ソリス・オルトス


 夜が目の前を横切っていく。
 或る日の夕暮れ、自身の髪の毛を少し大きめの鳥打帽子に押し込み、田舎風の上掛けと綿麻の洋袴を身に着けた、いわゆるそこらでよく見かける少年≠ヘ、王都の大通りを巡回兵の騎馬隊一行が、街の埃を黄金の光に巻き上がらせては王城へと向かって、弛みなく進んでいくさまを見つめていた。
 國を巡回する兵士たちが、このようにして他の巡回兵と入れ替わるようにして王都に舞い戻ってくるのはいわば日常茶飯事であり、群衆にとっては特に面白みもない出来事である。騎馬隊が進むための道を開けはしても、彼らが見えなくなるまで道の端から見送る者は少なかった。
 彼らを熱心に見つめるのは、騎馬隊、或いは巡回兵の騎馬隊を率いている先頭の騎士に憧れる者ばかりであろう。
 たとえば今、じっと騎馬隊の先頭を見つめるこの少年などはその筆頭に相応しい身なりをしていた。
 ──ただ、少年は騎士に憧れているために騎馬隊のことを見つめていたわけではなかった。
 騎馬隊の先頭、その馬の上には騎士と馬首の間に収まるかたちで一人の少年が騎乗している。
 闇を呑み込むような黒い癖毛に浅黒い肌、宵の口の空の如く、いやそれよりも深い青を湛えたその瞳は、今にも黒い睫毛が伏せられそうになっていた。
 道端の少年は、夜が目の前を横切っていくのをひたすらに見つめている。
 夜は──夜を纏う少年は、前を向いていた。
 口元をきつく引き結び、頤を高く掲げて。
 少年は、青の瞳に強い力を宿して前を向いている。
 しかし、馬に乗せられて去っていく少年の両の手のひらへと視線を向けると、確かにその両手は小刻みに震えていた。
 道に立つ少年は帽子のつばを微かに持ち上げて、城の方へと連れられていく彼の姿を見つめる。
 彼は未だ、顔を上げては前を向いていた。
 ただ、やはり……彼のあの両手は今も震えているのだろう。
 何故震えている?
 それは恐怖か、不安か、怒りか。
 少年は帽子を被り直して、その翠がかった銀の瞳を閉じた。
 巡回兵が子どもを保護して戻ってきた。その理由くらい、この小さな少年にもおおよそ察しがつくものだ。
 家族を失ったのだろう、彼は。
 たいせつなものを失ったのだろう、彼は。
 踵を返そうとした少年に、乾いてはいるが目の覚めるほどに冷たい風が吹き付けてきた。
 その風を浴びた瞬間、彼はもう一度去っていく騎馬隊の方へと視線を向け、その小さな唇から熱い息を吐く。
 声が聴こえたような気がしたのだ。
 黒い髪と青い瞳をもつ、夜の少年の声が。
 彼の黒と青、背筋を正して頤を上げるその姿、そして小さく震えるあの手のひらがどうにも心に焼き付いて離れないまま、今度こそ少年は踵を返して走り出した。
 聴こえてきた夜の声を、口の中ばかりで反芻しながら。
 おれは、囚人じゃない。
 おれは、黄昏の囚人なんかじゃない……


*



 それから三日後の早朝、この間と同じように鳥打帽子を被り、田舎風の上掛けと綿麻の洋袴を身に着けたそこらでよく見かける少年≠ヘ本棚に囲まれた小部屋を窓から抜け出すと、そこから建物を囲む庭園へと出て、窓から自分の姿が見えないように壁や柱を伝い伝い、人の目を盗んでいつものように街へと向かうつもりだった。
 しかし、自分二人分もあるだろう大きな窓の横に辿り着いたとき、その窓の外から建物の様子を窺った少年は、思わずあっと声を上げそうになる。
 夜!
 夜だ!
 ──夜の少年!
 彼は、覗き込んでいる自分の姿が向こうには見えない程度に、窓の横側からこの硝子の向こうを盗み見た。
 夜の少年は、何やら上背のある、今にも輝き出しそうな白い髪を三つ編みにした男に付き添われて廊下を歩いていく。
 男の方は黒いローブを羽織っていたがそれに反して少年は、騎士に連れられていたときには身に纏っていなかった真白のローブをその身に羽織っていた。それは、大きさが合わず引きずる格好になってはいたが。
 両手には大量の本を抱え、少年は黒ローブの男が一瞥をくれた扉の中へと、一人きりで消えていった。
 視線を感じたのか、男が黒色の布と自らの真珠の三つ編みを翻してこちらの方を振り返った。
 少年は急いで身を引いて窓横の壁に隠れたが、もしかすると見止められたかもしれない。
 少年は慌てて今来た道を引き返していった。

 ……そうして去っていく微かな足音を耳にしながら、今しがた翻った男は口元に悪戯な笑みを浮かべて目を細めた。
 手にしていた三角帽子を被って自らの出で立ちを正すと、向かいから走ってきた侍女に一言二言声をかける。
「おやおや、どうした? もしや、いつものか?」
「ああ、クエルクスさま! そう──そうなんです、姫さま……この辺りで姫さまを御見かけになってはいませんか? あの方は目を離すといつもこう──」
「姫さまなら向こうを回って目抜き通りの方へ行くだろう。どうせ手口はいつもと同じだ、早いところ追いかけないと見失うぞ」
 そう言って踵を返した彼が侍女に示したのは、少年が逃げていった方向とは全く正反対の道筋だった。
 黒と白を翻した男の、その三角帽に隠れてはいるがしかし生気に溢れている黒い瞳が、楽しげな光にぎらりと輝く。
 彼はばたばたと慌ただしく走り去っていく侍女の足音を聴きながら、ついに悪戯が成功したぞという風に笑い声を上げた。
 そしてそれは、陽気な梟の鳴き声によく似ているように聞こえた。


*



 なるべく気配を消しながら走り走り、そうして少年が辿り着いた先に在ったのは建物の一角、宮廷錬金術師用と言われている小さな書斎へと繋がる窓の前だった。
 その四角形の大きさは、少年が両手で大きく描いたとき程度のもので、取り付けてある位置はといえば彼の目線の少し上くらいである。
 予定では街へと向かうつもりだったが、もしかすると人に見付かってしまったかもしれない。ここは自分が本来在るべきである部屋へと、何食わぬ顔で舞い戻っておくべきだろうか……
 彼は鋭く息を吐くと外の窓枠に取り付き、其処から自分がいるのは今どの辺りなのかを確認するために中を覗き見た。
 そして彼は再び驚きの声を上げかける。
 いいや今度こそほんとうに声を上げてしまっていた。
「夜の少年!」
 自分が思っていたよりも彼は大きな声を上げてしまっていたらしい。
 正しくは、彼の声は彼が自分で思っているよりもよく通り、響くのだ。
 夜の少年と呼ばれた黒い髪に青い瞳、大きすぎる白いローブを羽織った少年は窓の方を振り返り、硝子越しに窓の下枠に取り付いている少年の顔を認めて眉根を寄せた。
 誰だ……
「何だ、お前?」
 言いながら、夜の少年は大した警戒心も持たずに窓を下から持ち上げて開け放った。朝の冷たい風が入り込んでくる。
 夜の少年は、窓を開けた瞬間に其処から軽い身のこなしで、無遠慮にこちら側へ入ってきた少年を怪訝な表情でじろじろと眺めた。
 安っぽい帽子に、上着に、洋袴。
 この間まで自分が身に着けていたものと何ら変わらない格好をした、ただの少年≠ェ此処にいる。どう考えても、怪しすぎる。
 だが、自分の姿を見て心底嬉しそうな表情をしたこの少年の顔を見たら、どうにも気が抜けてしまった。
 それに、何処の誰が此処にいようと自分には大した問題ではない。明日には出ていくことになっている上に、こんな自分ですら数日は此処──この宮廷で過ごすことができたのだから、他に誰が此処に滞在していたっておかしなことはないのかもしれなかった。
 淡い翠を宿した銀の瞳と目が合うと、少年は帽子を被ったままだったが姿勢を正し、両の手のひらを腹の辺りに当てて一礼をした。
 それは、普通の少年≠ヘする機会のないだろう一礼だった。
 それを見て何となくだが事情を察した夜の少年は、相手の身分が分からない内は少しくらいこちらも相手の茶番に付き合ってやるかなどと思いながら、面倒そうな顔をわざとつくってもう一度問うた。
 目の前の少年は身長こそ低いものだが、顔立ちや先の一礼のような立ち振る舞いはそれなりに大人びて見える。
 実際のところ少年は、自分とそこまで年も変わらないだろう少年と接するのは、そんなことはないのに随分久しぶりのように感じていたのだ。
 正直、彼は嬉しかった。
「……何だ、お前?」
「わたし? わたしはルーミ!」
 ルーミ!
 何だ、女の子じゃないか!
 夜の少年は、微かな落胆と共に何か他の感情が心の中に浮かび上がったのを自覚しつつも、その何かに名前を付けることはついにせず、ルーミと名乗った彼──彼女の姿をもう一度眺めた。
 帽子の影から覗く、微かに桃に上気した白くて柔らかそうな頬に、銀の丸い瞳に掛かる淡い翠色の長い睫毛は、微かに瞳に纏うその色と同じ色を宿していた。
 窓越しにはよく分からなかったが近くで聴く少年──いや少女の声は翡翠或いは翠玉の如くに透き通り、風を呼んでは鈴を鳴らすかのように心に響く。
 今この子は、おれのことを夜の少年と呼んだのか。
 ならばおまえは朝だ。
 おまえは、朝の少女だろう。
 彼は心の臓より奥のところで、何か風のようなものが立ち上るのを感じながら、少し息を吐いて困ったように頭を掻いた。
 さて、おれはここから先なんて言えばいいんだ?
 困惑する夜の少年に、朝の少女──ルーミは、彼にとっては助け船となる問いを差し出してみせた。
「あなたは?」
「あ──ああ……ウルグ。ルスキニアのウルグ」
「ウルグ──ルスキニア・ウルグ。では小夜鳴鳥の町から……」
 小夜鳴鳥の町〈ルスキニア〉、それが今しがたウルグと名乗った夜の少年の故郷だった。
 ウルグの一族は家名を持たない。そのため彼は、故郷の名をそのまま自身の名の前に冠すのだった。
 ルスキニアのウルグ、ルスキニア・ウルグ。
 それがこの夜の少年の名前だった。
 小夜鳴鳥の町、その言葉を聞いたウルグは、口元を歪めて皮肉な笑みを浮かべて呟いた。
「……墓場鳥の鳴いた町」
 ルーミの顔が固まり、その後すぐに困っているような悲しんでいるような表情になった。
 しかしこの純粋な少女のまなこばかりは、無理やりに唇を歪めて見せているウルグへとはっきり言葉を告げている。
 何故、そんなことを言うの?
「──何でって思うならこれを言った兵隊さんどもに言ってやってくれよ。ああそうかもしれないな、けどよくそんなことが言えるな。俺のすぐ近くで、馬鹿みたいに笑って!≠チてさ!」
「けれど、でも……きっと……彼らにも悪気があったわけではありません」
「そうだろうな! 悪気があってたまるかよ。ああお優しいね、お前は!……こんなのただの八つ当たりだ、分かってるよ。お前、怒らないんだな。やっぱりお優しいね。それとも怒れないのか? 怒れよ! 何なんだよ、何泣きそうな顔してるんだよ!」
「わたしは──」
 ルーミの背筋が伸びて、彼の瞳を彼女の瞳が見据えた。
 その瞳の光にウルグはふと我に返って、開けば傍若無人な言葉ばかりが飛び出してきてしまいそうな唇をきつく引き結ぶ。
 少女が少年の方に一歩近付き、それと同時に少年は一歩引こうとした。
 しかし、ルーミの小さな手のひらで腕を強く掴まれてしまったためにそれは叶わない。
 力強く腕を掴まれているおかげで痛みすら感じてきた。
 ウルグは、ルーミの瞳を見返す。
 彼女は未だこちらを強いまなざしで見つめ、彼は気を抜けば目を逸らしてしまいそうだった。
 だが分かる。
 この瞳から今、目を逸らしてはいけない。
「わたしは、あなたの瞳を見ていた」
 目を逸らさないよう気を張っていたために、ウルグはルーミの発したこの一言を危うく聞き零しそうになってしまった。
 しかし辛うじて耳に届いたその言葉に、ウルグは微かに眉根を寄せる。瞳?
「あなたは馬の上で顔を上げて、真っ直ぐに前を見つめて……青い瞳──あなたは何を見つめていたの、ウルグ?」
 ウルグはついにルーミの瞳からその青い夜を逸らしては俯き、きつく結んだ唇を更に強く噛み締め、掴まれていない方の腕の手のひらを爪が食い込むほどに強く強く握り締めた。
 それからふっと息を吐くように、声にはならなかった小さな言葉が彼の口元から零れ落ちる。
 たそがれ。
 その言葉を少女は見逃さず、その何をも望めない夕暮れの名前が床へと落ちていくのを黙って見ていた。
 たそがれ……
 ルーミがウルグの言葉を見つめているほんの一呼吸の間に、少年は握り締めた手のひらを一度開き、それからまた強く握り直した。
 そして顔を上げると、自分より頭一つ分は小さい少女の翠を纏った銀の瞳を見据えて、自身のその、瞳の砕けた黒水晶が散らばる青い夜に強い力を宿して彼女の問いに答えた。
「──夕陽」
 発せられたその声には熱い月光のような想いが宿って聞こえる。
 それはねがいにも呪いにも聞こえ、野望にも絶望にも聞こえ、怒りにも憎しみにも悲しみにも聞こえた。
 おそらくそこには、彼の望みが宿っていた。
 そう、彼の意志が。
 それを聞いたルーミの、ウルグの腕を掴む力が一瞬和らいだがしかし、そう思ったのもつかの間、すぐに強い力で彼の腕を握り直すと彼女はウルグの青い瞳を見つめたまま、小さい声──しかし彼の心にはよく響き渡る声で言葉を発した。
「あなたの手は震えていた」
「……武者震いだ」
「違う」
「何で分かる」
「わからないけど、わかります。わかった」
 開け放たれたままの窓から朝陽を帯びた柔らかな、それでいて目覚めを呼ぶ冷たい風が入り込んできた。
 彼女はウルグの腕を掴んだまま風の入ってきた方向を振り返ると、部屋に差し込む陽光に視線を向け、それから強い想いのこもった声で言葉を発する。
 そして、そこにも確かに、望みが宿っていた。
「まず、わたしには力が必要です」
「……力?」
「はい。わたしは、わたしのしなければ──為さねばならないことが分かったかもしれない。いえ、わたしの為したいことが」
 そう笑ってこちらを振り返った少女に、ああと思ったのはこのときが初めてだった。
 それはまだ少年の心を定めるには弱いものだったが、しかし確かに翠と銀を纏った風が彼の中に小さく立ち上った。
 ああ、この子は。
 ああ、この人は。
 ああ、この方は。
 ああ、ルーミは。
 ウルグが何か言葉を発する前に、彼の背後に在った扉が断りもなく無遠慮に大きな音を立てて開き、彼が驚いてそちらの方へと顔を向けると、そこには目の形を三角にした女性が一人、腕を組んではこちらを睨み付けていた。
 ウルグの腕を掴んだまま、後ろでルーミが小さく声を上げたのが聞こえてくる。
 女は覇気すら感じさせる、ややどすの効いた声でルーミへと声をかけた。
「こんな処にいらっしゃったのですね、姫さま! イルミナスさま、今日という今日こそ──」
 こんな処などと言われたからか、それとも急に割って入られたからかは分からないが、頭の方に静かに熱い血が上り、ウルグの喉からは皮肉っぽい笑いを含んだ言葉が、気が付いたときには一つはみ出してしまっていた。
「……こんな処で悪かったな」
「坊ちゃまは口出し無用に御座います!」
「俺はウルグだ、気色の悪い呼び方をしないでもらおうか!」
「何ですその態度は! クエルクスさまに言い付けますよ!」
「俺には痛くも痒くもない、好きにすればいい! どうせ明日には出ていく身だ!」
 今にも怒髪が天を衝きそうな侍女と言葉の応酬を繰り広げていると、ひゅうっと冷たい風が頬を撫で、髪の間をすり抜けていった。
 それと同時に、腕の痛みと共に在った温もりが消えていく。
 侍女があっと声を上げたが、ウルグはそれより早く今にも窓を飛び越えようとしている少女の方を振り返って声を上げた。
 そして、自身と相手の身分の差すらも忘れ心の勢いばかりで彼が呼んだのは、この國の王女の名前などではなく、自分の目の前へ朝の風と共に現れた小さな少女の名前だった。
 呼びかけた少年の声は、心底可笑しくて仕方がないという風に揺れていた。
 なんてお転婆!
「ルーミ! 逃げ果せろ!」
 力を増した朝の風にルーミの被っていた帽子が煽られ、部屋の中へと漂うように落ちてきた。
 その帽子の中に隠されていたものを目の当たりにして、ウルグは思わず息を呑む。
 それは、透き通るような翠玉の髪。
 光を纏って輝く朝の色。
 そして夜の少年にとっては、ひどく美しい朝焼けの光だった。
 少女は帽子が吹き飛ばされたことを自覚すると、照れたように軽く笑い、それから少年の方を振り向くと、悪戯の共犯者へと向けるかのような顔でもう一度笑った。
 それからウルグの足元に転がる錬金道具と山積みの本へと一度だけ視線をやると、しかしそれでも最後には再び彼の青い夜をその翠の朝は見つめていた。
「ではまたお会いしましょう、すぐに! ルスキニア・ウルグ、おそらく§B金術師さま!」
「気色悪い呼び方をするんじゃない!……早く行け、ルーミ! おそらく&Pさま!」
 それから彼女が夜の少年、ルスキニア・ウルグ、おそらく§B金術師さまの元に現れたのは、こののち数刻もしない間だった。
 そしてその再びの邂逅にて、ルスキニア・ウルグ・グリッツェンの心は決まる。
 同じように、イルミナス・アッキピテルの心も。
 それは、夜明けと日の出の名を冠す王國──今日の生まれる大地(ソリスオルトス)にて。



20170214

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