わが唯一つの望み


 夜の黒が深まる中、手にした燭台に燃える蝋燭の火を払い消した。
 見上げた月は、闇の中に青白く浮かび上がっている。
 ウルグ・グリッツェンのうねる黒髪と、浅黒く焼けた肌などは最早闇の中に溶け、彼の静かに青い瞳と羽織った白いローブばかりが、さながら今天上に浮かぶ月の如くに黒の中で浮かんでいた。
 滅びた都市に横たわる瓦礫の山の上で夜の瞳は月を見つめ、風も吹かないぬるい闇の中で音もなく息をする。
 こんにちの〈ゼーブル〉は魔獣の気配も鳴りを潜めており、左手の甲を覆う──殴るだけではなく、魔獣の嫌う光を放つこともできる銀色の手甲の出番はどうやらなさそうだった。彼が少し手のひらを動かすとその度に鳴る乾いた金属の音が傷だらけの都市の中で冷たく響く。
 空に浮かぶ白をぼんやりと見つめるウルグが座る瓦礫の背後で、ふと人が歩く音が聞こえた。
 彼は反射的に振り返ろうとするが、しかしそれよりも早く後ろの人物が声を上げ、その声を聞いたウルグは早々に得意のしかめ面へ戻ることとなった。
 聞き覚えがありすぎる。振り返る身体の動きすら無為に思えた。
「人ってのは、夜になったら眠るものだと俺は思うんだがなぁ」
「……ハイク。来てたのか」
「来てたのかって、此処はあんたの城かい?」
「だとしたら、俺は随分な昏君のようだな」
 ウルグが呆れたように鼻を鳴らすと、ハイクと呼ばれた男は違いないと言うように笑い声を上げた。
 ウルグは溜め息を吐きながら気怠そうに髪を掻き回すと、瓦礫の山からハイクのいる側へと飛び降りて顔だけを彼の方へ向ける。
 月明かりの光は淡く、相手の顔は緩やかに闇の中に溶けてぼんやりとしかその表情を受け取ることができなかった。
 ウルグの横に立つ彼が手燭や角灯を今その手に持っていないのは、この崩壊した都市のそこここに潜む魔獣たちに、自身の居場所を知らせないためだろうか。
 先ほど自ら明かりを払ったウルグはといえば、やはり彼の手に在る燭台には火は灯されていなかった。蝋は今だ半分以上残されている。
「その蝋燭、さっき消したのか?」
「ああ。においで分かるか」
「何でまた。そいつ、まだしばらく持ちそうだ」
「……火を見ていると思い出すことがあってな」
 ウルグは息を吐くと、手燭に立つともし火の亡骸に目をやった。蝋と金属が月明かりに照らされて頼りない輪郭を保っている。
 彼は静まる青の瞳を細めると、ハイクの鋼玉の瞳とはその目を合わせずに片方の口角ばかりを上げて笑った。
 時折だが、この男と目が合うとウルグは心の内を見透かされているような気分になるのだ。いい意味でも、悪い意味でも。
 それはまさしく、弾丸が違わず心臓を撃ち抜くのと同じように。
 ウルグは疲れたように声を淀ませて、それを地面へと落とした。
「火を見ていると──煙草を吸いたくなる」
「何だ、まだ煙草をルーミに取り上げられたままなのか」
「それが彼女の趣味だ、迷惑にも程がある」
「そういえばあんた、前に自分のことをルーミの保護者だって言ってたっけ? なるほどあれは皮肉の一種か、ウルグお得意のな」
「うるさいぞ、お前はやかましいんだ」
 まるでそれ以外に返す言葉がない子どものように言い捨てると、ウルグはローブの隠しから銀薄荷の毒消しタブレットを取り出した。
 彼がそれを口に含むのは身の安全とためというよりは、最早こんにちの煙草の代わりである。
 彼はそれを奥歯で噛み砕くと、小さく宙へ息を吐いた。吐いた息は微かに白を纏っている。
 先まで己の考えにふけっていたおかげで気が付かなかったが、今日はいつもよりか冷えるらしい。
 ウルグは自身の青い夜を朽ちた都の闇へと向けると、己が歩いてきた道とは逆方向へと纏う月の色を翻して歩き出した。
 おそらくこの浮かぶ白色を目印に自分の後をついてきているだろうと思われるハイクへは振り返らずに、しかしそこにいることを確信めいた口調でウルグは彼へと問いかける。
「大方──地下に在る書庫で気になる本を読みふけっていたらついでに夜も更けていた、と……お前はそんなところだろう」
「おや、俺のことをよく分かっていらっしゃるようで何より」
「こんな処に突っ立っているのも馬鹿らしい。書庫へと戻るぞ」
「あんたも? 自分の住み処へとは戻らないのかい」
 聞かれると、ウルグは闇の中でも分かり易く肩をすくめた。歩きながら眉間を押さえ、それから今日いちばんに深く重い溜め息を地面へ転がし、そうして地に落とした溜め息を少しばかり苛立たしげに踏みつけて行く。
「今日は厄介な客が来ていてな。ルーミだけでこちらは手一杯なのだからそれ以上厄介なのを増やされても困る」
 あのじじい、とウルグが口の中で何やら呟いているのを後ろから眺めていたハイクの口から微かに笑いが洩れたようだった。
 ウルグが口元を引きつらせながら背後を振り返ろうとするが、首を少しばかり彼の方へと向けた己の視界の隅で、ハイクの瞳が月の光に閃いているのを見留めて、彼はそれ以上そちらを向くのをやめた。
 ハイクの鋼玉によく似た瞳は、その灰色の中で時折薄い青が滲んでいるように見える。
 その姿は雲の間から時々空が顔を出すこと、それとほとんど等しいことのようにウルグには思えた。
「なあウルグ。……あんたって嘘を吐くのが下手くそだな、その見た目より」
「……顔や声に出ているか? それとも何か別の──」
「いや──分かるよ。むしろほんとうを言っているときに」
「……俺のことをよく分かっているようで何よりだな。実際俺は虚構より事実を述べる方を好む」
 ウルグは歩きながら時折吐き出される自身の白い息を眺め、それから空に浮かぶいつもよりまばゆく、そして大きく輝く夜の光を微かな首の動きだけで見上げた。
 満月。
 こんにちのそれは、今にも墜ちてきそうな月というよりは、むしろ今にも手が届きそうな月なのだった。
 片手を伸ばせば、届くかもしれない。
 両手ならば、掴めるかもしれない。
 そんなもの、取るに足らない考えだ。
 しかし、この己の心が求めているのはそういったものではなかったか。
 手に余るものを今も昔も死に物狂いで掴もうとしている、このおれの心は……
「……ハイク、今日はやけに魔獣が少ないと思わないか。お前は何故だと考える?」
「そうだな──俺たちに眠れない夜があるように、あいつらにだって眠りたい夜があるんじゃないか」
「詩的だな、お似合いだ」
「そりゃどうも。あんたは?」
 嫌味っぽい色を纏わせたウルグの言葉は、それでももうほとんど彼の本心だった。
 彼は息を吐くと、宙に浮かんだそれらが身を白く震わせるのを見つめたのちに自分が抱く青い夜を静かに閉じる。
 心の内に宿した、青く抜けて広がる空への羨望を認め、しかし己の爪の中に潜んで瞬く紅水晶の色を彼は思い出すと、その憧れをいつものように皮肉な笑みへと変えては振り返り言った。
「──今日は寒い」
「なるほど、事実だな」


*



 黄昏を歩く子どもたちが眠れない夜に、小さな子守歌が流れてゆく。
 命を絶たれた都市のそこここに点在する、地下へと続く階段その先に在る錆びついた鉄の扉を開いた奥に佇む長細い書庫。
 その入口近くに置かれた角灯に明かりを灯して、薄暗い書庫の中を今度はハイクが先導して歩いていく。
 ぬるく埃っぽい闇の中を照らすかのように、灯を語る短い子守歌を口ずさみながら進む彼の輪郭は、手にした角灯の橙色によって、月明かりに照らされていたときよりも穏やかな丸みを保って見えた。
 幾度も繰り返される短い一節が耳の中で反響し、ウルグは歩きながら一瞬微睡んだようだった。
 硬い石の床を叩く靴音までもが彼の中で子守歌として木霊を始め、ウルグの呼吸は段々と緩やかに深いものへと変わっていく。
 彼の鋭く涼しげな目元は、ハイクの持つ角灯の揺らめく橙を見つめ、その熱に手招かれたのか彼の血は少しばかりその温度を増したようである。
 ウルグは歌い歩く彼の近くに、誰が為のものでもない言葉を転がした。
 いいや、零れ落ちてしまったのかもしれない。
「──火の光に照らされた肌は、夕暮れを思い出す」
 ともし火の歌は続く。
「俺からすべてを奪ったものは一体何だったんだ」
 歌は続く。
「黄昏……」
 続く。
「あんなの──あんなもの、人の死に方ではなかった……!」
 青い瞳の奥に沈む砕けた黒水晶が、赤色に瞬く。
 こめかみに鋭いような鈍いような痛みを感じたウルグは立ち止まり、書架の一つを拳で強く叩いた。
 その拍子に、何かが本棚から転がり出て、ウルグの肩を叩いては床に音を立てて落っこちる。
 ウルグの逆立った神経にぶつかったそれに、彼は苛立ちを隠すこともなく鋭く舌打ちをすると、落ちた物を拾い上げようとしてその方へ振り向きかけた。
 しかしそれよりも早く、灯の歌を紡いでいた彼がウルグの方へ顔だけ振り返り、そしてこちらを見ていた。たとえばその表情は微笑みと呼ぶこともできる。
 気が付けば、歌は止んでいた。
「ウルグ、あんたの夢って何だった?」
 問われてウルグは言葉に詰まり、しばらくの間ハイクの顔を見て呆然と突っ立っていた。
 それからやっとのことで言葉を発した彼は、浮かんではその場に留まるこんがらがった様々な思いのために何処を見ればいいのか分からず、人の前では常日頃から泰然とした態度を保っている彼にしては珍しく、その黒い睫毛を伏せていた。
「──騎士」
「騎士、か」
「似合わないか。いやそうだろうな。だが、俺にも夢に夢を見る、それはそれはかわいい頃というものはあった」
 ハイクはウルグの似合わないかという問いには答えを差し出さずに、ウルグの真似だろうか、少しだけ片方の口角を上げると同じように片眉ばかりを上げては、
「酒の肴にはなりそうだ」
 とだけ言った。
 ハイクは自身の顔の横に角灯を掲げると、静かな瞳でウルグのことを見る。
 角灯を掲げている手の方に在る彼の瞳が灯の光に照らされて緩やかな明かりのその中に宿していた。
「夢を奪われた?」
「……夢を捨てたのは俺だ。生きるために──いや、戻るために、俺は生きねばならなかった。違うな。生きたかったんだ、戻るために。使命でも意地でも贖罪でもなく……俺は自分の心に従ったまでだ」
「──なあ、夢ってあるか」
「ないな、必要ない。今はただ、目的だけがあればいい。……夢というものは体を軽くするところがある。むやみやたらに浮かび上がるのは性に合わん」
 そう言い切ったウルグはふっと息を洩らして微かに笑う。
 その笑みに哀しみや寂しさといった影はなく、彼はむしろ自身のこの考えには納得しているところがあるらしかった。
 己が選んだ道を歩いて往くことへの後悔は、ない。
 いや彼が選んだのは道ではなかった。
 彼が歩く場所に道はない。
 彼が歩くのは前も後ろも右も左もよくは見えない夜の中、歩いても歩いても残った足跡などは誰にも見付けられないだろう闇の海、月明かりばかりが導く暗がりの底──だから、焦る。
 今までずっとそうだった、ずっと焦り続けてきたのだ。
 早く何かを掴まなければ、何かを、何かを。
 そんな自分の冷や汗を吹き飛ばし、逃げの煙草の火を消し、この情けない背筋を正させるのはいつも決まって一つだった。
 根も葉もない言い方をするのならばそう、いつもおれが格好を付けていられる理由は決まって一つなのだ。
 ウルグは腑抜けた自分を叩き起こすように、銀薄荷のタブレットを口に放り込み噛み砕くと、右の手のひらを握ったり開いたりしたのちにもう一度本が隙間なく詰まった言葉の壁を腕ごと拳で殴った。
「俺はこの手だ──この手で、己の父親を殺した。誰が何と責めようと或いは何と慰めようとそれは変わらない、父を殺したことにより俺の手は確かに汚れたんだ。だから俺は俺を憎く思う、俺にそうさせた黄昏を憎く思う。
 憎しみは憎しみを呼ぶとはよく言うものだが、だから何だ? そんなもの知ったことか。人は愚かなのだから俺だって愚かに決まっている。これは告白でも懺悔でもない、ただの事実だ。
 だがいちばん腹が立つと言えば、それは黄昏というものが不明瞭なかたちをしていることだ、黄昏とは一体何だか分からないということだ。
 ちくしょうが、何が黄昏だ……これがそんなに美しい姿をしているわけがないだろう、あんな風に人が死ぬなどまともじゃない。血に飢えた獣が声高に夕暮れを名乗りやがって……なめるなよ、俺をなめるな……!」
 拳を書架に押さえ付けたまま、ウルグが静かに低い声で言葉に熱を宿していく。イルミナスの前ではあまり表に出てこない燃ゆる月光が彼の青い瞳に閃いていた。
 ハイクは頬の辺りに掲げていた角灯を元の自然な位置へと戻すと、呆れたように一つ息を吐いて頭を掻く。
 しかし彼の口から次に言葉が発せられたときにはその目は微かに細められ、口角などは確かに面白げに上がっていた。
「あんたが見た目よりも嘘を吐くのが下手で、それから格好付けのとんでもないがきっていうのはよく分かったよ、ウルグ」
「……何よりだ。とんでもないがきの俺は正しいかそうでないかは捨て置くことになるとしても事実を述べるのが好きなんだ、俺自身についてのな。そうだな、本心とでも言い換えたら分かり易いか」
「まぁ、正しさだけが人を救うとも限らない」
「ああ、それは正しい≠ネ」
「おやおやお客人、それは皮肉か嫌味かどちらかな?」
「両方。お前、俺が昔騎士を夢見ていたと言ったとき笑いかけただろう」
 ハイクが肩をすくめると同時に、ウルグが先ほど本棚から転がって床に落ちた何かを拾い上げた。
 それは、両手に抱えられるほどの小さな木の箱に見える。
 ウルグはその箱の上に備え付けられている、半円の硝子の中に閉じ込められた水晶を見やると、箱の真ん中に張り付いている黒いダイヤルを少し捻ってみせた。
 これを初めて見たのだろうハイクの瞳に疑問の色が浮かぶ。
 ウルグはそんな彼に気付いたのか彼の手から角灯をひったくると、代わりにこの小さな箱をハイクへと投げ渡した。
 ハイクが小さく声を上げてそれを受け取るのを見届けると、彼は地下書庫の天井に規則正しく並ぶ小さな丸い穴たちを見上げ、少しばかり息を吐いた。
 並ぶ穴の中心にはどれも小さな水晶が、大地から掘り出された当時の姿を保ったまま填め込まれている。
「これは前時代……かわたれの時代≠フ遺物だが……そうだな、たとえば俺は人のこういうところが嫌いだ」
 ウルグが呟くのと共に、小さな箱の上に在る水晶が橙色の光をその身に宿しはじめ、ダイヤルの隣に佇む開いた花のような部品から、何度か鳥がつんざくような音が聞こえてきた。
 鳥の声が繰り返されながらそれはいつしか人の声となり、花からはくぐもった声が発せられはじめる。
 そう思った瞬間、声は歌となり、歌は言葉となって天井の水晶たちへと届いてはその水晶たちまでもが橙色に淡く光り出した。
 水晶たちが光を放ちはじめるのを眺めていたから、隣に立つ男の表情はウルグには分からなかったが、どうだろう彼は驚いただろうか。
 木の箱に咲く花から流れ出すのは、彼が先まで歌っていた灯の子守歌、そしてそれを箱の中から歌う声の主もやはり彼──ハイク・ルドラである。
 製作された意図も構造も原理も未だよく解ってはいないが、この木の箱は歌とそれを歌った主の声を覚えることができる。
 花の部品から歌が流れ出すと備え付けられた水晶が光を放ちはじめ、それに共鳴するかのように、此処の天井に填め込まれた水晶たちも淡い光を発しはじめるのだった。
 おそらくは前時代の魔術の技術をこの箱に応用したのだろう。何故ならこの仕掛けは声のかたちを取る言葉から成っている。
 ウルグは柔く書庫を照らす光を見つめた。
 ──明かりは灯る。
 そこに正しさや間違いなどは存在することなく、ただ未だ明かりは灯るのだった。
 この間違いばかりだったのだろう朽ちた都の、陽光の届かない冷たい地の下にも明かりは灯る。
 正しくなくとも、誰を救わなくとも、それでも明かりは灯るのだ。
「人のどういうところが嫌いだって?」
 隣で灯を宿す水晶を見上げる気配を感じながら、白と黒を纏う男は視線はそのままに呟いた。
「天秤がどちらかに傾き切らないところ。白なのか黒なのか、それがはっきりしないところだな」
 答えを聞いた隣の青年は笑い、それから思い出したようにウルグの横顔を眺めて問いかけた。
「なあ、あんたは何処に戻るんだ?」
 その問いに対しての答えをハイクはおそらく求めてはいない。
 しかしそれでもウルグにとっては今、それは答えずにはいられない問いでもあった。
 それは、どうしようもなく傷だらけの子どもが朝まで闇に足を取られずに歩いてゆくための、どうでもいい、誰にとっても取るに足らない小さな小さな、小さすぎる誓い。
 ただそれだけ。
 それだけの答えだった。
「──風の生まれる処」
「詩的だな」
「だが事実だ」
「似合うよ、騎士よりは!」



20161230
…special thanks
ハイク・ルドラ @hiroooose

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