レゾンデートル


 部屋の片隅に置かれた洋灯が、頼りなさげな明かりを揺らしている。
 人通りの少ない山道の外れに、ぽつんとしつらえられた旅人用の小さな木製の小屋、その小窓から見える景色は陰も影も夜霧に呑み込まれ、深い闇は辺りを半透明の白で覆われていた。気温が低く湿度は高い。
 どうにも息苦しいこの夜に耐えかねて、一人の男は羽織っている月白色のローブを足元へと脱ぎ捨て、時折目に掛かって鬱陶しい、うねる黒の前髪を片方の手のひらで掻きあげる。
 それから、澄みわたる夜空の如くに深い青を湛えたその瞳に疲れたような色を浮かべると、小さく息を吐いて壁を背に片膝は立て、もう片方の脚はくの字に折り曲げて床に座り込んだ。
 空も大地もがすべて夜に染まってからは未だ半刻と経っていなかったが、耳を澄ませてみても風はなく、生き物たちの声すらしない。
 この山道に棲まうものたち皆がこの白い霧に息を潜めているようだった。聴こえてくるのは衣擦れの音ばかりである。
「霧……晴れませんね、ウルグ」
 先まで部屋の隅にぼんやりと佇むばかりだった洋灯を持ち上げ、いつの間にかウルグの隣に来ていたイルミナスが窓の外を眺めて呟いていた。
 ウルグは彼女の手に在る灯りに導かれるようにイルミナスの横顔を見上げ、しかしそこからすぐに視線を逸らすと、大して抑揚もない声で言う。
「暮れの前には峠を越えられると踏んでいたのだがな。それにしても、今日の夜霧は随分深い」
「しかし……これに関してはどうしようもありませんね。明日の朝には晴れているといいのですが」
「まあ、最悪は明日の朝、君が霧を斬ればいいだろう。その風の剣で」
「な──なるほど?……なら、今ではいけませんか」
「霧が晴れたところで、そう易々と夜の山道を行くわけにもいかないだろう。……それに君は余計なものまで斬り伏せかねない」
 イルミナスがむっとした表情でウルグの方を振り返った。彼女の手に在る灯りが揺れ、ウルグの頬を橙に照らす。その光に視線を再びイルミナスへと向けた彼と彼女は目が合った。
 イルミナスは笑い交じりの反論を言おうとした口を結び、前髪を後ろへやってしまったために、いつもよりも露わになった彼の顔とその青い夜が宿る瞳を見つめる。
 まじまじと顔を見られているウルグの顔に明らかな訝りの表情が浮かんだ。
 ルーミの考えることはいつもよく解らない、何なんだ?
 そんなウルグの困惑はよそに──と言っても彼女は彼の困惑に気付いてはいたが──イルミナスは視線を無造作に脱ぎ捨てられた彼のローブへと持ってゆき、それからまたウルグの方へと視線を戻す。
 今度はイルミナスの表情に、明らかな笑いが浮かんでいた。
「……何が可笑しい」
「いえ、べつに」
 いつもは泰然とした態度をほとんど崩さない彼だが、ローブも手袋も手甲も脱いで知的な装いを解いてしまえば、そこに現れるのは細い線をしたただの青年である。
 ローブを脱いでも浅黒い肌に闇を呑み込む髪、そこに浮かぶ青い瞳などは変わるはずもなくやはり彼は夜を纏って見えるが、それもかの真白の羽織りを身に着けているときよりは鳴りを潜めている。
 ウルグの座る足元には、彼の身に着けていたものたちがだらしなく転がり、彼自身も昼間はいちばん上まできっちりと留めている黒い襯衣の釦は今や二番目までが外れて首元が露わになっていた。
 ウルグは困惑の表情を隠すこともせず不機嫌なそれに交代し、折り曲げている方の脚に頬杖をついて溜め息を吐いた。
 イルミナスにとってウルグは錬金術師である前に、青年である前に、男である前に、この世界で唯一人のウルグである。
 そのため彼女は、この錬金術師が自分と大して年の違わない青年であることを時折忘れ、しかしこうして時折思い出すのだった。
 ウルグとしては、自分が青年の域を出ないがきであることなどイルミナスには忘れていてもらって一向に構わないのだが。
 そんなウルグを彼の養父であり師であるクエルクス=アルキュミア・グリッツェンが見たらこう笑い声を上げるに違いない。かわいげのないくそがきめ!
「ウルグは騎士になりたかったのですよね」
「……子どもの頃の漠然としたものだ、今更掘り下げるほどの理由も内容もない」
「どうして騎士になりたいと思ったの?」
「君、人の話を聞いているのか?」
「だってウルグ、すべてのことに理由は在るのでしょう?」
「おい姫さま、それは一体誰の真似だ? 言ってみろ」
 イルミナスは小さく笑い声を上げながらそっぽを向いた。
 彼女のそんな様子にウルグは大袈裟に溜め息を吐き、それと同時に小窓の前に立っていたイルミナスが、その下に座るウルグの横に膝を抱えるかたちで腰を下ろす。
 王宮にて身に着いた癖なのだろう、普段は他の者の背筋すら伸ばすかのように背筋を真っ直ぐに正しているイルミナスだが、しかし今ばかりは少し背を丸くしてウルグの隣に座っていた。
 イルミナスの手に在った洋灯は彼女とウルグの間、その少し手前に置かれ、頼りなく緩やかにこの夜を灯している。
 ウルグはその橙を見つめながら、呟くように言った。
「……お伽噺」
「お伽噺?」
「小さかった頃の俺にと母が話をつくり、父が絵を描いた絵本……昔、それをよく読んでいた。そればかりを」
「お母さまとお父さまが……」
「俺の両親は、売れない物書きと売れない画家だった。そうだな、今思えばあの本も稚拙な出来だった……あれでは確かに売れないはずだ。だが俺は──そればかりを読んでいた、何度も何度も……物心ついた頃にはもう、本は随分くたびれていたな」
 イルミナスが眩しそうな瞳でウルグにどんな物語なのですかと問う。ウルグはそんなイルミナスの翠を纏う銀の瞳を一瞬見やると、次に小窓の方へと視線をやり、それから長い一呼吸の間黙った。
 そうして彼の口から零れ落ちた小さな言葉はイルミナスの耳だけに届く。
 元より此処にはウルグとイルミナス以外に人はいない。しかし此処が人混みの中だろうが、突風の吹く崖の上だろうがおそらくは同じことだった。
 その言葉は、イルミナス・アッキピテル、その人だけに届く。
「愚かにも姫君に恋をした騎士のはなし。その騎士と隣国の王子が濃霧の王に拐かされた姫を救うために、両翼の有る馬──天馬で霧の届かない夜空を翔け、王と戦う物語だ」
「天馬……ペーガソス?」
「ああ。攫われる姫と、騎士に王子にペーガソスだ、四拍子揃った、これ以上ないほど愚直でありきたりの退屈な物語」
「でもお気に入りだった?」
「それはそうだ。何故なら俺は、これ以上ないほど愚直でありきたりの退屈な少年だったのだからな」
 イルミナスは、ウルグの夜の中に微かに浮かぶ楽しげな色を見付けて微笑んだ。それから、その絵本はまだ遺っているのかとイルミナスが問うとウルグは静かに──だがさして気にする様子もなくかぶりを振った。
 両親や故郷のすべては崩れ、砕け、焼け、暮れ落ちた。このおれ以外は。
 ウルグは青の瞳をほんの微かに細めると、それからいつものように口の端に皮肉っぽい笑みを浮かべる。イルミナスはと言えば、彼がこの後何を言うのかを大体察してこちらも少しばかり目を細めていた。
「だが、この俺を誰だと思っている? いや、それ以前に何十も何百も読み返した物語だ、今この場で諳んじることもできれば、装画の様子だって色も形も構図もすべて語ることができる──言葉でならば」
「ならウルグ、わたしに語って聴かせてくださいませんか?」
「ちなみに姫君は騎士ではなく王子を選ぶ。ありがちなことだな」
「あ──あなたはどうしてそうやって先に言ってしまうのですか!」
「一國の王女に恋をするならば、なるほど騎士などになるものではないなという俺の見解を述べたまでだ」
 よほど傷が深かったのか、イルミナスはすっかりうなだれてこちらの話など全く聞いていないようだった。ウルグはくつくつと喉の奥ばかりで笑い、それから小窓の方へと視線をやる。
 外には未だ霧が厚く夜を覆い隠し、その中で王の冷たい手のひらはかの美しき姫君すらも覆っては攫ってゆくのだろう。空に流れる銀の小川の星々を飛び越えながら降りてきた二匹の天馬に跨り、騎士と王子は空を翔ける。濃霧の王との剣戟は星の流れる音、その火花は星が瞬く光。
 ウルグは右手を微かに動かした。頁を捲る己の手つきを、未だ鮮明に覚えている。
 装丁は、青く染まった革張り。そういえばあれは、自分の目の色によく似た青だった。ところどころざらついた箇所がある羊皮紙──五頁目などは茶に染みる背骨の跡が目立っていたか……
 母の物語はそれこそ星の流れるように美しく流れ、父の絵は星が瞬くがの如くに輝いて見えた。昔も、それは今も。
 イルミナスがウルグの右手に指先だけで触れ、彼を見上げた。
 朝の光が宿る瞳を柔らかく細め、優しく微笑む彼女の表情に名前を付けるならば、それは嬉しさと哀しさと寂しさと愛しさと痛み──そのどれでもなく、そしてきっと、そのすべてでもあった。
 ウルグはイルミナスと目が合うと微かにその目を見開き、どうしてもそこから視線を逸らすことができなくなってしまった。
 そんな彼をよそに彼女はウルグへと言葉をおくる。
「──だから、ウルグは創り手なのですね」
「……だとしたら皮肉もいいところだがな」
「すぐ意地悪を言って……なら、騎士の方がよかった?」
「いや? あんな風にごちゃごちゃと重たいものを着るのはこちらから願い下げだ」
「やっぱりウルグはウルグですね、どんな格好をしていても!」
 口元に手を当てて笑い声を上げたイルミナスを、わざとらしく眉間に皺をつくってウルグはねめつけた。
 それから静かな声で、四拍子揃ったこれ以上ないほど愚直でありきたりの退屈な物語を諳んじはじめる。
 黙読に比べて朗読というものは存外時間のかかるもので、物語が佳境に差しかかるという辺りでイルミナスがうつらうつら舟をこぎはじめた。ウルグはそこまで遠くない日に読んだお伽噺を諳んじていた口を結び、ちらりと隣のイルミナスの方へと視線を向ける。
 と、そのイルミナスがウルグの肩に頭を乗せ、そうしたかと思いきやそこから微動だにしなくなった。
 ──完全に寝入った。
 ウルグは、眉と眉の間に親指と人差し指を当てて長く溜め息を吐く。お子さまめ。
 ウルグは部屋の隅に在る毛布を一瞥すると、しかし自身の足元に転がる己のローブへと目線をやり、そしてそれをイルミナスの身体に掛けた。
 それからしばらく意味もなく空中を眺めたのちに己の肩で微かに寝息を立てている彼女の方へと顔を向け、その透き通る翠玉のような睫毛をぼんやりと眺める。
 そうして同じように、色は淡いがまるで朝の光のように目を惹き付ける彼女の髪を見つめると、彼はほとんど無意識に指先だけでそっとその髪に触れる。それと同時に彼が呟いた言葉は、ほとんど声にはならないほど小さなものだったが、しかしそれは確かに言葉として、深く眠るイルミナスの中へと導かれていった。
「──他の誰がお前のことを何と呼ぼうと、俺にとってお前はルーミだ」
 息を吐くと、緩やかな眠気が目元まで上ってきてウルグは欠伸を噛み殺した。目尻に涙が溜まり、彼はそれを拭って再び息を吐く。
 自身の早鐘のような鼓動とイルミナスの寝息を聴きながら、彼は誰に言われなくとも自ら深い眠りへといざなわれていった。
 濃霧の王の手のひらも、こんな処まで追いかけて来はしないだろう。
 おれは騎士ではない、王子でもない。
 天馬に乗る必要もなければ、天上で戦う必要もない。
 選ばれるでも選ばれないでもなく、選ぶのだ。
 選ぶ。
 自分に必要なのはただそれだけだ。
 誰が天馬になど乗るものか、空の上で戦うなど馬鹿々々しいにもほどがある。
 おれたちは、あの愛しい物語の登場人物ではない。
 彼は薄く目を開くと、少しばかり顔を傾げて隣の少女の姿を認め、それから再びその瞼を閉じた。
 ──夜と朝は寄り添っている。
 それは、小さな子どもでも当たり前に知っていることだった。



20170119

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