ガーネット・スター


 それは、冗談みたいな夜だった。


*



 キト・アウルムは此処、兎の名を冠す小さな町まで向かう商人の護衛を無事にやり遂げたそののちに、仕事の報告にこの町の正ギルド支部へと足を運んでいる。
 その間、暇を持て余したメラグラーナ・ジェンツィは、小さな菓子店の店先で売っていた焼き菓子を頬張りながら、この小さな町を自由気ままに散策していた。
 赤や橙、黄みがかった飴色など──暖色の屋根瓦に、微かに蜂蜜色の混じっている白い外壁で造られた家々が、大小は様々だが道の両側に沿ってお行儀よく立ち並ぶ様子は、さながらお伽噺に出てくる風景のよう。
 町のそこここには花が植えられ、下を向けば花壇に花、上を向けば民家の窓に花といった調子である。
 中心地の広場では循環式の噴水が水しぶきを上げており、そのてっぺんでは兎を抱えた少年の隣で花籠を抱えた少女が微笑んでいる像が、太陽の輝きを浴びて光を辺りに振りまいていた。
 視線を巡らせれば、お喋り好きな町娘たちが、角灯や夜光草の入った籠を両手に抱えていそいそと町中を走り回り、時折友人の前で立ち止まっては互いに一言二言交わして笑い合っているのが目に映る。
 夕暮れが近付くにつれて、広場には露天商の姿がちらほらと見えはじめたが、よく見てみるとそれは露店業を生業としている商人ではなく、この町に店を構える菓子屋、総菜屋、パン屋など飲食店の面子だった。
 一等早く広場にやってきた菓子屋は、石畳の上に木箱をいくつか積み上げて長机の形にし、そうしてつくった机の上に幾つかの大きな平たい籠を載せている。その籠の中には焼き菓子が大量に積まれていた。
 何か祭りでもあるのだろうかと心の中で首を傾げたメグの耳に、楽しげに走り回る町娘たちの声が聴こえてくる。
 彼女たちから発せられた声の中に一つ、確かに光を宿しているものを見付けたメグは、それを拾い上げて思わず心に留まったその言葉を口に出していた。
「──流星群?」


*



「冗談だろ……」
 キトは今にも消え入りそうな声でそう呟き、鈍い金の瞳を前を行くメグの背に焦点を当てては彼女のことを追っていた。
 宵闇の中で屋根から屋根へと飛び移りながら、である。
「だってキト、流星群よ!」
「何度も聞いたよ。だからって何で屋根の上なんだ、おかしいだろ……これじゃまるで盗人だ」
「そりゃあね、広場はうるさすぎるもの!」
 振り返ってそう笑い声を上げるメグに、キトは前を見ろと言葉を投げかけると、彼女ははあいと間の抜けた返事をしたのちに、また屋根から屋根へと軽やかな足取りで飛び移った。屋根瓦が悲鳴を上げている。
 飛び乗っている家々、そのどれかの主に見付かったらこっぴどく叱られるどころか役人の前に突き出されてしょっぴかれる可能性だってなくはなかった。
 キトは投げやりな溜め息を吐く。
 メグはまだいいかもしれないが、こちとらもう立派な大人の男だ、屋根の上を歩こうが走ろうが飛ぼうが跳ねようが、動けばそれなりに大きい音が鳴るものである。
 キトはこうして飛び跳ねながら屋根の上を移動してみて、改めてそれを痛感していた。
 いつ見付かるかと気が気ではない。町の人間があらかた広場へ出ていっているのが唯一の救いか。
 キトは、孤独にどうにも頭が痛くなってきたのを感じていた。
「今回はかなり大規模な流星群らしいよ。みんな嬉しそうだった」
 或る屋根の上で立ち止まったメグは空を見上げてそう言った。
 キトはそろそろと極力音を立てないように彼女のいる屋根へと飛び移ると、つられるように空を見上げる。
「……広場の方には、お前の好きそうな菓子やら何やらが売ってるぞ」
「うん? うーん……うん、そうだね」
「何だよ」
「でもさ、やっぱり星を見るなら静かなところで──でしょ」
 笑うメグにそういうものかと呟いて、キトは屋根の上に腰を下ろした。
 煙突掃除が忘れて帰ったのか、一つの家に立て掛けてあった梯子を上ってから、幾つくらい町の屋根を飛び越えてきたのだろうか。
 眼下では、街灯がぼんやりと橙の光を洩らしているが屋根の上まで届く明かりは少ない。
 今まさに大勢の人で賑わっているだろう広場の街灯、手燭、角灯、夜光草──その明かりどれもがこの場所からでは小さな星々の如く遠くに映るだけだった。
 空を見上げていたメグもキトの隣に腰掛けると、遠くに見える星待ち人たちの抱える明かりに目を細めては夜に言葉を乗せた。
「……流れ星は何処へ往くのかな」
「空の中で燃え尽きるよ、大抵は」
「うわっ、夢がないなぁ……」
「……空想的な言い方がいいなら、流星は人の死んだしるしだとか何とかって前に護衛した占い師が言ってたな……」
「何か暗いなあ……」
 わがままだなとメグの方へ顔を向けたキトの瞳に、綻ぶ彼女の表情と赤銅色の瞳に映る満天の星々の光が映った。
 それは知っている横顔だ、よく知っている横顔だった。
 浅焼けた額に掛かる柘榴色の髪の毛、その髪は毛先へ向かうほどに竜胆の色を纏っている。それは、自分の孔雀緑の髪が毛先に向かうにつれ段々と菫色へと変色しているのと同じように。
 赤銅の瞳は沈みゆく太陽その光が照らす水面の如く、星空の光に煌めいている。
 空を仰ぐ彼女の視線の先には一粒の星が赤く輝いていた。
 そしてその赤の光に彼女の姿を見たキトはメグへと声をかけ、問いかける。それは赤の星を見て、不意に起き上がった疑問だった。
「前にお前は俺の名前の由来を言ってたが……お前は?」
「お前は、って?」
「メグの名前の意味だよ、メラグラーナの」
 ああとメグは頷くと胡坐になり、少しばかり苦笑いをしながら痒くもないだろう頭を掻いた。
 それからキトの方を振り返って彼の黄金へと自身の赤銅を合わせると、何だか少し気恥ずかしそうな表情で彼女は言う。
「──果実」
「果実?」
「あたしのメラグラーナに込められた意味は赤い果実=Aよ。いい女になるようにってね」
「へえ……赤い果実、か」
 キトはメグの方へは視線を向けず、天上に瞬いている赤い星を見つめている。
 星は満天。
 底の方は、未だに少しばかり暮れの橙を纏わせている濃藍の空から、微かに冷たく感じる風が吹き寄せてきて、二人の髪先を穏やかに揺らした。
 広場の方ではやはり人々が明かりを持ち上げているのだろう、このくらい遠くから眺めてみれば、人が自ら光を放っているかのようにも見える。
 笑い合う人の表情も声もその姿の輪郭ですら、此処からでは認めることは叶わないが、しかしそれでも彼らの瞳から零れる喜びの星はキトの心の水面を静かに、彼自身ですら気付かないほどに穏やかにその光で照らしていた。
 天の藍色の中で煌めく星々は白い光を放ち、大地の影の上で笑い合う星々は今橙の光をそこらじゅうに振りまいている。それこそ太陽の光を浴びては水しぶきを上げ、自身もまた細やかな光を辺りへ届ける昼間の噴水の如くに。
 ぼんやりと空を眺めているキトを見ながらメグは、自分から聞いたくせに興味なさそうじゃない、と少し呆れたような表情をした後で軽く溜め息を吐いた。
 言われてキトは、やっと首をメグの方へと回す。
「いや……名は体を表すのかなと思ってさ」
「なぁにそれ」
「似合うってことだよ」
「そう? 皮肉っぽいかもって思わなくもないけどね、あたしってこんなだし」
「ああ、跳ねっ返りだしがさつだしな」
「怒るわよ」
 キトはよく見ていても分からないほど微かに笑った。
 しかしメグは、キトの口元から少しばかり洩れた吐息の色を誤ることなくその柘榴石にも似た赤銅色の瞳で受け取ると、軽くかぶりを振ってこちらは傍目にも分かり易く微笑んだ。
 星は未だ流れず、目に映るのはまばゆい星々の帯が夜の帳に掛かっているさまばかりである。
 キトは再び空へと視線をやると、やはり其処に一点の柘榴の輝きを見付け、無意識にも目を逸らすことが叶わなくなった。
 夜の影はといえば先まで漂っていた橙の色彩たちをすっかり覆い覆い、星月のための舞台装置を整え終えてしまったようである。風は時折二人を挨拶でもするかのように軽く叩き、小さな笑い声を上げながら去ってゆく。
 彼はちかりと瞬く赤銅の星を見つめたままで呟いた。
「メラグラーナ」
「うん?」
「メラグラーナ、お前の名前だって感じがする。赤い果実……たぶん、心の臓みたいな色をしてるんだろう、それはさ」
「キトもキトって感じがするよ。〈キート〉よりは小さいけど、でもその分簡単には揺らがない湖」
「そうか」
「そうだよ──って、あんたね、何を言わせんのよ!」
 自分が勝手に言い出したんだろと軽く溜め息を吐きながら、キトはちらりとメグの横顔を盗み見る。
 小さく微笑んで空を見ている彼女の髪にも額にも瞳にも星月の光が掛かり、影を背負っては自分と同じように褪せてしまった、かつてはもっと鮮やかだったのだろう柘榴石と竜胆の髪、赤銅の瞳から金の星を生み出させていた。
 その星は沈みゆく太陽の放つ光にも似ている。
 赤い果実のような彼女の心臓、その鼓動がゆったりと伝わってくるようだった。
 その鼓動の中に、傷口を縫い付けた金糸の色が見えたのは果たして気のせいだったのだろうか。
「ねえキト。あたしのことさ、やっぱりメグって呼ばなくてもいいよ。メラグラーナでもいい」
「何で。今まで散々メグって呼べってうるさかったのに」
「うるさくはなかったでしょ、うるさくは。──とにかく秘密、何でもよ」
「……メグ」
「あっ、かわいげがない!」
 覇気すら感じさせる声で生意気と詰め寄るメグに、喉元まで上ってきた笑いを押し止めながらキトは身を引く。
 そうしている内に視界の端で何かが閃き、彼と彼女は咄嗟に顔を上げた。
 光。
 空には一筋、白い軌跡が光を放ちながら残っている。
 それを自覚した瞬間空には幾多もの光が閃き閃き、あっという間に夜の帳を翔ける白い星々が支配した。
 無数に流れる星の、あまりにまばゆい、その燃える命の煌めきに彼らは息を呑み、しばらくそのまま言葉も呼吸も忘れて空を見つめるばかりとなった。
 そして空を覆う流星群に目が慣れてきた頃、その夜に白を描く光たちの奥で、未だ赤い星が立ち上がったまま、己の光を放っていることをキトは唐突に自覚した。
 美しく無垢な白を纏って去っていく星々の中で、あの赤い星ばかりは影の中で一人、痛みの色を放っている。それは傷付いても尚鼓動する心臓の色にも見えた。
 その心の臓が脈を打つたびに、そこから金の光が零れ落ちている。
 キトの心の水面がその光に揺らめいた。
 ああ、そうだ、そうなのだ、赤の星は流れない……
 彼はメグの方へと振り返り、彼女の名を呼んだ。
 それは、冗談みたいな夜だった。
 冗談みたいに、綺麗な夜だった。



20170210

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