
「ああ、言えてるかもね。おまえは向こう見ずなところがあるから、太陽に近付きすぎて大火傷なんてこともありそうだよ」
 そう言って可笑しそうに笑い声を上げるオレハに、何も反論することができないイリスである。それが少しばかり悔しくて、だというのにどうにも可笑しくて、イリスもちょっとだけ笑い声を上げた。
「じゃあ私、鳥と同じくらい速く走るわ。それで、鳥と同じくらい高い処まで上る。そうしたら、そこから訊いてみるわ、鳥に」
「うん、なんて訊くんだい?」
「何が見える? って!」
 言って、イリスは太陽が輝く方へと向かって大きく両手を広げた。いつもはあまり表に出てこない、彼女の中に隠れた子どもらしい無邪気さが、今少しばかり顔を覗かせた。
 そして、まるでそれが見えているかのように、オレハはふっとイリスに向かって微笑んだ。
「イリスは、そこから何が見えると思う?」
「いろいろ想像はするわ。でも、だけど、見てみないことには分からない。だから──それを確かめに往くのよ、オレハ。だって私、トレジャーハンターだもの!」
 イリスは広げていた両手で高台の柵を掴むと、それからぐっと少しばかり前のめりになって、染まりゆく街並みを見やった。
「確かめたいことが在るなら、この目で見に往く。欲しいものが在るなら、この手で掴みに行く。この足で何処までも、この身全部で宝を探す。それこそ、トレジャーハンターの本分よ」
 言いながら、イリスの鮮紅がちかりと七色の光に煌めいた。少女はまだ見ぬ世界に心を躍らせ、微かにその口角を上げる。
「ね──そうでしょう、オレハ?」
 そう振り返って笑うイリスに、オレハはちょっとだけ呆れたように肩をすくめると、しかしおまえらしいねと言って優しく微笑んだ。
 それから少しばかり意地悪げな笑みをその口元に浮かべ、閉じられた瞳でオレハはイリスの、炎が秘められた赤い瞳を見る。
「なら……此処にも宝は在るかい、ハンター?」
「もちろんよ。たとえば──オレハ、空を見て!」
「うん?」
 イリスは片腕を前に伸ばして、黄昏の色に染まる果てない空を指差した。
 オレハは少女の手のひらが呼び寄せた熱が向かう方向へ──イリスが指差す空へと、その視線を向ける。
「今日の空は淡い色をしていたの。銀薄荷が咲かせる薄い水色の花のように淡い青が、沈んでいく太陽に近付くにつれて橙から桃色、そして赤く染まっていく」
 イリスの唇が、空へと伸ばされた指先が、言葉の糸を編んでいく。
「オレハ、雲もいろんな色をしてるわ。太陽の光に近い雲は燃えるように真っ赤だったり、輝くような蜂蜜色だったり──遠い雲はまるで誰かが葡萄酒を引っくり返したみたいな紫色。そう──滑らかな、絹のような空よ。陽光の色に照らされて、空は無限に染まってる……」
 空に散らばる様々な色をその瞳に映して、どこか歌うようにそう言ったイリスは、しかし少しばかり照れ臭そうにオレハの方を見た。それから彼女は痒くもないだろう頬をちょっとだけ掻く。
「……今日の空、ちょっと美味しそうだわ、オレハ」
「ああ……ふふ、そういえば──そろそろ、お腹が空いてきたねえ。イリス、帰ろうか」
「うん。あ、そうだ……オレハ、階段を降りるとき、手を繋ぎたい。きっと、そっちの方が危なくないから」
「じゃ、お言葉に甘えようかねえ」
 そう言って、夕陽を背後にオレハが軽やかに杖を突いて歩き出す。
 オレハに続いて柵に背を向け、戻りの一歩を踏み出したイリスはしかしもう一度後ろを振り返り、刻々と移り変わっていくその空を、自身の鮮やかな紅色へと映した。
 それに気付いたオレハが立ち止まり、空を見ているイリスの方へくるりと振り返って小さく笑った。
「……空は、大きな一つの虹──だね」
「オレハ……」
「どんなにこの世界が暮れても、空は美しいままなんだね」
「──空も、よ。他のすべてと同じように」
「ああ……すべて、心次第なんだね、イリス」
 イリスがオレハの方を振り向いた。斜陽が二人の頬を橙色に染め上げている。
「おまえが美味しそうだと言った今日の夕暮れの空を、腐った色だと言う者もいるだろう。そしてそれはたぶん、どちらが正解でどちらが間違いということじゃあない。どちらも正しいし、どちらも間違ってはいない。それと同じようにどちらも正しくはないんだろう」
 そう言いながら、オレハは木柵から一歩目の処で立ち止まっているイリスの前まで進み出た。
「それ自体が綺麗、醜いではなくて、そういう見方が在るだけなんだろうね。一つを綺麗だと捉える見方が在る。一つを醜いと捉える見方が在る。それだけなんだろうさ。すべて、私たちの心次第だ。おまえだって、すべてがすべて綺麗なものとして、その目に入ってくるわけではないだろう?」
 そう問うオレハに、イリスは少しばかり小首を傾げた後、こくりと小さく頷いた。
 少女のそんな戸惑った空気を感じ取ったのか、オレハは可笑しそうに笑い声を上げると、ごめんごめんと言いながら自身の顔の前で片手を揺らす。
「いや、何……それでも私は、おまえの目が好きだよって話さね」
「目? 私の目は、よくいろんな人に怖がられちゃうのだけれど」
「そうだろうね。たぶんそれは、おまえの目の色のせいばかりじゃあないよ。でも、だから──いい目だよ、イリス」
「……ありがとう、オレハ。もしかしたら、私のお父さんやお母さんも目がよかったのかもしれない」
「ああ、かもしれないねえ。だったら尚更、目も含めてその身体はたいせつにしないと」
 オレハは微笑み、紙袋から何かを取り出しては、それでイリスの首元をふわりと包み込んだ。そうしたのち、オレハはどこか満足げに片手を腰に当てて、それからこんこんと楽しげに白の杖で地面を叩く。
「さて、これはどんな色だい? 生憎私は目が見えないからね。だから、ちょっとやそっとじゃ破れなくて、ついでにいちばん肌触りのいいものを選んできたつもりだよ」
「これは……」
「首巻だよ。おまえ、いつも首元が寒そうだからね」
 イリスが自身の首に巻かれた薄布へと視線を落とす。
 触れてみると、滑らかな触り心地としなやかな布の感触が、自分の手のひらに伝わってきた。首巻は羽のように軽く、しかしこの軽やかな薄布に包まれていると、何故だか心までが落ち着いていくようだ。色は白だろうか。
 そう、白。
 とても美しい白だ。
 イリスの唇がそう言葉を紡ごうとした瞬間、色付く陽光が少女の首巻を照らし出し、その色が影となっているイリスの目線の先まで流れ落ちてくる。
 それを視界に認めた瞬間ひゅっとイリスの喉が鳴り、そうしてすぐにその紅の瞳が、きらきらと遊色するかのように輝いた。
 緩やかに、喉から目頭まで上ってくるものがある。
 それをなんとか押し止めようと空を仰ぎ、それから発せられた少女の言葉は、しかしほんの少しばかり、水面のように揺らいでいたかもしれない。
「夢のように、煌めく七色……」
 ゆっくりと言葉を紡ぎながら、イリスは愛おしげに微笑む。
「──虹の色よ、オレハ」
 そう言う少女の首元では、小さな虹が、熱を宿して揺れていた。



20170729

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